ずいぶんと記事の更新に日数がかかってしまい、申し訳ないです。

 

受験だったり就職先が決まる時期だったりして、親族の子供達がせわしなく、親族の大人たちは総出で子ども達に色々と関わる日々を過ごしています。2月はそんな感じで少し記事の更新が停滞気味になるかもしれませんが、時間を作ってコツコツ書いていきたいと思います。

 

今回の記事は、発達障害の児童にとって「約束」とはどういう感じでとらえているものか、ということを書いていきたいと思います。というのも、ここのところ、定型の子供さんと親ごさんの様子を見ていて気が付いたことがあったからです。

 

4月から無認可の少人数でアットホームな民家のような保育所に入所する3歳の親族の子がいまして、約4か月ほどかけて、週に1回~2回ほどの短時間または1日かけたならし保育をしている最中なのですが、両親はすでに仕事をしていますので親族で手のあいたものが預かったり、保育所に送り迎えしています。

 

私もその送迎人員の一人なのですが、保育所での送り迎えの短時間の間にも、定型の親子のやり取りを目にして感じることがありました。そのうちの一つが、「定型の子供さんはわずか2歳、3歳にして、親子での『約束』という概念をなんとなくだけれど、自然と身につけるやりとりができる」ということでした。

 

例えば、泣いて離れない子供にむかって、「おりこうさんでいてね。頑張ったら、帰りにご褒美におやつを持ってくるから、食べながら帰ろうね」とか「お母さんもお仕事頑張ってくるから、あなたも保育園で楽しくみんなと遊ぶのを頑張ってね」とか、そういう話をすると親子ともに頑張る、という方向で話がまとまるようなのです。

 

私達の親族の子供で、非定型の子達の場合は、まずこういう会話の内容が成り立ちません。子供が自分の内部の世界にまだ強く自閉している時期だと、他人との関わりの中で生じる様々な事象、つまり他人とのお約束や言葉を介して結ばれる交換条件等、にまだ触れていませんし、経験もしていませんし、言葉がそうした内容を成立させる、ということすら知らない時期です。親が同じような言葉を子供に与えたところで、聞いてわかる状態ではありません。

 

ただ、こうした会話がずっとできないかというとそうではなく、いずれできるようにはなります。「いずれ」とは、先に書いたような経験や知識を積み上げた後であればできる、ということです。これを定型の子達は2歳、3歳という幼さで、経験なくして、知識なくとも、その場で親子のやり取りの中で自然と言葉を介して約束や交渉をしてしまう、という力が備わっているんだな、と感じます。

 

では、私達の場合、私達の親族の非定型の子達の場合はどんな風に「約束する」ことができるようになるかというと、約束、という形式が理解できた時に、その「形」を利用しはじめる、という感じだろうと思います。

 

親が2歳~小学校低学年ぐらいの年齢の発達障害の子供に約束させる場合には、まずこれは親側からの一方的な条件の提示にすぎない、という場合が多いです。まず、親子の会話だけを聞くと、おそらく親が提示したことを子供がYesと返事して約束「させられた」のかもしれませんが、こどもは「なぜそんな会話をするのか」の意味が、そもそもわかっていないのではと思います。

 

親があれでこれで、と何か詳しく説明してきた、それを聞いた、そうしたら「じゃあいついつまでに何々しないとあなたが困るのだから、こうしましょう」とか、具体的に方法や対処を押してくれたとします。ああ、そういう方法があるんだな、そうしたほうがいいのか、と子供は理解するかもしれません。親は会話の中で「なんとか今の状態を説明し、対応も示した。親ができることはここまでだ」と線引きし、「じゃあやりなさいよ」と声をかけて去っていきます。

 

親はその後も、「やった?」と何度か声をかけるでしょう。子は「え?まだやってない」と返事すると、親また同じことを説明し、具体的な方法を伝え、やるようにお尻をたたくかもしれません。

 

でも、子供はやりません。なぜか。

 

この会話の中で、親からの言葉は「テレビから聞こえる音声」に似ていて、一方通行の言葉の状態であり、子供はそこからまだ、学ぶ「経験」というものが皆無だからです。

 

どちらかというと発達障害の子供の理解と成長を促すのに大事なのは、「その後」のことなのです。

 

失敗体験をすると自己肯定感が下がる、という今ではよく知られた特性ですが、失敗体験をさせることで子供の精神がダウンするということと、「自分の行動と結果を理解させる」ということは切り離して考える必要があります。

 

こどもの精神をダウンさせたくないから、失敗してもなぐさめたり、気をそらせたり、なるべく失敗させないようにしていくことだけに力を入れると「経験値」はもちろん上がりません。発達障害の子供は経験から学ぶ傾向が強いので、経験値が浅いともちろん、身につくことも狭まったり少なくなる、ということはあります。

 

成功体験を多く積みながら、その中でも、失敗体験は必ずすると思いますから、その失敗体験を「経験」として、理解のネタにしていくことが大事になってくる、ということです。

 

失敗したその時にこれでもか、と解説し説明しても聞けない子の方が多いと思いますが、なぜ、どうして自分はこんなにダメなんだろう、と疑問に思っている発達障害の子供はいる、ということを大人は忘れるわけにはいきません。なぜ自分はこうなんだろう、と失敗すること、ダメなことを漠然と悩んでいる子に、自分が経験した失敗こそ実地経験として、「その理由、失敗したことのそもそもの原因となったこと、失敗という結果を導いた自分の言動との因果関係」がわかってはじめて「使える経験」となるわけです。

 

失敗体験を使える経験に変えていくには、原因、結果というものの関係性を理解していくことが大事です。約束事には、約束と結果という明確な関係性があります。つまり、発達障害の子達はこの「約束と結果」というスタイルは理解できないまま生まれてきていて、そのまま育っていく可能性も高いのです。そうなると小学校中学年、高学年になっても例えばいまだ、提出物が出せない、親子間で約束ということが成立しない、ということだってあり得ます。

 

約束と結果、というのはかなり、親族の大人たちは「子供にとってはっきりとわかりやすく」話しているな、と思います。

 

例えば、小学生低学年の親族の子が、親から1日30分だけスマホをかしてもらってゲームをしていましたが、そのゲームをする条件としていた宿題を「やってはいた」けれど「提出し忘れた」状態で月曜日から金曜日まで過ごしました。宿題を提出しわすれたことに気が付いたら、帰宅していても学校へ戻って出せばよい、というルールです。それもせず金曜日まで出さずにいたら、親は次の1週間、ゲームをさせません。

 

それを3回繰り返したので、親はついにゲームアプリ自体を「アンインストール」しました。

 

もちろん、その子はギャーギャーと転げまわって泣き叫びましたが、親は「宿題をして、1週間のうち出し忘れても1回でもいいから、学校へ戻ってまとめて出せばいいだけだった。そう説明も何回もした。1回目、あなたが約束を破っても親は譲歩した。チャンスをあげた2回目に、はっきりと3回目はないと警告した。かなり親切に、約束を破っても大目に見てあげたと思う。それでも約束を守れなかったのはあなただ。

 

もし今後、あなたにスマホを貸してゲームをさせても、あなたは宿題を出さないだろうと親はこの経験から学んだ。どんなに親が声かけしても宿題を出さなかった。条件を守らず約束を破った。だから親のスマホでゲームは二度とさせない。結果を受け入れなさい。それだけだ。」

 

と、言って、あとは放置です。

 

泣こうが叫ぼうが、ゲームができなくて辛いのは子供だけであり、親にとってスマホを貸さないといけない、ゲームをさせてやる理由は、何もありません。ゲームをしたければしたいほど、「ゲームをするためにしなければいけなかったこと=宿題の提出」という事実を、深刻に、かつ悔しく、放置されればされるほどいつしか後悔の思いで受け止めます。

 

それには時間が必要です。自分がしたことと、結果、つまり親は自分が宿題を出さなかったから、自分が宿題を出さないと思って二度とスマホでゲームをさせてくれないのだ、ということを咀嚼する時間が必要です。

 

泣いて叫ぶ時間が必要だ、ということです。恨み言を言う子ももちろんいます。ゲームは子供の人格を変えるぐらいの威力があるからです。親は、ただ親の側の意見を言うだけです。

 

「嘘を何度もつかれて、なぜさらにまた親切に自分の大事なスマホをわざわざ貸さないといけないの?あなたも、自分に嘘をつく相手に大事なものを喜んで貸さないでしょう。こっちは親切で、何の得にもならないのに、あなたがやりたいというから30分スマホを貸してあげただけ。親切にして、裏切られて、約束を破られたから、もう二度と親切にわざわざ自分のスマホを貸すようなことはしないと言っただけでさらにあなたに恨まれて、親はバカみたいでしょう?恨まれるぐらいなら最初から貸すべきじゃなかったとまで思っているよ。」

 

と、親が子に感じる理不尽は、案外、親族の大人はずけずけと子側に明確に伝えています。

 

何が、人と人の、人間関係を壊すのか。

 

約束というのは、破ればどうなるのか。

 

約束は、なぜ守るのか。

 

そういうことを、経験で学ぶには、自分が取った行動の結果を受け入れるようにしっかりと大人が伝える必要があります。泣こうと叫ぼうと、恨みつらみを言おうと、破ったのは子側なのですから、非は子側にあり、親の得にはなっていない、親は見守る努力もチャンスを与える譲歩もした、子側は努力をしなかった、その結果だ、という「恨みたくなるほどの結果」を明確に、行動と結果の因果関係をはっきりさせて、形式的に理解させるわけです。

 

子供にとってしがみつく内容、テレビやゲームなどはこの約束、という概念を学ばせるのに良い材料にはなります。なぜなら、子側が必死になるからです。親が学ばせようと思わなくても、子側がテレビが見たい、ゲームがしたいと必死になるので、条件を提示して守らせるように促すと、こうした失敗を繰り返しながら、約束を守るという目標に数年がかりではあっても到達するようにはなります。

 

また、親がきっぱりと「行動の結果の責任は、あなた側にある」と示すことで、行動に責任を取る、ということの意味を理解するようになります。

 

先に書いたゲームの子は、その後、宿題を出し忘れても帰宅時の親との確認作業時に「出していない」ことが分かった時点で学校へ戻って行き、出す、という行為を素直にしているので、親が「最近は頑張っているから褒美として」別のゲームをインストールして、同じように宿題をする・出す、という条件でまた1日30分、ゲームをさせています。宿題を出さないとすぐにゲームがアンインストールされるとわかってしまった親族の子は、今度はこの「約束」というものをある程度、真剣に受け止めています。約束、というものがわかりはじめている、ということだと思います。

 

衝動性が強い子は失敗が多いので、日々の細かい事であまり親側が同じように細かく取り締まると家庭生活そのものが暗くなり、親子ともに辛くなるので、子供の特性にあわせたやり方をすることが大事にはなります。衝動性が強くて失敗が多いこの場合では、大きな枠での、家族で絶対守るべきルール1,2こにだけ絞って練習をする、経験をつむ、ということからはじめることが多いですが、衝動性よりはむしろ、欲が強く自分でその欲をコントロールできないようなタイプの子には、親が粘り強く付き合って、欲が先走ってすべきことをおろそかにした場合は、バッサリと欲の元を絶つ、というような上のゲームの子のような対応をすることが多いように思います。

 

学校のルールで隣町に子供達だけで行ってはいけないことになっていた親族の子が、友達と自転車で無断で隣町まで行ったときには、その親は1学期間という数か月の長い期間、自転車を使用させませんでした。隣町へ行くには自転車で走る必要があるぐらい遠いので、その足である元をバッサリと取り上げたわけです。それからその子は自転車を戻された後も、もう無断で隣町へは行かず、行きたい時には大人に頼んで車を出してもらっています。2度目をやれば、自転車を永遠に取り上げられそうに思ったからでしょう。

 

こうしたことは私たちの親族の間ではよく見られます。定型の子供のような理解の仕方をしないので、例えば約束を破った時に、親が子供に言葉で叱って、反省した様子だからとすぐにゲームを与えたり、次の日から自転車にのせたりすると、私達の非定型の子達は「約束を破っても不便はない」「約束をやぶっても何も困らない」考え、約束は破ってもかまいやしない、と自分流に解釈をします。

 

ですので、自分がとった行動にきちんと「不便だ」「困るなあ」という経験になる結果、責任を取らせる、子が腹を立てたり悔しがったり恨んだりしても親がバッサリと信用に値しないと判断した理由を明示し、時間をかける、という事した方が「約束をする」という定型社会のあたりまえの人と人との間に交わされる契約ごとのような性質を理解しやすいのです。

 

子供時代にこの契約ごとの仕組みを学ぶことができれば、小学校での友人関係で、中学や高校での先生や同級生との人間関係、就職先の同僚や上司との人間関係で「信頼」というものを自然と手に入れることができます。人間関係を教えるというのは、つまりはこうした「約束」など、一つ一つのことの本質を体験し、理解していくことの積み重ねでもあるということです。

 

定型の子達が自然と親子のやり取りの中で学んでいく「約束」ということを、私達の非定型の子達には約束を守らなかった行動と、その結果自分がどう不利益を被るのかという点をかなり意識して、本人たちが実感できるような形で伝えているということと、その例を書いてみました。

 

 

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