交通事故で二輪の知人が亡くなりました。

飲酒運転の車と二輪車の事故 飲酒の運転者の過失による事故です。
人は
「相手が飲酒していない」、「免許を所持して運転している」、「居眠りをしていない」、「方向指示器を出して右左折する」、「信号は守ってくれる」
これらの事を信頼して人はいろいろな車両がいるこの社会を通行しています。
これを「信頼の原則」によって行動していると言えます。(下に補足あります)

この原則に囚われている(身を委ねる)と危険であることを東京はよく感じさせます。
事故が起きると責任を誰にするのかで揉めます。これは社会的には大事な事(損害賠償や行政刑、刑罰など)ですが、この問題から利害関係のある人意外は、「あいつのせいだ」とか「飲酒が悪い」などと議論しても無益に思います。

どうしたら事故に遭わなく出来るのかを考えなければなりません。
初瀬川はいつも思っています。

やはり「自分の身は自分で守らなければならない」と。

この意識の中で行動し、さらに相手が信頼足りうる行動をしてくれたら、かなり事故はなくなると思います。
つまり感度を上げて行動してもらいたいと言う事です。

飲酒してても、飲酒して無くても、感度をあげた行動をしていないと、いつ加害者か被害者になるか分かりません。その差は紙一重。
制限速度で走り、信号に止まっていても、「事故に遭えば同じ」
法令を守っていれば非難はされない。
悪い、悪くないと言っても、事故にあってしまえば、その他の人にとって、その「事故」は悪い事(精神的にも、交通的にも)です。

みなさんも本当に気をつけてください。この「気」とは「気を張る」という意味ですからね^^

以下補足。興味がある人はどうぞ!!

「信頼の原則」について補足
まず、この原則は、1935年(昭和10年)にドイツの刑事裁判ではじめて認められ、戦後の西ドイツにおいて判例理論として確立されたもので、日本においては、昭和41年に最高裁が自動車事故における刑事過失責任をはじめてこの理論を使って否定しました。
行為者に結果発生に対する過度の注意義務違反(過失)を課す現実的矛盾を克服するための理論であり、当防衛・緊急避難は、法の命令規範を遵守することを期待できないがゆえに反社会的行為として処罰しないということを定めたものです。
「法は不可能を強いるものではない」と言う法格言より生まれています。