東京 政治資金をめぐる一連の問題で辞職する東京都の舛添要一知事に対して「今回は報道が頑張った」という声が当の報道界から出ているそうです。確かにきっかけは、週刊文春によるスクープでした。しかし、過熱する一方の報道を目にしながら、言いようのない違和感を抱いた人も多かったのではないでしょうか。(17日、The PAGE)

https://thepage.jp/detail/20160617-00000007-wordleaf


The PAGEによると―


舛添氏をめぐる報道では、こんな“構造問題”も見えてきました。語るのは大手新聞の中堅記者。「都庁担当は政治部ではなく、社会部です。記者にすれば、都庁は首相官邸や外務省などと比べて格下だし、都庁にはふつう、入社数年の若い記者か、やる気を失った記者しかいません」。全国紙の場合、都内版を埋めることが都庁担当の重要な役割の一つであり、「知事の“疑惑”にふだんは目も向いていない」(同)というわけです。


(中略)


結局、日々の地道な取材こそが、いざという時に力を発揮するのではないでしょうか。それがないから、常にウオッチしているはずの政治家らへの取材は甘くなり、問題が起きても記者クラブ内の「なあなあ」の雰囲気の中で追及は中途半端にしか進まず、そしてターゲットがおぼれかけていると見るや今度は一斉にたたき始める――。そんな傾向が続くのではないでしょうか。



― なにを今更という感もしますが、日本のマスメディアはこの程度です。


いや、この程度の国では、この程度の“報道”になるのでしょう。


選挙でも多くの人が舛添さんを選び、国政でも多くの人が自民党政権を支持してるのですから。


でも多くの国民はこれでいいとは思っていません。


舛添知事が辞任して、これで終わり。もう次の知事選に焦点を移しています。


また知事の顔が変われば、それでいいのでしょうか。


多くの国民がいまの政治や行政に不全感や違和感を感じているはずです。


きょうも、ある不登校児のお母さんと話をしていると、日本の教育はおかしい、学校へ行きたくない子どもを“正常”でないと見ていると、怒っていました。


自分たちの行っている教育が“正常”なのか。


なぜ学校へ行きたくなくなるのか、自らの教育について真摯に省みてほしいと話していました。


多数の考えが正しいとは限りません。


政治も、教育もそうです。


古今東西、少数派にこそ真理があるのです。


子どもの頃から、ずっと多数派がキライです。