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「海を越えたジャパンティー 緑茶の日米交易史と茶商人たち」
ロバート・ヘリヤー
村山美幸訳
原書房
2022年3月17日発行
小学生の頃、日本の主な輸出項目が生糸とお茶と習ったころ、ぼんやりと疑問を覚えたことがありました。
(お茶?日本茶?)
私には欧米の人々が緑茶を飲むところが想像できず、お茶の葉をそのまま輸出して、それを輸入した国が紅茶に加工していたのかなと、考えていたのですが・・・。
この本を読んで氷解。
なんと、アメリカ人は緑茶を飲んでいた!
それも中国から輸入していたお茶さえも緑茶だった!
びっくり。
しかもしかも!
緑が鮮やかなものが好まれていたので、中国ではプルシアンブルーの顔料やスマルト(酸化コバルトを溶かして作ったケイ酸塩ガラスの粉末の顔料)で着色し鮮やかな緑にしていた!
え?なにそれ引く・・・
確かプルシアンブルーって後世、青酸カリにつながるようなものだったはず・・・。
ジョージ・ワシントンは紅茶も緑茶も飲んでいて、トーマス・ジェファーソンはもともと紅茶のスーチョン茶を飲んでいて、のちに緑茶のインペリアル茶やヒーチェン茶を愛飲。
1773年12月16日のボストン茶会事件では紅茶だけでなく実は緑茶も投げ捨てられていたとか。
1800年代にアメリカ人は紅茶より緑茶を飲み始め、1805年から06年を起点にアメリカの船が輸入した茶は紅茶より緑茶のほうが多くなったという貿易統計のデータがあるそうです。
まあ、大量のミルクや砂糖を入れて飲んだりしていたみたいですが。
中国の緑茶が着色されたものがあることや、中国へ絵の人種差別的なこと、万博での日本文化の流行などから、ジャパンティーがもてはやされるようになり、けれど中国茶の人気は根強く、そんな中・・・。
英国の植民地のインドとセイロンの茶がめざましい成功をおさめていく。
そこには人種差別的偏見や先入観がやはりあったとか。
そして第二次世界大戦。
ひるがえって、日本。
明治維新で働き場を失った武士が、お茶の栽培に目を付けた。
特に今の日本最大のお茶所の静岡が顕著な例になる。
京都からも教えを請い、着実に栽培面積を伸ばしていく。
それまで、日本ではお茶と言えば茶色、つまりグリーンではなくブラウンの番茶だったのは、垣根や畑の隅で育てた茶の木から枝を伐採しそのまま乾かしてお茶として飲むことも多かったから。
それが栽培され生産者が製造した、グリーンの煎茶が大正時代の終わりごろには主要な日常飲料となったとか。
やがてお茶は国策として、輸出にも力を注いで、成功を収めていったけれど、時代の流れの中、失速。
第二次世界大戦中、輸出が止まり供給過剰になったお茶。
そんな中、戦争で国が危機に直面しているときこそ、愛国心を持って日本茶を飲もうと働きかける販売促進があり、ビタミンCが壊血病をふせぐ効果があるとうたったり。
戦争が終わって、輸出も再開されたけれど、往年の勢いはなくなってしまった。
とはいえ、日本で消費されるお茶の90%は煎茶。
私もコーヒーは毎朝飲むし、出かけた先で紅茶やコーヒーを飲んでカフェなどで一服することが多いですが、ちょっと今はコーヒーも紅茶も胃が受け付けないってときはあるけれど、お茶を胃が受け付けないって感じる時はないなって、思います。
やっぱり飲んで一番ホッとするのは日本茶。
まあ煎茶に限らず、ほうじ茶、番茶、いろいろですが。
飲んで美味しくほっこり。
体も心も癒してくれます。
現在、アメリカでは紅茶が、日本では煎茶が日常的なお茶として好まれている。
しかし意外にも19せいきにはアメリカでは「緑茶」が、日本では「茶色い番茶」が国民的飲み物だったことはあまり知られていない。
その逆転劇の背景には、戦争と差別、交易が深く関係していたーーーー
両国の茶文化のはじまりから、長崎のグラバーやオルトといった茶貿易商の興隆と明治維新、京都・静岡・九州など茶の名産地の発展まで。
明治時代に日本で活躍した茶貿易商の末裔である著者が、交易史からひもとく意外な緑茶の歴史物語。
目次
謝辞
はじめに
序章
第1章 日本とアメリカ合衆国の茶様式の始まり
第2章 南北戦争中のお茶
第3章 ジャパンティーの誕生
第4章 緑茶地帯と呼ばれたアメリカ中西部
第5章 アメリカに押し寄せた紅茶の波
第6章 日常の茶飲料 アメリカ合衆国の紅茶、日本の煎茶
おわりに
訳者あとがき
原注