縄文に思いを馳せるピナコラです。
三内丸山。
ついに辿り着いた。
(ここから想いのたけを長々と述べているので、ご興味ナッシングの方はイイネだけ押してwスルーしちゃってくださいね笑)
ボランティアガイドさんに連れられて遺跡の中へ。
あたしが行った8月末には1時間ごとにボランティアガイドさんの説明ツアーがあった。行かれる方は少ないと思うけれど、できればガイドさんと一緒に回るのが良いです。時間が合わない人は入り口のところに三内丸山についてまとめたショートフィルムコーナーがあるので、それを観てから遺跡に入るとある程度理解しやすいと思います。お役立ち情報w。
建物はだいたい復元されたものとわかってはいるのであるが、この草の下で縄文の人々の営みがあったと思うと、すごく感慨深い。
可憐な小さい花が小首を傾げながら風にゆらめいていて、妙に儚げ。
大人になってからこういう草の丘を見たことあったかな。そうして縄文の人もこんな景色をみていたのかしらん?(←はやくも感傷的になる笑)
まずは盛り土。
いろんなものを「廃棄」していた場所。
縄文時代ったって、ながーい。
紀元前13000年前ぐらいから
1万年ぐらい続いていたといわれており
三内丸山はBC3900〜2200年ぐらいの
縄文遺跡。
それでも悠に1700年ほどの幅がある。
1700年といえば今でいえば古墳時代ぐらいまで遡る。であるので、掘ると層になった場所から相当いろんなものが出てきますよね。
側面に出っ張っているのが出土しているカケラという由。
地層の断面を剥がしたもの。
えろえろ埋まってます。
今見ると三内丸山の外の看板も
盛り土をイメージして作られてたんですかね。
集会所であろうと考えられている復元建物へ。
前を行くのはボランティアガイドさん。
質問するとわかる範囲で答えてくれる。
遺跡の入り口で、受付嬢に根掘り葉掘り細かい質問をしていたオッさんがいたが、そらまあ受付嬢だってたっしょうは勉強していると思うけれど、ジョーモンの些細なことを聞いたって答えられるわけないじゃん。だいたいわかっていないことの方が多いんだから。
困り果てて事務所の中から学芸員のような方が呼ばれていたけれど、そのあとどうなったかなw。
柱はおそらく防虫のために焦がしてあったらしい。ということは焦げた柱が出たということですよね。柱は全て約35センチの尺で揃っているという。単位の概念が既にあった。
茅葺きなのは、おそらくそうであろうという推測。
お墓と思われる場所。
大人の墓は道に沿っているということ。
なんでかな?
というか道があって集会所があって、
大集落だったみたいです。
(居住跡が大量発掘されている)
そらそうね。
1700年以上人が暮らしていたんだから。
子供の墓は大人とは別の場所にあって
穴を開けた土器に入っていたらしい。
骨は出ていない。
石が入っているものもあるという。
土器に入れたのはなんのためなのかなあ。
子供は生まれてもずいぶん死んだんでせうね。
やはり哀れだと思ってかな。
同様に出産で死んだ女性もたくさんいたに違いない。
当時の平均寿命は30代だということ。
復元された掘立柱。
柱が立っていた穴は有名だけれど
この直径の栗の巨木があったのも凄いし
さらにそれを立てたってところが
既に技術があったんですね。
柱の間隔は等間隔でやはり
35センチ基準であるという。
35センチはどこから?
腕の長さではないかと推測されている。
栗の柱のレプリカ。
掘り出された木は博物館の中で展示されている。
縄文土器といえば
こういうのを思い浮かべる。
世界遺産に登録された北海道から北東北にまたがる縄文遺跡群はシンボルマークが縄文土器の形をしており、しかも北海道と北東北を縄文紋様で繋ぐデザインでとても良いと思った。
ヒスイが出土している。
ということは糸魚川の方まで交流があった。
その頃の人の感覚だと、出かけたら何年も戻ってこないということも普通のことだったんじゃないかな。なんかこう、浦島太郎的なことは時々あったんじゃないかな、などと思いを巡らせてみる。
そうして糸魚川にはどれほどのヒスイがあったのでせう。それを掘って各地に運んだヒスイの民がいたのかしらん。
ヒスイ王国があったのかなー。
(いやまだ王国はないか。。。)
材質の異なる矢尻も、たくさん出土。
ここの展示がなかなか良いのですよ。
矢尻のプレゼンテーションもそうだけれど
展示担当の方のセンスが良いのだと思う。
掘ればたくさん出土するんですね。
一つずつ展示しつつ、さまざま形の土偶が大量に出てるということがよくわかります。
有名な土偶。
三内丸山のシンボルになっております。
こっちもセンスが良いです。
ミュージアムショップに絶対この形のクッキーがあると思ったけれど、残念なかった。
教科書に出ている縄文ポシェット。
想像より大きかった。スマホが入るくらい。
入っていたのは胡桃が1粒。
掘立て柱の穴の中にあった栗の木の実物はこちら。巨大な森があったんでせうね。
盛り土の中にあった鯛の骨。湿地で空気に触れないところだったため残っていた。この骨から類推するに、体長1メートルの鯛らしい。
その頃は現代よりも気温が2.3度高かったということなので、海も今よりは近くにあって、森からも海からも豊かな恵みがあったんですね。
しかし1メートルって。。。
いろいろな種子も出土しており
実を取るために育てていた由。
そうしていつもあたしが感動するのは
縫い針の形態が古今東西南北
発明された当時からほとんど変わっていないと思われること。
どこの博物館で見てもこの形をしている。
車輪が人類史上の大発明だと聞いたことがあるけれど、針と糸はとにかくヒトが衣服を身に纏うようになった時から、糸で縫い合わせて綴じるという方法が延々と続いていることに毎度感銘を受けるのです。
縄文については以上です。
長々と失礼しました。
って事で、次はこちら