じいちゃん ばあちゃんに会いたい 縁側とナ フタリンの魔法
『縁側とナフタリンの魔法』
ふとした瞬間に、心の深いところにある「記憶の引き出し」が音もなく開くことがある。
仕事の合間、窓の外を通る見知らぬ老人の背中を眺めていたら、不意に鼻先をかすめたのは、潮風でも排気ガスでもなく、あの懐かしいナフタリンの匂いだった。
八代の古い家。縁側に差し込む柔らかな陽だまりの中で、じいちゃんは愛おしそうにメジロの世話をし、キセルの煙をゆっくりと空に溶かしていた。
じいちゃんの痰の絡む咳も、ばあちゃんの小言も、子供だった僕には少しだけ疎ましくて、日常という景色の中に埋もれていたはずなのに。
「みっちゃん、これ食べんねぇ」
ばあちゃんがタンスの奥から大事そうに取り出したカステラ。
あの頃の僕は、染み付いた防虫剤の匂いに顔をしかめ、「変な匂い!」と本気で嫌がってしまったけれど。
今ならわかる。 あれは、単なるカステラじゃなかったんだ。
僕が来るのを指折り数えて待っていた、ばあちゃんの「愛おしさ」そのものを、タンスの奥で大切に、大切に保管していた証だったんだ。
じいちゃんが旅立って、もう半世紀が過ぎようとしている。
今の僕の心で、あの縁側に座り直したい。
熱いお茶を啜りながら、じいちゃんの話を飽きるまで聞き、ばあちゃんの少ししつこい愛情を全身で受け止めたい。
「もっと、話を聞いておけばよかったな」
後悔は、それだけ深く愛されていたことの裏返しだ。
会いたいという想いが、不意に涙の輪郭を持って胸を締め付ける。
でも、きっと大丈夫。
思い出して、胸がキュンとするたびに、僕はあの縁側にじいちゃんとばあちゃんとともに座っている。
ナフタリンの匂いがするカステラの、あの不器用で、どうしようもなく優しい甘さは、今も僕の血の中に、静かに息づいている…はずだ。
4月16日、10年前の今日『熊本地震』
潮風とひこうき雲 ―湯河原、まどろみの夜に(2025年キャンプ納め 湯河原神谷キャンプ場)
2025年も色々あったけれど、最後は「心からリラックスできる場所」へ行きたかった。
その行先は、湯河原の急な坂を登りきった、空に近い場所にある。
名前は「湯河原神谷キャンプ場」。
界隈では名の知れた場所だが、僕にとっては単なる宿泊地ではない。
一年の澱(おり)を洗い流し、心のささくれを丸く削ってくれる、大切な「止まり木」のような場所だ。
2025年の締めくくり。 僕は愛車に相棒の道具たちを積み込み、住み慣れた逗子の潮騒を背にして、その坂道を登った。
待っていたのは、オーナーの温かな笑顔と、思いがけない「皺だらけのミカン」。 そして、予想もしなかった荒ぶる風と、静かな感動を運んでくる一冊の本……。
これは、僕という一人の「海辺の旅人」が、湯河原の森で見つけた、小さくて、けれどかけがえのない宝物の記録である。
十時を少し回った頃、僕は日常をふわりと背負い直し、愛車のハンドルを握った。
逗子の穏やかな海が、車窓の向こうで「今年も一年、お疲れ様」と声をかけてくれているような気がする。
焦る必要なんて、どこにもない。目的地は逃げないし、道中の景色だって、目的地に辿り着くまでの時間さえも、旅が僕にくれる大切な贈り物なのだから。
材木座から由比ヶ浜へ。 何度となく通り過ぎたはずのこの道も、大晦日を目前に控えた今日という日には、いつもと違う特別な表情を見せてくれる。変わらない波の動きを見ながら、この一年で積み上げてきたものを、心のなかで静かに整理していく。
七里ヶ浜のカーブを抜けた瞬間、視界の先に真っ白な帽子を被った富士山が飛び込んできた。
その凛とした姿に見守られているような心地になって、ぼくは思わず小さく息を吐いた。
その圧倒的な肯定感に触れた瞬間、ふっと心の鍵が外れるのがわかった。
この夏行き慣れた下田へ向かう時も、キャンプへ行く時も、そのひとはいつも変わらずそこにいてくれる。
「焦らずに行けよ」 そんな無言のメッセージを受け取りながら、僕はゆっくりと、確かな手応えを感じながらアクセルを踏み込んだ。
西湘バイパスを抜け、渋滞を避けるために小田原で国道一号線へと舵を切る。 けれど、石橋インター付近に差し掛かると、結局、箱根や熱海を目指す車たちの列に捕まってしまった。
「……まぁ、年末だしな」
赤く連なるテールランプの光を眺めながら、僕は小さく苦笑した。 でも、不思議と嫌な気分ではない。この列に並ぶ誰もが、誰かと大切な時間を過ごすために、期待を胸にこの道を走っているのだ。 そう思うと、ノロノロ運転の渋滞すらも、どこか温かな「旅の彩り」のように思えてくるから、不思議なものだ。
やがて混雑を抜け、湯河原の街へと滑り込む。
馴染みの「ファインズフードマーケット」で、今夜の相棒となる食材たちを選び出す。
地元の新鮮な野菜、少し贅沢な肉、そして冷えたビール。 カゴに入れるたび、心の中に小さな灯火が灯っていく。
さあ、準備は整った。
あの急坂の先にある、静かな温泉と穏やかな時間が待つ「湯河原神谷キャンプ場」へ。
2025年を締めくくる、僕だけの物語が始まろうとしていた。
13:00を少し回った頃、ようやく「湯河原神谷キャンプ場」に辿り着いた。
エンジンを止めると、それまで耳を支配していた駆動音が消え、代わりに冬の乾いた風の音が入り込んでくる。
受付では、同年代くらいの女性スタッフが、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「明日、このサイトには別のお客さんの予約が入っていて……。お手数ですが、明日は別の場所に引っ越していただくことになっちゃうんですけど、大丈夫ですか?」 彼女の申し訳なさそうな、けれど温かな言葉に、僕は小さく頷いた。
「大丈夫です。承知してますから。別のサイトにも泊まってみたいしね」
彼女は「あぁ、ごめんなさい!もう切らしちゃってて」と困ったように笑い、代わりにと、ころんと丸いものを二つ差し出した。 「これ、皺だらけですけど、甘いですよ。良かったら食べてください」 手のひらに乗ったミカンは、確かに見た目は少しお疲れ気味だったけれど、触れると太陽の温もりが残っているような気がした。
今回案内されたのは、初めて利用するCサイトだ。
管理棟がすぐそばにあり、視線を投げれば、湯河原の山々が静かにこちらを見守っている。
サイトの片隅には、ありがたいことに水道と電源が並んでいた。
いつもは設備の整ったサイトは利用していないので「僕みたいな不器用なソロキャンパーには少し贅沢すぎるかな」 そう苦笑いしながらも、その便利さが、誰かにとっての大切な安心感に繋がっているのだと思うと、なんだか微笑ましい光景に思えた。
さあ、腰を据えて始めよう。 皺だらけのミカンの甘さに、そっと一年の疲れを溶かしながら。
時計に目をやると、針は13:30を指していた。
15:30には、このキャンプ場の宝物である温泉の予約を入れている。
「勝負は2時間か……」 僕は少しだけ背筋を伸ばし、愛車から道具たちを運び出した。
地面に並んだギアの山を見つめ、ふと苦笑いが漏れる。
ソロキャンプとは思えないこの物量の多さは、僕のこだわりが形になったものだ。
けれど、そんな「重装備」に囲まれて満足している一方で、僕は今、二輪免許の取得に挑戦している。
いつか、この愛すべき道具たちの多くを削ぎ落とし、身軽なバイクに積み込んで、風を切りながらここへ来るために。
「いまの俺がやろうとしていることは、矛盾だらけの無謀かな?」
心の中でそう呟いてみたけれど、そんな自分勝手で無茶な夢を追いかけている時間も、案外嫌いじゃない。
今日の相棒は、使い勝手のいい中華製の激安ティピーテントと、長年愛用のアクアクエストの3×3タープだ。
これまで何度も組み合わせては、「何かが違う」と首を傾げてきた難問。
タープに寄る小さな皺が気になったり、連結の角度に違和感を覚えたり……。
けれど、今日という日は違った。
試行錯誤の末、タープの片側をぐいと跳ね上げると、驚くほどスムーズな導線が生まれた。
なにより天幕の下には、十分な高さと開放感。 ピンと張られた布地が、冬の光を弾いている。
「……よし、完璧だ」
設営を終えたばかりの自分のサイトを、少し離れた場所から眺めてみる。
夕暮れに向かう山々の影を背負い、誇らしげに立つ僕の「城」。
そんな自分の仕事ぶりにしばし見惚れてしまうのは、僕がナルシストだからだろうか。 いや、きっと違う。
一生懸命に自分の居場所を整えた者にだけ許される、ささやかな「誇り」のようなものなのだと思う。
さあ、約束の時間まであと少し。 心地よい汗をかいた体は、もうあの熱い源泉を求めていた。
予約表の15:30の欄に、自分のサイトNO.を改めて見つけた。
この後、夜の21:00、そして明日の清々しい朝6:00。
今日明日で三度、あのお湯に身を委ねる計画だ。そんな贅沢を、自分に許してもいいだろう。
浴室の扉を開けると、そこには僕が子供の頃にタイムスリップしたような、いかにも昭和な光景が広がっていた。
見慣れたモザイクタイル張りの、年季の入った浴槽。 決してピカピカの最新設備ではないけれど、そこにはどこか人の温もりが染みついているような気がする。
そして何より、ここは温泉地・湯河原なのだ。 ライオンの口から滔々と注がれるのは、贅沢な源泉掛け流し。
湯船の縁から溢れ出したお湯が、洗い場の床を惜しみなく濡らしていく。 それだけ絶え間なくお湯が入れ替わっているからこそ、湯面は鏡のように澄み切っている。
「……あぁ、これだ。これだよ」
肌が驚くような熱めの湯に、ゆっくりと指先から沈めていく。
まだ外が明るい、日の高いうちからお湯をいただく。 これ以上の贅沢が、大人の休日に他にあるだろうか。
一年間、僕を支え続けてくれたこの体に「お疲れ様」と声をかけながら、熱い湯の中にこわばった心をゆっくりとほどいていった。
風呂上がり、火照った頬を冬の風が優しく撫でる。
一段低い場所にある管理棟から、ふと自分のサイトを見上げてみた。
そこには、僕がさっきまで一生懸命に設営した、愛すべき「城」が誇らしげに立っている。
「やっぱり、いいなぁ」
自分の居場所を少し離れた場所から眺める。 たったそれだけのことが、どうしてこんなにも満ち足りた気持ちにさせてくれるんだろう。
さあ、僕の「城」へ帰ろう。
夜の帳が下りる前に、2025年最後の宴の準備を始めるとしようか。
風呂上がり、心地よく火照った体のまま、僕は愛用のモーラの斧を手に取った。
ずっしりとしたその重みが、手のひらを通して僕の心に「遊びの時間」の始まりを告げる。
薪の割れ目に斧の刃を添え、それを楔(くさび)に見立てて、太い薪をハンマー代わりに振り下ろす。
コン、コン、パァン! 静かな山あいに、小気味よい音が響き渡った。
その瞬間、弾けた断面から檜(ひのき)の瑞々しい香りが、ふわっと辺りに漂う。
「……いい匂いだなぁ」 思わず鼻をくすぐるその香りは、どんな高価な香水よりも僕の心を落ち着かせてくれる。
夢中になって手を動かしているうちに、足元には十分すぎるほどの薪が積み上がった。
せっかく温泉に入ってさっぱりしたというのに、気づけば額にはうっすらと汗が滲んでいる。
でも、これがいいのだ。 自分の手で薪を割り、自分の力で火を熾すための「いい運動」。
この一見無駄なような手間こそが、僕にとっては最高に贅沢な時間なのだから。
準備は整った。 さあ、この檜の香りを閉じ込めた薪たちに、今夜の明かりを灯すとしよう。
ふと顔を上げると、近くのサイトからも青白い煙がゆらゆらと立ち上っていた。
あちらでも、大切な誰かのために、あるいは自分自身のために、夕食の準備が始まったのだろう。
このキャンプ場を包み込む穏やかな空気感が、そこかしこの焚き火の気配によって、よりいっそう濃くなっていく。
使い込まれた愛用の食器たちが、いつもの場所に静かに収まった。 そして今日、もう一つの楽しみがある。
手に入れたハンギングラックに、新しく見つけた専用の天板を組み合わせた「僕だけの機能的な司令部」だ。
「……うん。これは便利だ」
しっくりと馴染んだその使い勝手の良さに、僕は一人で小さく頷く。
手頃な道具であっても、自分のスタイルに合わせて組み上げれば、それはもう立派な一級品の相棒だ。そんな「自分なりの正解」を見つける瞬間が、キャンプの時間を何より贅沢にしてくれる。
「さて、僕も始めようか」
僕はマッチを擦り、檜の香りが残る薪の山に、そっと命を吹き込んだ。
小さな火種がパチリと音を立て、2025年最後の夜を照らす明かりが、ゆっくりと、けれど力強く育ち始めていた。
ふと顔を上げると、快晴の夜空に、凛とした半月が浮かんでいた。
まるで、ここまでの僕の道のりをずっと眺めていたかのように、優しい光で僕を見下ろしている。
「よう、見ててくれたのか」
そんな気恥ずかしい言葉を、心の中でそっと呟いてみる。 煌々と輝く満月のような派手さはないけれど、控えめに夜を照らすその姿は、今の僕の気分に不思議としっくりきた。
静かな月明かりと、パチパチとはぜる焚き火の音。
2025年という一冊の本が、あと数ページで閉じられようとしている。
その物語の余白を埋めるように、月はただ静かに、そこにあった。
焚き火の熱を頬に感じながら、まずは毎晩の晩酌でお馴染みの「サッポロ ゴールドスター」のプルタブを引き抜いた。
小気味よい音と共に溢れ出す黄金色の液体を、喉に流し込む。
「……ふぅ、生き返るな」
キャンプの夜、最初の一口に勝る贅沢なんて、そうそうない。
メインディッシュは、昼間に調達したジャイアントソーセージだ。
熱々に熱したスキレットに乗せると、弾けるような脂の音と、食欲をそそる香ばしい匂いが立ち上った。
それをあえて割り箸ではなく、フォークとナイフを使って気取っていただく。
「たまには、こういうのも悪くない」 武骨なキャンプの時間の中に、ほんの少しの「丁寧さ」を混ぜ込む。
そんな遊び心が、料理の味をさらに深めてくれる気がした。
続いて、冷えた体を芯から温めてくれる鶏つみれと野菜の鍋に箸を伸ばす。
立ち上る湯気の向こうで、ビールの二番手、爽やかな「キリン 晴風」の出番だ。
熱々の鍋をハフハフと頬張り、キリッと冷えたビールで追いかける。
冬の寒さと、焚き火の熱。鍋の温もりと、ビールの冷たさ。
そんな心地よい矛盾に包まれながら、僕は至福の時間をゆっくりと味わった。
見上げれば、変わらず半月が僕を見守っている。
「これ以上、何を望む必要があるんだろう」
独り言が、白い息に混じって夜の闇に溶けていった。
夜がしんしんと深まってきた。 焚き火の爆ぜる音が小さくなるのと呼応するように、僕の心も凪いでいく。
こんな穏やかな夜には、力強い炎よりも、そっと寄り添ってくれるような「ろうそくの灯」がよく似合う。
ふと思いついて、飲み終えたアルミ缶をナイフで切り抜き、即席のキャンドルホルダーを作ってみた。
形は少し歪(いびつ)かもしれないけれど、その場で知恵を絞ってこしらえた「現地調達」の道具には、不思議と愛着が湧くものだ。
アルミの肌に反射して、小さな炎がゆらゆらと揺れている。 その頼りなくも温かな光を見つめていると、今日一日の出来事が、まるで遠い昔の美しい記憶のように思い出される。
「……さて、そろそろかな」
夜の冷気が、僕の吐く息を白く染めていく。 この小さな光が消える前に、もう一度、あの熱い源泉に身を委ねてこようか。
そうすればきっと、2025年最後の眠りは、羽毛のように優しく僕を包み込んでくれるはずだ。
21:00の風呂上がり。火照った体に追い打ちをかけるように、最後の一杯を胃に流し込んでから、シュラフの温もりに潜り込んだ。
枕元で本を広げてみたものの、ページをめくる指先が夜の冷気にすぐにかじかんでくる。
「……おとなしく、寝るとするか」
そう呟いたかどうかも怪しい。抗いようのない心地よい眠気が押し寄せ、僕はそのまま深い闇へと落ちていった。
目が覚めたのは、朝の5:00を少し過ぎた頃だった。 辺りはまだ、濃紺の闇に包まれている。
僕はシュラフの中で丸まりながら、今日予定されている「サイトの引っ越し」の段取りを頭の中で描いていた。
移動という少しの手間さえも、この場所では新しい景色に出会うための儀式のように思えてくる。
6:00。 外の世界が白々と明け始め、
寒さが肌を刺すが、温度計ほど寒くはない。湯河原の冬は暖かいのだ。
三度(みたび)、あの湯殿へと向かう時間だ。
「さすがに、この時間は一番乗りだろう」 鼻歌まじりに暖簾をくぐったが、世の中には上には上がいるものだ。すでに5:30から入浴しているという「つわもの」がいて、僕は惜しくも二番風呂となった。
けれど、そんな小さな敗北感さえも、同じ湯を愛する仲間がいるのだと思うと、どこか可笑しくて温かい。
風呂から上がると、夜明けの光を浴びて山々がくっきりとその輪郭を現していた。
急いで焚き火を熾し、湯冷めしないようにその熱に寄り添う。
さあ、朝食の時間だ。 昨日もらった「皺だらけのミカン」とヨーグルト。そして、コーヒーと牛乳。
シェラカップにたっぷりと注ぎ、コーヒー牛乳にして温める。
今朝は焚き火の直火ではなく、あえてSOTOのガスストーブを選んだ。
煤で食器を真っ黒に汚してしまうと、後片付けが大変だからという、僕なりの小さな知恵だ。
「うん、正解だったな」
青い炎を見つめながら、僕は一人で頷いた。
この選択が、この後の僕をどれほど助けてくれることになるのか。 この時の僕は、まだ知る由もなかった。
さて、焚火の火を落として「引っ越し」の時間だ。
せっかく広げた道具を一度仕舞い、またすぐに広げる。
効率という物差しで測れば、これほど「ご苦労なこと」はないだろう。けれど、そんな非効率な手間さえも遊びに変えてしまうのが、キャンプという名の贅沢なのだ。
実は、今回のサイト選びには、ちょっとしたドラマがあった。
以前から気に入っていた、より山深いワイルドなエリア。そこに足を踏み入れたくて事前に問い合わせたのだが、管理人さんから届いたのは、なかなか手強い返信だった。
「現在、上のサイトへ続く砂利道の轍(わだち)が酷い状態で、四駆車でないと厳しい状況です。」
「四駆でないと、厳しい」 その言葉に、僕は覚悟を決めた。 利便性の良いAサイトは空いていたけれど、そこは隣のキャンパーとの距離が近く、僕が求めている「心地よい孤独」や「解放感」からは少し遠い。
狙うは、悪路の入り口に一番近い「E4」サイト。 だが、そこには先客がいた。
こんなに広い山の中で、わざわざ隣り合って肩を寄せ合うこともあるまい。
「……よし、あっちを試してみるか」
僕が目をつけたのは、少し鬱蒼とした空気が漂う「Dサイト」だ。
そこへ至る道は、豪雨の爪痕が生々しく残り、大きくえぐれているEサイトへ向かう道を挟んで向かい側。
僕の相棒は、四駆ではないインプレッサだ。もし轍にはまって進めなくなれば、そこからは気の遠くなるような「手運び」の苦行が待っている。
僕はハンドルを握り直し、ゆっくりとアクセルを吹かした。
「……頼むぞ」
急勾配の坂道。インプレッサの呼吸を感じながら、えぐれた轍を慎重に避けて、ミリ単位で進路を選ぶ。 ガリッという嫌な音がしないよう、全神経を指先と足先に集中させた。
すると――。 一度も車体の腹を擦ることなく、僕のインプレッサはスルリとDサイトの懐へと飛び込んでくれた。
「やった……!」
思わずハンドルを叩いて、一人で声を上げた。
無事に乗り入れができたことで、引っ越しの労力は大幅に減る。
小さな冒険に勝ったような高揚感と、相棒への感謝。ラッキー、という一言では片付けられない、静かな達成感が胸の中に広がった。
サイトの変更を伝えるため、僕は再び管理棟へと足を向けた。
ちょうどそこへ、オーナーがお出かけ先から戻られたところだった。
「すみません、EサイトからDサイトへ変更してもいいですか?」
僕の申し出に、オーナーは豪快に笑って頷いてくれた。
「いいよいいよ! だよね、せっかくこんなに広いんだから、一箇所にチマチマ固まって過ごすことなんてないさ」
その屈託のない笑顔に、こちらの心までふっと軽くなる。
けれど、どうしても気になっていたことを、僕は思い切って尋ねてみた。
「あの……Dサイトより上の場所は、もう今後使えなくなっちゃうんですか?」
お気に入りの場所が失われてしまうかもしれないという、キャンパーとしての切実な不安だった。
オーナーは少し表情を和らげ、静かに語り始めた。
「とにかく最近の雨の降り方は、尋常じゃないんだよ。どれだけ砂利を入れて道を整えても、次の大雨ですぐに流されちゃう。いたちごっこなんだ。……でもね、来年の早いうちに落ち着いたら、今度はコンクリートでしっかり舗装しようと思ってるんだよ」
その一言に、僕は心底ホッとした。
「あぁ、良かった。またあそこへ行けるんだ」
それにしても、ここ数年の自然の荒ぶり方は、オーナーの言う通り尋常ではない。 ここへ来る道中や、伊豆方面へ向かう道のあちこちで崖地の補修工事が行われていたのを思い出す。 かつての「当たり前」が、激しい雨によって少しずつ削り取られていく。 そんな時代だからこそ、こうして場所を守ろうと奮闘してくれる管理人の存在が、僕らには何よりも心強いのだ。
「来年、道ができたらまた必ず来ますよ」
心の中でそう約束しながら、僕は新天地となるDサイトへと戻っていった。
そこには、僕のインプレッサが静かに主人の帰りを待っていた。
二度目の設営は、手慣れたものであっという間に片付いた(そりゃあそうだ、ついさっきまで広げていた道具たちなんだから)。
一汗かいたところで、本日二度目の湯殿へと向かう。 実は、予約表に名前を書いたわけではない。さっきオーナーと立ち話をした際、
「お風呂、次は何時から入れます?」
と何気なく尋ねてみたのだ。
オーナーは少し考え、
「うーん、お湯がたまるまで時間がかかるからねぇ」
と前置きしてから、悪戯っぽく笑ってこう続けた。
「でも、浴槽の半分もお湯が溜まってりゃ、浸かるには十分だよ。入っちゃいな!」
時計を見れば、まだ13:00前。
「いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」
これがこのキャンプ場の正攻法なのか、それともオーナーの粋な計らいなのかはわからない。けれど、連泊者だけに許された特権だと思って、ありがたく頂戴することにした。
入口にある「空いてます」の木札を、自分の手でくるりと裏返す。 まだ誰もいない静かな浴室。半分ほど満たされた源泉は、誰の肌にも触れていない無垢な熱を湛えていた。 真昼間から、独り占めの温泉。これ以上の贅沢が、この世にあるだろうか。
風呂上がり、火照った肌を冬の風にさらしながら、買い出しのために車を走らせた。
向かったのは、お馴染みのファインズフードマーケット。
そこで選び抜いた、今夜の「精鋭メンバー」をここで紹介しておこう。
サッポロ黒ラベル(この時期ならではの箱根駅伝ラベル)、キリン一番搾り、そしてガツンとくるキリンラガー。 しめて、合計3リットル。
「……我ながら、よく飲めるもんだな」
クーラーボックスの中で冷え切った缶の山を見て、思わず苦笑いが漏れる。 けれど、いいじゃないか。 ここは湯河原。空には冬の青空が広がり、足元にはお気に入りのサイトがある。 最高の舞台は整った。あとは、2025年を締めくくる最後の夜を、この琥珀色の液体たちと共に愉しみ尽くすだけだ。
今回の旅には、長年連れ添ってきた大振りの「鉞(まさかり)」を持ってこなかった。 理由は、単純だ。重たいから。
体への負担を少しだけ労って、今回は軽量なモーラの斧と、バトニングもこなせる刃厚の厚いモーラナイフだけをバックパックに忍ばせてきた。
ただ、一つだけ誤算があった。 これまでは鉞の背をハンマー代わりに使っていたのだが、それが手元にない。
ペグを打つにも、斧を楔(くさび)にして薪を割るにも、叩くための「相棒」が必要だった。
「……よし、作ってみるか」
足元に転がっていた、手頃な太さの薪を拾い上げる。 手に馴染む重みを確認してから、斧の先を当て、握りやすいように少しずつ丁寧に削り込んでいった。 欅(けやき)だろうか。驚くほど固く、その分、ずっしりと頑丈だ。
削るたびに、木の清々しい香りが立ち上る。 時間をかけて形を整えていくと、ただの「木っ端」だったものが、僕の手にぴたりと吸い付く「道具」へと生まれ変わっていく。
「うん。上出来だ」
ペグを打ち込めば力強く、斧を叩けばその重みをしっかりと伝えてくれる。 高価なブランド品のギアもいいけれど、その場にあるものを知恵と手間で形にした「手作りの道具」が加わると、キャンプの時間はことさら誇らしく、心地よいものに変わる。
こうして少しずつ、この場所での僕の暮らしが「僕らしく」磨かれていくのが、たまらなく嬉しかった。
薪の用意は万端だ。さて、このまま火を熾して食事の支度にかかろうか。
そう思った矢先、ふわりと冷たい風が吹き抜けた。
「風がでてきたな」
森の深い懐に抱かれたような、ここDサイト。鬱蒼と木々が茂るこの場所では、ほんの小さな失火も許されない。自然の懐を借りて遊ばせてもらっている以上、火の扱いには人一倍、臆病なくらいがちょうどいいのだ。
「……よし、少し様子を見るか」
僕は自分にそう言い聞かせ、焚き火を熾すのをぐっと堪えることにした。
風はいずれ、夕暮れと共に凪いでくれるはずだ。
火の準備を止めた途端、時計の針が昼飯時をとうに過ぎていることに気がついた。急に、お腹が空いた。 まずは、クーラーボックスからキンと冷えたビールを取り出し、一息つく。
「くぅ……、沁みるなぁ」
昼下がりの静寂に、喉を鳴らす音だけが響く。
肴は、昨日の残りのジャイアントソーセージ。それをスキレットでさっと焼いて、熱いところを口に放り込む。
パリッとした皮が弾け、ジューシーな肉汁が広がる。でも、これはまだ今夜の宴の「序の口」に過ぎない。
食事を済ませると、あとはもう、急ぐ理由なんてどこにもなかった。 お気に入りの本を広げ、椅子の背にもたれかかる。 風が梢(こずえ)を揺らす音を遠くに聞きながら、物語の世界へとまったりと沈み込んでいく。
時計の針の動きを忘れ、ただ自分に還る時間。 焚き火の火が灯るまでの、こんな贅沢な「待ち時間」も、悪くない。
風は、僕の期待をあざ笑うかのように、なかなか止んでくれなかった。
焚き火台の側で、僕は所在なく「恨めしげ」に冬の空を仰ぎ見た。
けれど、そんなふうに顔を上げていたからこそ、出会えた景色があった。
「あ……」
高い、高い蒼穹を、一本の白い線が鮮やかに切り裂いていく。 見事なまでの「ひこうき雲」だ。 目を凝らせば、その先頭に銀色の機体がはっきりと見えた。
深い森の木立に縁取られた空を、飛行機はまるで定規で線を引くように、ゆっくりと、けれど確実に横切っていく。 地上まで届く音は、何ひとつない。 音もなく、ただ優雅に、木々の間を縫って走る銀色の小魚のようなその姿。
焚き火が熾せなくて、ちくしょう、と不貞腐れて空を見上げなければ、きっとこの小さな奇跡に気づくことはなかっただろう。 そう思うと、止まない風への苛立ちは、いつの間にか消え失せていた。
「恨めしげに見上げた空に、まさかこんなご褒美が隠れていたなんて」
西の空へと消えていく銀色の翼と、淡く残る白い筋を見送りながら、僕は独りごちた。
思い通りにならない不自由な時間があるからこそ、出会える美しさがある。 それだけで、わざわざここまでキャンプに来た甲斐があったというものだ。
不機嫌だった僕の心は、ひこうき雲が描いた一本の線によって、驚くほど真っ直ぐに、前向きに整えられていた。
太陽が西の空へと傾き始め、森の陰影が少しずつ濃くなってきた。 いよいよ、夕刻の気配が近づいている。
「さて、そろそろかな……」
僕は時計の針を確認し、三度(みたび)、管理棟へと足を向けた。
16:00。明日の入浴予約が始まる時間だ。
洗面室の前に置かれた予約表を覗き込むと、ちょうど16:00の枠がぽっかりと空いている。
「よし、今だ」
誰に遠慮することもない。僕はそのまま吸い込まれるように脱衣所へ入り、服を脱ぎ捨てて浴室へと飛び込んだ。
ついでに21:00と、明朝6:00の枠にもしっかりと自分の名前を書き込む。
この至福の湯を、心ゆくまで、とことん楽しみ尽くしてやろうと決めたのだ。
風呂上り、脱衣所に置かれたタオルを手に取ると、指先がふわりと柔らかな質感に包まれた。
このタオルの心地よさは、以前から知っていた。
何度かここを訪れるうちに、僕はすっかりこの「ふかふか」の虜になっていたのだ。
けれど、湯上がりの火照った肌を優しく包み込んだ瞬間、あらためて、深く、そう思った。
「……やっぱり、いいなぁ」
この古びて味わい深い浴室の雰囲気には、少し不釣り合いなほどの贅沢な肌触り。 でも、だからこそ、そこにはオーナーの「せめてこれくらいは、最高のものを使ってほしい」という、言葉にならない無垢な優しさが宿っている気がする。
知っていたはずの心地よさが、この静かな夕暮れ時、僕の心に新しく、そして確かな温もりを運んできてくれた。
サイトへ戻ると、状況はさらに深刻になっていた。
「……でも、宴はやめないぞ」
僕は独りごちて、相棒をバッグから取り出した。 今回のMVP、SOTOのガスストーブだ。
実は出発前、「荷物になるから置いていこうか」と迷った道具だった。けれど、今の僕にとってこれは単なる道具ではない。お湯も沸かせず、食事も作れないという「死活問題」から救い出してくれる、唯一無二の救世主だった。
長年のキャンプキャリアにおいて、これほどストーブの青い炎をありがたいと思ったことがあっただろうか。
今夜のメインディッシュは、鶏軟骨。
ガスストーブの確かな火力がなければ、ただの「冷たい塊」で終わっていたはずの食材が、香ばしい音を立てて僕の胃袋と心を温めてくれた。
しかし、風は収まるどころか、唸りを上げて勢いを増している。これでは焚き火どころか、外に座っていることさえままならない。
風はますます猛り、キャンドルの火さえ無慈悲に吹き消していく。
僕は早々に降参し、前線の砦であるテントの中へと避難した。
狭い空間で広げたのは、森沢明夫さんの『癒し屋キリコの約束』。
外の喧騒をよそに、物語の中に潜り込む。森沢さんの描く世界は、いつも温かくて後味が良い。
荒れ狂う風の音に削られそうになる僕の心を、物語が優しく、そして確かに埋めてくれた。
しかし、現実は容赦なかった。 スマホで予報を確認すると、湯河原の風速は8メートル。それが明け方まで続くという。
バサバサと、悲鳴のような音を立てて激しく揺れるテントとタープ。
「……頼む、持ちこたえてくれ」
暗闇の中、ポールに伝わる震えを感じながら、僕は一睡もできないまま朝を待つことになった。
自然の猛威と、本の中の優しさと。 あまりに濃密で、あまりに長い夜が、ゆっくりと更けていった。
朝五時過ぎ。まだ闇に包まれた森の木々は、風を纏って異様な唸声を上げている。
けれど、空気がわずかに緩んでいた。嵐のピークは越えたのだ。
昨夜は宴どころではなかったから、腹の虫が鳴っている。
僕はテントのジッパーを開け、冷たい風を入れながら(ガス中毒への用心だ)ストーブに火をかけた。
時折吹き込む強い風にびくびくしながら啜る、熱い朝ラーメン。
気づけば気温は8度以上まで上がっていた。
十二月の早朝とは思えない、妙に生暖かい風が、嵐の終わりを告げているようだった。
薄明かりのなか、昨夜を共に戦い抜いたタープとテントを確認する。
「……よく耐えてくれたな。ありがとう」
何度も「車に避難すべきか」と迷ったけれど、彼らは僕を信じて踏ん張ってくれた。その健気な姿に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
朝六時。気を取り直して最後の入浴を楽しんでいたとき、突然、視界から色が消えた。 浴室のブレーカーが落ちたのだ。
けれど僕は慌てず、懐中電灯を点けた。実は昨日も同じことがあり、スタッフの女性が直すのを偶然見ていたのだ。こんなトラブルを二度も引き当てるなんて、運がいいのか悪いのか。僕は闇の中で独り、苦笑した。
迷わず服を着て台所へ向かい、慣れた手つきでスイッチを戻す。 「ブレーカー、落ちませんでしたか?」 奥から現れたオーナーの奥様らしき女性が、心配そうに声をかけてきた。 「大丈夫、戻しておきましたよ」 「あら、よかった……。わかる方で助かりました」
もし女性や子供だったら、パニックになっていたかもしれない。 でも、そんなトラブルさえも、今の僕には心地よい「宿題」に思えた。
強風を凌ぎ、暗闇を自ら照らす。そんな経験が自分を少しずつ更新させてくれるから、ひとりキャンプはやめられない。
9:12 撤収完了。
ゴミまで回収してくれる至れり尽くせりのホスピタリティに感謝し、最後に見えたオーナーの後ろ姿を追いかけた。
「お世話になりました。来年もまた来ます。よいお年を!」
僕が声をかけると、オーナーは人懐っこい笑顔を浮かべ、大きく手を振ってくれた。
帰路の車窓から見える下り車線は、気の毒になるほどの渋滞が続いていた。
「みんな、気をつけて。良い休日を」 そんな願いを込めながらハンドルを握る。
あっという間に、見慣れた七里ガ浜の海が見えてきた。
午前中の太陽が、南の空から海面をきらきらと叩き、昨夜の狂ったような風が嘘だったかのように穏やかに凪いでいる。
「ただいま」
潮の香りがする空気を胸いっぱいに吸い込む。 嵐と、温かな湯と、一冊の本。 それだけのことが、僕の心をごしごしと磨き上げ、新しい一年を迎えるための真っ白なキャンバスに戻してくれた。
海面を跳ねる光が、あまりに眩しかった。
【解説:『湯河原、まどろみの夜に』によせて】
本書は、一人の男が「日常」という重荷を一度背負い直し、自然という鏡を通して自分自身を調律(チューニング)していく過程を描いた、極上のロード・ムービーのような物語だ。
舞台は、湯河原の坂の上に佇むキャンプ場。
そこにあるのは、豪華な設備ではなく、オーナー夫妻が注ぐ「当たり前の温かさ」である。
著者は、吹き荒れる八メートルの暴風という「試練」を、一冊の本とストーブの青い炎で、静かな「まどろみ」へと変えてみせる。
特筆すべきは、著者のまなざしの優しさだ。渋滞を「旅の彩り」と呼び、揺れるテントに感謝し、突然の停電すら「学び」として受け入れる。その姿勢は、私たちが忘れかけている「不自由を愉しむ」という心の余裕を思い出させてくれる。
七里ヶ浜で見送ってくれた富士山、帰路には鎌倉の海が「おかえり」と笑っているように見えるのは、景色が変わったからではない。旅を通じて、著者自身の心が磨き上げられ、新しい光を反射しているからに他ならない。
読後、私たちの心にも、あの「皺だらけのミカン」のような、太陽の温もりが微かに残る。そんな、冬の朝の光のように澄み渡った一編である。
(AI執筆パートナー:Gemini 3 Flash)




















































































