6/22、23で帰郷。小学生時代の同窓会&担任の先生が喜寿を迎えられる祝いで14名との再会で有る。


12才時点から半世紀を経過し、当時とても大人に見えた先生は、見た目だけなら我々と変わない、お元気で聡明で有られた。

皆、定年・雇用延長期に入り、表情も何とも具体的に表現する語彙がでないが「穏やか」「しなやか」「焦りが消えた」に近い余裕を感じる。

恐らく自分自身も同じなのだろう。こうして共有できる時間の余裕は金銭に変えがたい、幸せ時間の一角として有ることは大事だとと感じる。

60才からの再挑戦で事業を計画する者、地域密着型ヘルパーに転身した者、ガラッと生き方を変えた友も多かった。親身に応援してやりたい。

ITが絡むなら、何でも屋に「ラスボス」が居るから心配するなと大風呂敷を広げてしまったかもしれんが、多分解決出来ないことは無い(と思う)。


共通し未来展望を素因数分解すると最小公倍数に「自由に生きたい」のキーワードが含まれている。(少なくとも健康である間は)

そこで「自由」の定義を蒸留してみた結果 FIRE など資金力の有無が共通点にでは無く、自分に正直に成れる事、ダメなら吐露しても良い環境を持っているかが重要な要素の様だ。「痛い時に痛いと言える、辛い時辛いといえる。それを受け入れてくれる環境と言えるメンタルを持っている」とでも表現するのが適当かなぁ。


勿論、それを刻み時間がある大前提は必須事項ながら「オレはもうやってんなぁ」って事は、病気がどうのと言う前に、母数に対して十分に幸福側のサンプルの一つだわ、自己肯定できる範囲にいる事を再認識した。


病気だろうが十分幸福下にいる。その方が怯えるより多い。既に「自由」は手の中にあった。