私たちにが生きて行くには様々な行動が必要となります。

そしてその行動の内容には、肉体的な強弱は別にして、精神的に楽しいもの(納得出来るもの)と辛いもの(納得出来ないもの)があると思います。

出来れば楽しく行動したいものです。

そこで『行動に意志を乗せる』です。
楽しく行動した場合は大体、自分の意志で行動した場合であり、辛い行動の場合は、他人の意志に添うように自分を動かす意思の場合がほとんどです。

気づかれた方もいると思いますが、あえて漢字を「意志と意思」と区別しています。

やらされ感のある行動は「意思」で動き、
楽しく行動した場合は「意志」が体を動かしています。

人生の貴重な時間を使う行動ですから、自分の意志で行動したいものです。

くだらなく聞こえるかも知れませんが、『やれ!』と言われたら『やりたい』。
『しなさい』と言われたら『したい』と変換して、他人の意志を自分の意志に変えて楽しく行動してみましょう!

人の感じ方は様々です。
自分では「こうであろう」と思っていても、
相手には「こうではない」と言うことがある。

もちろん自分では「こうである」と思っているのだから、
相手が「こうではない」と思っているのは解らない。

しかし、解らないからと言ってそのままでいいのではなく、
社会に生きる限りは、いろいろな感じ方があるのだと言うことを
常に意識しておくことが大切なのだと思います。

人の感じ方の違いに対し「ただ合わせる」と言う盲目的な迎合を、空気が読める人だと思うかもしれない時代ですが、
人の感じ方の違いを知った上で、合わせるべきなのかを考えることは、もっと大きな視点で空気が読めている人なのだと思います。

つまり違いを知った上で合わせることは、迎合では無く、既に自分の考えも盛り込んだ融合だと思います。

こう考えれば、違いがある「感じ方と感じ方」が出会い、融合する人間社会は変化発展の可能性に満ち溢れていると言えます。

人の感じ方は多様。だからこそ人は素晴らしい^^

「退路を断つ」

この言葉を聞くと「なんとなく大変そう」に感じる人が多いのではないでしょうか?

多くの方が感じるように、退路を断つことを実際に行うと大変です。


しかし、不思議なもので退路を断ち、行動する人がいる。

なぜでしょう?

初瀬川が思うには「退路を断つこと」は、そのリスクが多い分、多くのリターンがあるからだと持っています。

困難において、退路を断ってまで掴まなければならない活路があるとき
退路があると、退路に意識を奪われ、前に集中できない。
集中しないと、かすかに光る活路を見出せない。

「見る」ではなく、五感を研ぎ澄まし「感じる」ということ。

退路を断つとは「前に集中できる」と言う「たった一つ」のメリットと共に多数のデメリットを同時に内包する行為ですが、活路を掴む為に必要不可欠の要素を引き換えに得られることができます。

何か大きな活路を欲するならば選択するのもありだと思います。




際は投げられた。されば、ただ駆け抜けるのみ


人は基本、一人で生まれ、一人で死んでいきます。

どんなに富を積んでも、どんなに元気であっても、また、どんなに善業をこなしても、死と言うものは平等に与えられます。

たまに、若いうちにこの問題にぶつかり、悩む人がいると思います。
合理的に考えれば、どうせ、存在しなくなるならば、いつ存在がなくなっても同じであり、存在することが辛いならば、さっさと存在を消してしまえばいいとなります。

なんとなく、この考えは納得できる所があります。
しかし、ここでこの問題に対し、考えるのをやめたにもかかわらず、人生を終わりにしないのならば、「無駄なことをやってるな」と思いながら生きなければならないことになりますから、さらに考えています。

現時点での考えは「人は人と巡り会うために生きる意味がある」と考えています

自らが無に帰す時までにどれだけの人に巡り会うか。
その巡り会いは良いものだけではないし、悪いものだけでもない。

巡り会いとは、いつか消える存在が、他者に関係性を持ち、影響を何らか与えることだと初瀬川は思っています。

出来ればいい巡り会いの中に生きていたいですね^^