ブログというものは、よく分からない。


筆者は、書きたいことがある。
「書きたい」こと、とは何か。

何かを「考える」ことは、人間の行動として、広く一般に行われる。

しかし、それを文字にしたい、となると
誰かに読んでほしい、という心の動きがあるはずではないか。


恐らく、筆者の心理的状態を自己分析するに、

誰かに自分の考えを知ってもらいたい、
或いは
新たな知見を提供してくれる人を探したい、
のである。


なぜ、ブログというプラットフォームを選択したか。

これ以外のプラットフォーム、
TwitterなどのSNSのプラットフォームは、
自分の文章を、フォロワー、という
自分に近しい者の目に半ば強制的に触れさせる。

筆者が意図するのは自分の文章を突きつけることではない。


文章を通じて歩み寄るつもりがない。



と言っても、伝えるつもりはある。
だから、下に砕いたものを書く。



例えば、これはあるS氏の論であるが、

文章といふものから、小説、というものに話を絞る。書き手と読み手の関係性、姿勢について考える。
前提として、書き手と読み手には、距離がある。
書き手の世界に、読み手は入っていく。
書き手の世界と読み手の世界は、当然、異なる。
そのため、この状況を、距離がある、とする。

芥川と直木、がある。

芥川、所謂純文学と言われるものは、書き手が読み手に歩み寄ろうとしない。
ある程度の歩み寄りが書き手にあったとしても、読み手側に距離を詰める必要がある。
割合としては、書き手3、読み手7、ぐらいであろうか。

一方、直木。
上の逆だと思えばいい。書き手7、読み手3。


話を元に戻す。

筆者の文章は、恐らく、少なくとも現時点で思い浮かぶ内容は、
芥川的な、読み手に歩み寄りのない文章である。
(ここで想定する読み手、は、Twitter、などのSNSで繋がる人々である)

然し、筆者の持つプラットフォームは、
これを除けば、
殆どが直木的な、というより寧ろ昂然と疾駆し、眼前に文章を突きつける、というものではないかと感じる。


そういうわけで、ここを選択したのである。










筆者の書く文章、は具体的にまだ存在しない。

アカデミア、について、
黒澤明について、
恋と愛について、
ことばについて、
資本主義、マルクスについて、などなど。


これらがどのプラットフォーム適合するかは、書き手としての自分次第、とも言えるのは承知しておかなければならない。

一体、この文章は何なのか。随筆、随想なのか、ブログ、というものなのか、
先ず、随筆、随想、ブログ、などなどの認識が確立されていないのに、対象について論ずることはできない。

ここまで読んで頂いた方には、これが誰の論か、考えてほしい。
できればレスポンスも頂きたいが、どうすればいいのかも分からない。

まとまりのないまま、であるが、

以上。






分からないで始まり、分からないで終わる。
筆者が生きるであろう世界は、まさしく。
アカデミア、とは。

次にはそれについて。