留学生であったことも、人を教える立場であったこともある私には、
魯迅と藤野先生両方の気持ちが痛いほど伝わって、
涙がぽろぽろこぼれた作品であった。
医学の勉強をやめ、仙台を離れるつもりだと言う魯迅に、
藤野先生は自身の写真をあげた。
魯迅がどういう道を歩んでいくとしても、厳しい未来が待っていることを先生は知っていた。
医学の勉強を続け、自分の傍にいたとしても、明るい未来が開ける保証はない。
しかし、自分の傍にいれば、魯迅に降りかかる侮辱や災難から、少しはかばってやれる。
糾弾されるようなことがあれば、かくまって、場合によっては逃がしてやることもできる。
最低限でも食って、生活しているだけの道を、作ってやることもできる。
魯迅の写真を欲しがったのは、
なにかあれば、その写真を頼りに探し出して、どうにか助けに行けるようにと考えたからに違いない。
思い出に浸るためなどではもちろんなく、有事の際の手がかりとして、手元に置いておきたかったからに違いない。自分の手の届かない場所へ、何かに立ち向かう覚悟で行くことを、藤野先生は魯迅の目の奥に見た。だから、写真を送った。一人ぼっちで苦しいとき、自分はいつでも応援しているということに気がついてもらいたかったから。
魯迅は、藤野先生の写真を見ると「たちまち良心が呼び戻され、勇気も加わる。そこで一服たばこを吸って、『正人君子』たちから忌みきらわれる文章をかきつぐことになる。」と書いていたように、藤野先生の写真は事実、大いに励ましとなった。
藤野先生が写真に「惜別」の二文字を書いた、というのも泣ける。
別れを惜しむ、まさに、その気持ちであったろう。
作品の中で、失われたと書かれていた藤野先生が添削したノートは、後に中国で見つかったらしい。
「読書」というCCTVの番組で、一瞬映されていた。
同番組で、「今でも北京の我が寓居の東の壁に、机のむかいに掛けてある」と書かれていた藤野先生の写真も映っていた。裏には墨で「惜別」と書かれていた。
「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間が大勢いる。まもなく窒息して、みんな死んでしまうだろう。だが、昏睡状態からそのまま死へ移行するのだから、死ぬ前の悲しみは感じないんだ。いま君が、大声を出して、やや意識のはっきりしている数人のものを起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも君は彼らに済まぬと思わぬかね」
上記は、中国の近代化のために民衆を啓蒙することを目的として発行した雑誌「新青年」のために、小説を書かないかと友人に持ちかけられた際に返した言葉である。
「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋を壊す希望が、絶対にないとは言えんじゃないか」と答えた友人の言葉を聞いた魯迅は、希望は抹殺できない、自分もその希望にかけて、小説『狂人日記』を書きだしたという。
藤野先生の実直さと、魯迅の誠実さ、この二人の関係に胸を打たれる。
魯迅は、「不安定な状態が続いて、知らせても失望させるだけだと思うと手紙も書きにくかった。年月がたつにつれてますます書きにくくなり、たまに書きたいと思っても、容易に筆がとれなかった。」と書いていたが、この気持ちも十二分に分かる。魯迅の思いは結局、藤野先生に作品を通して伝わることになったようだけれど、私の気持ちは、伝わりようがない。何かにつけ親切にしてくれた金園長、失礼お許しください。決して忘れてはおりません。いつか。きっといつか。
読了後、じっと目を閉じて感動をかみしめていると、
睫毛がじわじわと濡れていき、文字通り、涙がぽろぽろとこぼれた。
年を取ることで良いことってあまりないように思われるけど、
共感ゾーンが広がって、分かることが多くなるのは素敵なことだと思う。