なんかラノベのタイトルみたいになりましたが、続けたいと思います。


さて、常々思っていたのですが、新興宗教って何がダメなんでしょう?結論から言うとビジネスモデルの問題なんだと思います。


というわけで、宗教のビジネスモデルについて、ちょっと思いついたことを書き連ねてみます。


ついでに言いますと、宗教は人間社会が成り立っていくのに非常に重要な役割を担っており、僕は宗教に対し最大限の敬意をはらっておりますので、今から指摘するのはビジネスモデル上の問題だけです。


現在広く認知されている三大宗教をベースに考えてみます。 


 宗教というビジネスモデルを考えるに当たり、考慮しないといけない宗教の3要素として開祖、経典、教義というものがあります。

 

キリスト教が考えやすいので使わせてもらいますが、開祖はイエズス・キリスト、教典は旧約聖書と新約聖書。

ここまではいいのですが、教義は教会とも言えますが、雑な分け方をしてもカトリック、プロテスタント、イギリス国教会、ロシア正教など多数存在します。


つまり宗教のビジネスモデルでは「同じ商品(教典)を違うパッケージング(教義・教会)で販売している」ってことになるのでしょうか。つまり教会は宗教ビジネスの中核となる概念ってことですね。


では、教会について考えてみましょう。

教会の3要素は教祖、教会員、信者に分けられます。社長、社員、顧客の関係と同じと考えれば理解しやすいかもしれません。


教会は「いかに信者から満足度高く教会にお金を出させるか?」というビジネスモデルです。つまり満足度高い商品を売る必要があるわけですが、宗教的な満足度を高める方法ってなんでしょう?キリスト教で言えば、信者のニーズは何なのでしょうか?


それは間違いなく「終わりの日に天国に行けるという特権」です。言い方を変えると「教会の言うことを聞かなければ、地獄に落ちて永遠の苦しみを受ける、という恐怖から逃れられる」ということでしょう。


正直に言えばキリスト教徒でない自分からすると「こんな与太話よく信じるよな」というところなのですが、幼少期に洗礼を受け、その後キリスト教の価値観で育った人たちは、この概念が魂の奥の奥まで染み付いているのです。そうなると教会の考えに背くことは恐怖でしかない訳です。


人間は「良いことを期待する」より「恐怖を回避する」ほうが強いモチベーションとなるため、教会にお金を落とす様になるわけです。


ここまで読んで、「やってることが新興宗教と変わらない」って思った人はいませんか? 


実際、変わりません。 


ではなぜ三大宗教は迫害されないのか? 


それは簡単で、社会のルールが宗教に合わせたものになっているから。


西洋の社会ルールはキリスト教をもとに作られています。例えば、アメリカ合衆国では大統領が就任する時、聖書の上に手を置いて宣誓しますよね。

やっぱり世の中はルールを作る側が強いですね。


 まとめ 

稼げる宗教のビジネスモデル

 ①社会のルールを作る側に回る 

②恐怖を与える 

③恐怖からの救済を売る