僕は幼少期の頃、人一倍手先が器用だった。
6,7歳の話である。
家で細かい作業を行うことが好きで、そのため首肩が疲れやすかった。
それと、体質的にストレートネックという、首の骨の湾曲が少ないため人一倍首が疲れやすい。
疲れたときに首を回したり、動かしたりしていた。
しかし母親は決してそれを見逃さなかった。
首を動かした時、母親は、○○、首!(怒)と言って、私の記憶に刷り込ませた。
だから小学生の時はそのせいで首を動かすことが癖になっていたことがあった。
そして母親は精神病ということで小児科に連れて行った。
精神科に行くのは母親であり、酷い話である。
9歳のころであった。
僕は10歳の時中学受験をすることにした。
高校受験して大学受験をするのが単純に嫌だったからだ。
そこで3年間月3回のテストがあった。
小学校4年のころは国語、算数
5,6年のころは国語、算数、理科、社会である。
算数は偏差値が65、社会は偏差値が70あった。
理科も60は安定していた。
ただ親は国語の偏差値が55であることに目を向け、問題視した。
受験とは合計得点で合否が決まるものであり、総合が67の自分にとっては対して問題ではなかったのにである。
中学は第一志望ではないがまあ別に偏差値55の学校でもいいじゃんと思って入学した。
数学はかなり勉強した。自分の中で中学からコンスタントに勉強すれば、中高一貫のアドバンテージを活かし、大学に合格するという戦略があった。
中高一貫校は、高校受験が無い分、高1の模試ではかなりの偏差値が出る。
最高で総合75を出した。英72、数75、国70くらいであった。
だがその次が問題であった。
次の模試で総合70であった。
学年順位が9位だったのが20位くらいに落ち、偏差値が落ちたことに母親は目を向け、ボロボロじゃんみたいな言い草だった。
着眼点が意味不明である。なぜなら
・高1の模試であり、偏差値がいつも同じな人間なんて存在しない
・偏差値は英語65、国語60、数学82であった。
数学が学年3位であることに一切触れられることはなかった。誰にも褒められなかった。ただダメなところをフォーカスするだけ。
・高2以降は偏差値が一気に下がった。部活を続けていたこと、公立の人たちの追い上げからしたら当然である。
・確かこのあたりで母親が本気で怒り始め、ようやく母親が子育て不適格者であることに気づいた。気づくのが遅すぎる。
・母親が何かにつけて自分にきつく当たるようになった。僕は対処法が思い浮かばなくて物に当たって発散つつ母親に恐怖を与えるくらいしかできなかった。母親は「ああ~、こわ~い」、最低の反応である。なんかの衝突事故かなんかで死んでくれれば良かったと思っている。まあいまさら死んでも遅いんですが。
・母親より担任の言うことを信用するようになった。担任は、志望校である東北大学に受かると言ってくれた。
・得意な教科を塾、予備校で伸ばしてもらい、それ以外は独学、それで合格した。マインドコントロールを仕掛ける独裁者母親には浮かばない賢明な判断だっただろう。
・母親がサイコパスで父親が残業で家ほったらかしな自分は自然と友達づきあいを大事にするようになった。その友人がいるからこそ今の自分がある。














