「アベノミクスは、市場機能が正常に働く、真っ当な経済が実現するまで、つまりデフレが完全に脱却するまで、思い切った大胆な金融緩和を行う。これは、本来の経済政策が正常に機能するための前提条件。デフレから脱却できたからと言って、すべてがうまくいくわけではない。ただ、デフレから脱却できなければ、何事もうまくいかないことは明らかだ。」

 この言葉は、静岡県立大学国際関係学部教授で当時内閣官房参与であった本田悦郎氏の著書、『アベノミクスの真実』(2013年4月発行)のあとがきの一文である。まだアベノミクスの評価が定まらない、第二次安倍内閣が発足して4か月、日銀の新総裁黒田東彦氏が就任してまだい1カ月の時点での著書でもある。本田氏の経歴は東大法学部卒業後、大蔵省で企画官・課長を経て外務省への出向期間も長く、世界銀行金融スペシャリスト・在米日本大使館公使などを歴任、欧州復興開発銀行日本代表理事、財務省大臣官房政策評価審議官を経て内閣官房参与に就任、本書の狙いはアベノミクスについて分かりやすく解説することで、アベノミクスを使いこなして、強い国家と豊かな生活を取り戻す、一助になる事だという。

 

 一方、現在自民党総裁選の最中であるが、メディアの伝える所によると、物価高対策が争点だという。更にメディアは赤字国債の発行を高市氏は容認し、他の四候補は反対したと殊更に伝えている。赤字国債とは、国の歳入不足を補うために発行される国債のことで、財政法で原則禁止されているため、発行には毎年度国会の議決と特別の法律が必要だとウキペディア。赤字国債という用語がこの時の議論として使い方が不適切で、メディアによる印象操作は明らかだ。アベノミクスの趣旨が無理解のまま、政争に持ち込まれつつあることに危惧する者である。安倍晋三回顧録からなぜアベノミクスが登場したのか、振り返りたい。

 「07年に首相を退陣し、12年までの5年間に、リーマンショックがあり、東日本大震災が起きた。雇用情勢も悪く、有効求人倍率は0.6程度に落ち込んで、デフレもずっと続いている。なぜ物価が継続的に下がって社会全体の経済活動が縮小していくのか。デフレには、賃金低下やイノベーションの問題など複合的な要因があるが、基本的には貨幣現象の問題だ。社会に出回る貨幣が多いとインフレになり、少なければデフレになる。そう考えれば、長年の金融政策が間違っていたのは明らか。
 経済政策について私にアドバイスをしてくれていた浜田宏一エール大名誉教授や岩田規久男学習院大教授らとやり取りを続けていく中で、金融政策に問題があるという認識を強めた。特に復興増税は、集めたお金を後から使うとは言え、一時的に吸い上げるから、デフレを加速させる。だから金融政策を変えて円高を是正するべきだという主張を衆院選の軸に据えた。米国のFRBの議長だったベン・バーナンキも、金融緩和でリーマン・ショックという危機を乗り越えようとした。ところが、日本では当時、非主流の考え方で、私の金融緩和論は最初、いろいろなエコノミストから散々叩かれた。当時の経団連会長からも、無鉄砲な政策と言われた。自民党総裁の掲げた政策をそこまで言うかと思い、経済財政諮問会議の議員から外れて貰った。」 当時民主党政権下で、自民党が下野しているときの事で、安倍さんは日本国のために大変な問題意識を持って考えていたことが分かる。

 

 すかさず橋本五郎さんが「かってなく日銀の立ち位置に踏み込んだため、日銀の独立性を侵す、という批判が出た」との問いに、「世界中どこの国も、中央銀行と政府は政策目標を一致させている。政策目標を一致させて、実体経済に働きかけないと意味がない。実体経済とは何か。最も重要なのは雇用。2%の物価上昇率の目標は、インフレ・ターゲットと呼ばれるが、最大の目的は雇用の改善。マクロ経済学にフィリップス曲線という英国の経済学者の提唱だが、物価上昇率が高まると失業率が低下し、失業率が高まると、物価が下がっていく。完全雇用は、大体、完全失業率で2.5%以下。」

 アベノミクスの言葉の由来に及ぶと、「ロナルド・レーガン大統領の経済政策、レーガノミクスにかこつけて、一部のマスコミが言い出した。株価は上がり、円は1ドル100円前後になる。経済指標は、みるみる良くなっていく。だから、私も自信を深めて、衆院予算委員会の集中審議をどんどん受けた。でも、財務省が準備する答弁資料は、全く話にならない。財政の健全化に向けて、歳出・歳入改革を進めるとか、私の政策を全く理解していない。だから経済ブレーンに毎晩のように電話し、相談した。予算委員会は基本的に野党の見せ場だが、この時は違った。予算委をやるたびに支持率が上がっていった。それが参院選での圧勝、ねじれ解消につながった」と。第2次安倍内閣が発足直後の内閣支持率は65%で、歴代6位だったが、5カ月後の4月の内閣支持率は74%。ここまで連続して支持率が上昇した。民主党政権の反動もあったかもしれないが、経済情勢がみるみる好転した結果だ。

 

 もう忘れられたかもしれないが、安倍2次政権が発足する前までの日本の経済情勢は悲惨な状況になりつつあった。1990年代初頭にバブルが崩壊したあと、日本経済は低迷を続けた。特に90年代後半からは、物価や賃金が下がり続けるデフレに悩まされた。この長期にわたるデフレが何に由来するのか、本田悦郎氏は日本の内外で経験した様々な出来事を通して、この問題を考え続けた。2011年夏、ロンドンから帰国した時、再開した安倍晋三氏が、このデフレこそ、政府がしっかり対応すべき問題と認識しているのを知り、何度か議論を重ねる中で、共通のデフレ脱却戦略を持っていることが分かった。その中身とは、①政府・日本銀行は物価安定目標を具体的な数値で示し、日銀はその実現に向けて金融市場に明確なコミットメント(約束)を伝える。②その目標を達成するまで日銀は長期国債などの買いオペを続ける。③こうした政策上の枠組みの転換によって、市場のデフレ予想をインフレ予想に転換し、実際にも様々な経路を通じて、物価安定目標を実現させる。  という3点。これは当時の日銀にとって青天の霹靂、日銀の信念を外部から書き換えられる、内部で相当の軋轢があった筈。

 日銀の金融政策をめぐっては、これまでに様々な意見対立の歴史があった。中でも有名なのが、98年から日銀金融研究所所長を務めた翁邦夫京都大学大学院教授と当時学習院大学教授だった岩田規久男氏との間で繰り広げられた『マネーサプライ論争』、日銀はマナー・サプライ(通貨供給量9をコントロールできるのかどうか、という論争。翁氏は当時「市中で資金需要が出てきた時、それに受け身で通過を供給するのが日銀の役割であって、資金需要がないのに日銀の方から資金を供給してマネーサプライをコントロールすることは出来ない」と主張。受け身の日銀理論と言われ、伝統的な日銀の理論である。一方で、岩田氏は「日銀が買いオペで国債を買い入れて積極的な資金を供給していけば、その何倍(信用乗数倍)かのマネーサプライが増える」と主張。デフレの下で信用乗数が極めて小さくなっているのはデフレ予想が定着してしまっているからで、予想を転換出来れば信用乗数が正常化し、マネーサプライをコントロールする金融政策の有効性は取り戻せるというのであった。
 2013年1月22日に発表された政府と日銀の共同声明は、「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携」とし、日銀が消費者物価指数の上昇率の目標を前年比2%に設定して、出来るだけ早期に達成することを目指すとある。日銀の強いコミットメントを示すものだった。その一方で、今後の日銀の資産買い入れについて、13年度中は現行方式の買入れを継続し、とわずかな買入れしか計画しない。一国の総理が「無制限の国債買いオペをやってくれ」と指示を出しているのに、日銀はこれまでの枠組みを変えようとしない。プロの投資家はそれをじっと見ていて、日銀にはより大量の流動性を金融機関に供給しようという意欲が少ないと見透かされてしまうので、インフレ予想は醸成されない。本田氏が振り返れば、こうした1月の一連の日銀の対応は白川方明前総裁の最後の抵抗だったのかもしれないという。「インフレ目標という原理原則では妥協したけれど、オペレーションは最小限しか変えない」というのは、白川前総裁の基本的な考え方とアベノミクスとの間で悩んだジレンマだったと推定している。結局、橋本五郎さんが質問したように、2月5日に白川総裁は安倍首相に辞意の意向を伝えた。決して政府からの働きかけではなかった。

 

 4月、黒田新総裁の下での初めての日銀金融政策決定会合が開かれ、新生日銀の今後の金融政策の基本方針を決定した。新たな緩和政策の枠組みは、「量的・質的金融緩和」と名付けられ、消費者物価2%上昇の目標を2年程度の期間を念頭に置いて、出来るだけ早期に実現するとされた。日銀の金融政策の操作目標を、政策金利からベースマネーに変更し、ベースマネーを年間60~70兆円に相当するペースで増加させる。長期金利を含めた金利全体を低下させるため、長期国債の買入れペースを加速化する。「量的・質的金融緩和」は、2%の物価安定目標を見通せるまで実施するにとどまらず、これを安定的に持続するために必要な時点まで継続する、と。
 この新しい金融政策の枠組みは、アベノミクスの基本的な考え方を大胆に具体化した画期的なもので、市場関係者の予想を上回る思い切った政策転換だった。市場は鋭く反応し、発表直後に大きく円安・株高となった。海外のメディアや専門家も大半は極めて好意的で、英フィナンシャル・タイムズ紙などは「通貨革命」とまで呼んだと本田氏は著書で云う。
 回顧録で安倍さんは「その結果、雇用の創出に成功した。政治に求められる経済分野の最大の眼目は、雇用。民主党政権時代の失業率は5%を超えていたが、第2次安倍内閣の16年度以降は、完全雇用と呼ばれる3%を下回る状態が続く。10年は0.52倍だった平均有効求人倍率も、18年には1・61倍まで改善した。高卒・大卒の就職率も過去最高水準。安倍内閣は、若年層の支持が非常に高かった。その理由は雇用、特に就職の環境が改善した。高齢者に支持が偏っていた古い自民党のイメージを変えることにも成功した」と。

 

 話が長くなったが、ここまではアベノミクスが生まれる事実関係を追った。ここで取り上げたいのは2点。デフレがなぜ日本で長く続いてきたのか、もう一点は政治の世界でなぜ反安倍の空気が、しかも自民党内でも続いているのか。一点目は本田氏の著書で詳細に触れられているので、それを参考にしたい。2点目はメディア(SNSを含め)から入手した範囲での推測である。
 本田悦郎氏はその経験から世界視野で、なぜ日本だけがデフレに陥ってしまったのか、90年代以降の世界経済の動向について触れながら解説する。ソ連崩壊を機に旧来の国家や地域の枠組みを超えて、ヒト・モノ・カネ・情報が地球規模で移動するグローバリゼーションが急速に進展した。他方、9・11同時多発テロが起きてその見直しの動きが始まり、2008年のリーマン・ショック以降はディグローバリゼーションの動きも顕著になった。そのせめぎ合いの中で、日本はバブル経済崩壊後の対応を誤り、デフレ脱却に失敗し続けた。デフレ脱却のためには持続的な需要喚起が不可欠だったのに、日本はグローバリゼーションのスローガンの下、あまりにも「構造問題」に注意を払いすぎ、結果として超円高や国内の産業空洞化を招いた、と。
 グローバリゼーションが日本にもたらしたものは構造改革、その典型が当時の橋本龍太郎内閣や小泉純一郎内閣が推し進めた構造改革だった。バブルの負の遺産として、当時の金融機関は大量の不良債権を抱えた。小泉改革は不良債権処理という形で金融機関のバランスシートを立て直し、金融機関を再生しようとした。バルブが発生すること自体、資本主義にある程度は付き物、完全に防ぐことは出来ない。問題は発生した場合の対応。一度出来てしまったバルブを破裂させてはならない。それを封じ込め、縮小させ、ソフトランデイングさせることが必要。ところが日本ではバブルを一挙に破裂させて、大量の不良債権が発生した。不良債権の処理が遅れると金融機関の機能がマヒするが、小泉内閣になって、処理スキームが策定され、実行に移された。しかし、これは危険な賭けでもあった。慎重に進めないと、デフレ・スパイラル(悪循環)に陥る危険性があった。デフレの下では需要を付けるのが最優先、当時の日本は深刻なデフレ・スパイラルに陥る崖っぷちまでいった。この時、日本経済を救ったのは、輸出の伸び、米国の住宅バブルが日本をデフレ・スパイラル転落から救った。日本のデフレは、借金をして不動産や株を買った人が、日銀の融資枠の制限で不動産や株が値下がりして債務超過に陥ったことに端を発している。従って、思い切った金融緩和で市場に資金供給し、デフレにならないようする必要があった。
 05~06年にかけて景気が回復しかけた。実感な景気回復と言われた時期、消費者物価で見たインフレ率が辛うじてプラスになったばかりなので、本来ならそのまま量的緩和を暫く続けるべきだったが、日銀は株価のミニバブルを恐れ、量的緩和を解除。その後08年にリーマン・ショックの波が日本に押し寄せた。福井総裁が量的緩和をもう1年続けていれば、すでにデフレから脱却できていたと本田氏。生産年齢人口が減ってデフレになっている訳でない。日本経済の停滞が必然だったという訳でもない。ただ、通貨供給量が少なすぎる、インフレ予想を市場に起こすだけのコミットメントがなかった。インフレ予想を起すほどの通貨を供給できていない金融政策の不十分さが、日本デフレの本質と本田氏は言い切っている。
 更に本田氏は著書のあとがきで言う。「このタイミングで安倍総理が日本のトップリーダーになったことは奇跡だ。15年間続くデフレで、日本経済は崖っぷちに追い込まれた。デフレによるGDPの縮小は、ありとあらゆるところに弊害をまき散らした。縮小する日本経済を横目で見ながら、それを奇貨として日本固有の領土の尖閣諸島だけでなく、東シナ海にまで勢力圏を拡大しようとする隣国がいる。こうした経済、安全保障、さらには国家の危機の真っただ中に登場したのが安倍総理です」と。

 

 本田悦郎氏に斯くまで評価されている安倍総理であるが、アベガーという一団のメンバーは政治的反対勢力なので参考にならないが、オールドメディアや一部の一般人からも、低い評価を受けている。その理由を追っていたが、改革者の宿命かもしれないし、過去の価値観にへばり付く人たちの反発ではないかとも思う。その一例が、金融政策の元締めだった日銀の対応ぶりである。日本銀行審議役を歴任し神戸大学大学院教授井上健吾氏が2000年発行した「何が正しい経済政策か、現代マクロ政策論争の検証」という著書で、当時のマネーサプライを伸ばすことやベースマネーを「操作すること、いわゆる量的緩和論やインフレ目標値の設定、ポール・クルーグマンMIT教授の「日本における罠(Japan's  Trap)」など様々な論説を紹介し、「結局、金融政策は、不況対策の主役足り得ず、ワキ役の勤めを十分果たす事こそ目指すべき」という結論、日銀の役割は物価の安定が最大の役目だという戦後の法制に縛られている。従って、安倍第2次内閣が提案した金融政策の量的緩和によるデフレ脱却策は既に検討済みで、日銀の役目ではないと突っぱねたいところだったに違いない。しかし、選挙で当選した議会のトップの意見だから、日銀の独立性の主張もあるが、従わざるを得ないとの心境だったのだろう。日銀もアップデート出来なかった組織なのだろう。これは財務省にも当てはまる。安倍さんが漏らしたように、「財務省が準備する答弁資料は、全く話にならない。財政の健全化に向けて、歳出・歳入改革を進めるとか、私の政策を全く理解していない」と財政規律の考え方を相も変わらず押し出してくる。ここも戦後作成された法律にすがって、その考え方を変えようとしない。ここもアップデートできない組織だ。結果的に何が残るか。組織全体による感情的反発だ。そしてその情報源に頼るオールドメディアも、政府への批判が仕事と考える戦後メディアの誤ったジャーナリズム論に乗って反発のポーズをとる。そこまでは何となく推測できるが、最近露見した自民党内の反安倍の気分は理解が難しい。政権内にいれば、曲がりなりにも、共通理解が自然に生まれると想像していた。しかし事実はそうではなかった。アンチ安倍の気分が充満しているようにさえ感じられる昨今である。これが政治の世界の不思議なところかもしれない。

 

 先日、文藝春秋プラス公式チャンネル、本田悦郎氏が登場している番組で、鳥取から帰る飛行機の席で、石破総理と隣同士になって、経済の話をしませんかと持ち掛けた。本田氏の云う要旨は、石破さんは経済の基本原理を分かっていない、アベノミクスのことを最後まで理解してもらえなかった。私はそんなあぶないことは出来ない、と。デフレが日本経済をいかに蝕んでいるかということに対する理解はほとんどなかった。片や彼は自信過剰型で、自己陶酔型。事前災害も、米国の関税問題も自分がやらなくてはならない、と。ここで不思議なのは政策である程度結果が出ている、この事を認めようとしないことに驚いた。確かに算数の世界のように答えはひとつしかない世界ではない。しかし政治家たるもの、世の中の状況を理解できなくて、国民のための政治を出来る筈がない。更に一人石破総理の個人的問題でもなさそうだ。自民党議員で、本当にアベノミクスの考え方を理解している人はどのくらいか。アベノミクスの2%の物価安定目標はディマンドプル型のインフレを想定している。円安による輸入品の物価上昇は、コストプッシュ型のインフレと呼ばれ、現在の日本のインフレは両方が混ざり合っている。ディマンドプル型のインフレならば日銀の量的緩和策を調整しなくてはならないが、コストプッシュ型のインフレならば個別の経済対策、例えばガソリン税の見直しをするのも一つである。お米の場合はディマンドプル型のインフレだから、本来は需給関係を調整する必要がある。今回のおコメ騒動も、要因は農水省の需給予測の誤りから出ているので、そこを明確にして、臨時措置として古古米を出荷するするなどの措置を講ずべきで、JAを非難するば済む話ではない。

 

 アベノミクスは、第一の矢、金融政策によるデフレ脱却戦略、第2の矢、機動的な財政政策、第3の矢、民間投資を喚起する成長戦略で成り立っているが、現在の段階は第3の矢の段階だと思う。そういう意味では高市氏のいう成長戦略が時宜にあっていると思う。小泉進次郎氏の云うインフレ対応型経済政策はちょっと意味不明。ディマンドもコストプッシュも一緒くたにしているように思える。林氏の経験と実績を信頼しろと言われても、官房長官の実績を振り返ると、お寒い限りだ。候補者にはアベノミクスの精神を是非生かして貰いたい。

 昨年の政治の世界でまだ記憶が新しいのは、自民党総裁選で、任期満了に伴う総裁選が9月27日に行われ、石破茂氏が第28代総裁に選出された。総裁選には現行の総裁公選規程では過去最多となる9人が立候補。党所属国会議員による368票と、全国の党員・党友等による投票に基づく総党員算定票368票の合計736票で行われた。開票結果は一位高市早苗氏181票、二位石破茂氏154票、小泉進次郎氏136票等々と、過半数を超える候補者はいなかったため決選投票を実施。決選投票は国会議員票と都道府県票(47票)の合計で行われ、石破氏が過半数を超える215票を獲得。続いて開かれた党大会に代わる両院議員総会において正式に新総裁として選出した。最初の開票結果で、高市早苗氏が議員票72票、石破茂氏が議員票46票だったので、決選投票は高市氏が過半を超えるだろうと筆者は予想したが、結果は石破氏が過半を越えて、新総裁に選ばれた。その逆転劇は、岸田前総理が自派の議員に高石氏を避けて石破氏に投票するよう働きかけた、という。麻生太郎氏の説得にも岸田氏は応じなかった、と言われている。総裁候補よろしく次々と国政政策を披露した高市氏ではなく、地方創生、安全安心を訴えた石破氏を岸田氏はなぜか押した。仄聞するところによると、高市氏が総裁になっても靖国参拝を続けるという主張に、岸田氏が懸念を持ったからだと云われている。岸田さんが懸念を持つのはいいが、多くの自民党議員がそれに同調したことの意味をずっと考えて居た。

 靖国神社参拝問題は、1985年の朝日新聞による靖国批判報道をキッカケに靖国神社自体を知り、以降、中国・韓国政府は日本の政治家による参拝が行われる度に反発し、外交問題に発展している。それまでの事実関係では、1979年4月にA級戦犯の合祀が公になってから1985年7月までの6年4月間、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が首相在任中に計21回参拝をしているが、1985年8月に中曽根が参拝時の朝日新聞の報道までは、中韓からも非難はされていなかった。具体的に1985年の参拝に対して、それに先立つ同年8月7日の朝日新聞が『靖国問題』を報道すると、一週間後の8月14日、中国共産党政府が史上初めて靖国神社の参拝への非難を表明した。一方で、1979年にA級戦犯合祀公表以降も靖国神社へ戦没者を慰霊追悼・顕彰するため、外国の要人も訪れている。なお、戦没者を慰霊追悼・顕彰するための施設及びシンボルとする解釈が現在だけでなく戦前からも一般的だが、神社側としては「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」場所、および「日本の独立を誓う場所」との認識が正しいとのことである(ウキペディア)。

 

靖国を参拝 現職で小泉氏以来7年ぶり

安倍晋三首相は就任から1年にあたる26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。安倍氏の首相在任時の参拝は第1次政権も含めて初めて。現職首相の参拝は2006年8月15日の終戦記念日の小泉純一郎氏以来となる。首相は第1次政権時に参拝しなかったことを「痛恨の極み」として在任中の参拝に強い意欲を示していた。中国、韓国は反発している。
安倍首相は午前11時半すぎ、公用車で靖国神社に到着。モーニング姿で本殿に昇殿した。合わせて「内閣総理大臣 安倍晋三」名で献花した。
首相は談話を発表し「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対して、哀悼の誠をささげるとともに、尊崇の念を表し、み霊安らかなれとご冥福をお祈りした」と説明。「安倍政権の発足したこの日に参拝したのは、ご英霊に政権1年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことのない時代をつくるとの決意をお伝えするためだ」と訴えた。
首相は参拝後、記者団に「中国、韓国の人々の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」としたうえで「ぜひこの気持ちを直接説明したい」と強調した。「我々は過去の反省の上に立って戦後しっかりと基本的人権を守り、民主主義、自由な日本をつくってきた。その中で世界の平和に貢献している。その歩みにはいささかも変わりがない」と話した。

安倍首相靖国参拝で談話 秦剛中国外交部報道官

2013年12月26日、日本の安倍晋三首相は中国の断固とした反対を顧みず、第二次世界大戦のA級戦犯が祀られている靖国神社を横暴にも参拝した。中国政府は中国と他のアジアの戦争被害国人民の感情を乱暴に踏みにじり、歴史の正義と人類の良識に公然と挑戦する日本の指導者の行為に強い憤りを表明し、日本に強く抗議し、厳しく非難する。
   日本軍国主義が発動した侵略戦争は中国などアジアの被害国人民に深く重い災難をもたらし、また日本人民もその害を深く受けた。靖国神社は第二次世界大戦中、日本軍国主義の対外侵略戦争発動の精神面の道具、象徴となり、アジアの被害国人民に対してこの上ない罪を犯した14人のA級戦犯を今も祀っている。日本の指導者が靖国神社を参拝することの実質は、日本軍国主義による対外侵略と植民地支配の歴史を美化し、日本軍国主義に対する国際社会の正義の審判を覆し、第二次大戦の結果と戦後の国際秩序に挑戦しようとするものである。日本の指導者の道理に逆らう行為は日本の今後の進む方向に対するアジアの近隣国と国際社会の高度の警戒と強い懸念を引き起こさないわけにはいかない。
   釣魚島問題で日本による「島購入」の茶番劇によって中日関係は昨年から重大な困難に直面し続けている。最近も日本は軍事・安全保障面で下心をもって、いわゆる「中国の脅威」をあおり、中国の安全面の利益を損なっている。こうした状況の中で日本の指導者は、ことを収めるどころか、以前よりひどくなり、再び歴史問題で重大なもめごとを起こし、両国関係の改善・発展に新たな重大な政治的障害をもたらした。日本は今回のことによるあらゆる結果に責任を負わなければならない。
   侵略の歴史を確実に直視し深く反省し、真に「歴史を鑑として」はじめて、日本はアジアの隣国と「未来志向」の関係を発展させることができるということを私は改めて強調したい。われわれは日本が侵略の歴史を反省するという約束を守り、措置を取って誤りを正し、悪影響を排除し、実際の行動でアジアの隣国と国際社会の信頼を得るよう厳粛に促す。

米政府は異例の表現で参拝を非難する声明

2013年12月26日、首相の安倍晋三の靖国参拝を受け、米政府は異例の表現で参拝を非難する声明を出す。「日本は大切な同盟国であり、友人です。しかしながら、日本の指導者が隣国との緊張を悪化させる行動をとったことに、米国は失望している」「米国は、首相が過去への反省と平和に対する責任の再確認を表明するか注視している」首相官邸を揺さぶったこの声明について、多くの日本政府関係者は「バイデン副大統領が主導した」と証言する。日米同盟重視を日本外交の基軸に掲げる安倍にとって、思いがけない米国の強い反発だった。

 2014年1月6日に掲載された中国大使の寄稿「東洋のナチスを崇拝(Worshipping Nazis of the East)」に関して,まず安倍首相の靖国神社参拝とナチスを崇拝する行為との関連づけが非常に屈辱的であると指摘せずにはいられない。靖国神社には,1853年以降,国のために尊い命を捧げた約250万人の英霊が,性別や地位に関係なく奉られており,明治時代における国家の危機,19世紀の日中,日露戦争,及び第一次,第二次世界大戦における犠牲者も含まれる。同中国大使の主張は,靖国参拝が行われた2013年12月26日付け総理大臣談話「恒久平和の誓い」において詳述されている安倍首相の趣旨と完全に異なっている。この談話において,安倍首相は「靖国参拝については,戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが・・私が今日この日に参拝したのは,御英霊に,・・二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を,お伝えするためです。」と述べている。また,「中国,韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは,全くありません。人格を尊重し,自由と民主主義を守り,中国,韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています。」とも述べている。田学軍中国大使は,日本は過去の侵略への認識に欠いており,対処し損ねているとも主張している。しかし,実際には日本は過去と真正面から向き合ってきたのである。歴代の日本政府は,多くの機会において痛切な反省の意を表し,心からのお詫びの気持ちを表明してきた。この見解は安倍首相によって,しっかりと引き継がれている。第二次世界大戦終了から68年以上にわたり,日本は人権を尊重する自由かつ民主的な国家として,世界平和とアフリカ大陸諸国を含む他国の福祉及び発展の支援にたゆまず努力してきた。このような努力は,真の日本の姿を判断する上で,正当に評価されるべきである。興味深いことに,2008年の日中共同声明において,中国の国家主席が,世界の平和と安定に対する戦後の日本の貢献を積極的に評価したと表明している。戦後のドイツを例に挙げる人がいるかもしれないが,ヨーロッパと東アジアでは戦後の状況が異なることを認識しなくてはならない。また,欧州諸国の融和は,戦争を起こした国及び被害国双方の努力によって成し遂げられたのである。他国の弁護はしないが,日本が戦後最大限の努力を払い,私が先に述べた通りの国家となったことを誇りをもって述べたい。一方で中国は,防空識別区に関する最近の一方的な主張にもあるように,隣国に対してますます攻撃的な立場をとるようになってきている。日本政府は,既述の問題等について率直に議論するために,中国とのハイレベルの対話を呼びかけているが,今のところ中国側の腰は重いようである。上述したとおり日本の戦後の貢献を積極的に評価したことを中国が想起し,アジア太平洋地域や世界各地の平和及び繁栄の促進のために,日本をはじめとする各国と共に歩むことを真摯に望んでいる。

安倍前首相が靖国神社参拝 13年12月以来

自民党の安倍晋三前首相は(2020年9月)19日、東京・九段北の靖国神社を参拝した。同日、自身のツイッターで明らかにした。首相在任中は対外関係への影響を考慮して控えてきたが、退任に伴って約7年ぶりに参拝した。安倍氏の靖国参拝は、首相在任中の2013年12月以来となる。ツイッターには黒色のモーニング姿で参拝した写真を添え、「内閣総理大臣を退任したことをご英霊にご報告いたしました」と書き込んだ。党内の保守派は首相退任から3日での参拝を歓迎している。安倍氏に近い衛藤晟一・前少子化相は同日、記者団に「非常に重たく、素晴らしい判断をされた」と強調した。岸田文雄・前政調会長も、千葉市で記者団に「(参拝は)心の問題であり、外交問題化する話ではない」と述べた。(20)13年の参拝時には中国や韓国が反発し、当時の米政府も「失望」を表明。それ以降、安倍氏は春と秋の例大祭などに合わせ、私費で玉串料や真榊まさかきを奉納するだけにとどめていた。 韓国外務省は19日に「深い憂慮と遺憾」を表明するとの報道官論評を発表した。中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報(電子版)は安倍氏の参拝を速報で伝えた。

 

安倍前首相が靖国参拝 自民総裁選目指す高市氏も

 

終戦の日の15日、安倍晋三前首相が東京・九段北の靖国神社を参拝した。参拝後、安倍氏は記者団の取材に対し、「衆院議員、安倍晋三」と記帳したと説明。「先の大戦において、祖国のために母や父、友や子、愛する人を残し祖国の行く末を案じながら、散華された尊い命を犠牲にされたご英霊に尊崇の念を表し、御霊安かれとお祈りいたしました」と述べた。
 安倍氏は首相在任中の2013年12月26日に靖国を参拝し、中国や韓国が反発し、米国も「失望している」との声明を出した。安倍氏はその後、20年9月までの在任中に参拝は行わなかった。首相退任後は参拝している。
 またこの日、自民党の下村博文政調会長も参拝した。下村氏は記者団の取材に「自民党政調会長、下村博文」と記帳したとし、「英霊に対する尊崇の思いと、改めて76年間日本が平和で今日まできているわけで、不戦の思いを誓って参りました」と話した。

一方、9月末の任期満了に伴う自民党総裁選に立候補の意向を表明している高市早苗前総務相もこの日に参拝した。同党の一部保守系議員でつくる「保守団結の会」として参拝したといい、高市氏は記者団の取材に「国家存続のために、大切な方々を守るために国策に殉じられた方々の御霊に尊崇の念を持って感謝の誠を捧げてまいりました」と述べた。

 超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長=尾辻秀久・元厚生労働相)は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大のため昨年に続き、会としての一斉参拝を取りやめた。尾辻氏ら一部議員が15日に参拝した。

BSフジの報道番組「プライムニュース」高市早苗経済安保相が、総理就任の際にも公的に靖国神社参拝を続けることを宣言 3人ともに猛批判

政治評論家の後藤謙次氏、政治学者の中北浩爾氏、元防衛相の森本敏氏が23日、BSフジの報道番組「プライムニュース」に出演。27日に投開票が行われる自民党総裁選に立候補している高市早苗経済安保相が、総理就任の際にも公的に靖国神社参拝を続けることを宣言していることに触れ、3人ともに猛批判を展開した。投開票がせまる総裁選について特集。その中で、高市氏総理に就任した場合の靖国神社への参拝に関して「国策に殉じられた方に尊崇の念を持って感謝の思いを捧げる。これは変わらないと」し、「内閣総理大臣・高市早苗と記帳する」という考えも示したことを紹介した。
これに後藤氏は「本当にこれは、理解に苦しむんですね」と不快感をあらわに。「今、日中関係がこれだけ複雑になってます。あの少年(殺害)の事件があって、さらに厳しくなってる。間違いないんですけども、安全保障も含めて、やっぱり大きな外交を語った時に果たしてこのことが日本にとってプラスかどうか」と持論を展開した。

 

 

 今回のテーマは、自民党総裁選の際、自民党議員の多くが、岸田前総理の懸念を受けて、なぜあのように石破茂議員に票を入れたか、その理由を探っている。岸田前総理は外務大臣時代から日中親善回復に尽力してきた。ここで高市早苗が総裁になると、靖国神社参拝を続けることを宣言していることもあり、日中関係がまた崩れる。それはどうしても避けたい、石破なら大丈夫だ、と考えたかもしれない。しかし、岸田さんにも考えて貰いたいことがある。安倍さんは総理を退いた後、すぐに靖国神社に参拝している。更に終戦の日にも参拝している。逆に総理を退いた後の岸田さんはなぜ参拝していないのか。みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会に入っていない。でも総理大臣の時は玉串を奉納している。岸田文雄氏は安倍第二次内閣、第三次内閣の外務大臣を担当し、在任日数は歴代第2位、連続日数・専属日数は第1位である。外務の岸田と云われるぐらい在任期間が長い。その外務省の働きはどうであったか。山上信吾氏が「日本外交の劣化 再生への道」を出版した。本人は、「外交官としての私の遺言」であると記してある。今後の日本外交のために、歯に衣着せずに、語った、それは日本外交の劣化が深刻で、待ったなしだから、という。しばらく、山上氏の言説に耳を傾けたい。

 「2023年3月、アジア大洋州地域の大使が本省に集められて意見交換を行った時だった。出席者の一人から、台湾有事は必ず起きるとの前提に立ち、その際の態勢を議論すべきとの問題提起がなされた。アフガンからの撤退の経験・反省を生かして、日本にとってより身近で切実な台湾海峡での事態への対応に遺漏無きよう期すべきとの極めてまっとうな問題意識からの指摘だった。しかしながら、この問題提起に対して本省幹部からは何の回答もなかった。それだけでなく、この指摘を受けて何らかの対応がなされたとは、ついぞ聞いた事がない。その際、私からも敢えて発言を求め、カブール撤退の轍を踏まない様、台北、高雄からのあり得るべき日台交流協会事務所撤退、邦人退避を念頭に置いて本省においてシミュレーション、関係省庁との調整を行っておく必要性を強調しておいた。何のことはない、深刻な問題を孕んだ大きなオペレーションが終わると、無反省に「お疲れさまでした」などと述べていたわり合う組織文化に馴れ切ってしまっている。そのため、教訓を汲み取って次の仕事に繋げていくという、組織として当然の機能が働いていないのだ。本来なすべき「カイゼン」とは程遠いのである」と。

 「第一部に記してきた「劣化」の具体的事例を幾つも目に当たりにし、今の外務省を覆う問題の在り処が見えてくる。第二部では、こうした問題をそれらの内容、性格に応じて掘り下げてみることにしたい。というのも、こうした虚心坦懐な自己反省こそが、目の前の事務に追われてそれをこなすことだけが仕事だと思っているような近視眼的な外務官僚に対して、自画像を提示して改善を促すことになると考えるからだ。」として、山上氏は劣化したアイテムを10個取り上げている。① ロビイング(働きかけ)力の決定的不足(G20外相会合欠席という大失態、G7,安保理入りを生かせない実態、自民党大幹部の不満、淵田海軍中佐の指摘、絶滅の危機に瀕した内話電、大使公邸宴の激減)、 ② 惨憺たる対外発信力(対外発信の現状、腰の引けた対応、口舌の徒の消滅、日本の教育の最大の弱点、長い・くどい・うざいの三拍子、自信過剰と一般常識の欠如)、 ③ 歴史問題での事なかれ主義(歴史戦に弱い外務省、村山談話への安易な逃げ込み、安倍七十年談話の効果、敗戦国は歴史を語る立場にない⁉、忘れられない先輩の発言、本当に負の歴史ばかりなのか?、東京裁判を受け入れて戦後の日本は始まった)、  ④ 日の丸を背負う気概の弱さ(朝鮮人は人種差別か、愛国心への衒い、軍隊・軍人への不信、湾岸戦争の教訓、チャーチルを神に感謝したい⁉、視閲式の錨を上げて) ⑤ 永田町・霞が関での外務省の地盤沈下(政策官庁からの転落、国家安全保障会議の設立、経済外交における外務大臣のプレゼンス低下、保秘ができない役所)、 ⑥ プロフェッショナリズムの軽視(外交官の本当の語学力、あの人あれで外交官?、専門性を軽視した人事、ケネディ大使とのツーショット) ⑦ 内向き志向(本省と在外との乖離、部下の指導などしなくて良い、認証官軽視の人事政策、内交官の横行、 ⑧ 規律の弛緩・士気の低下(ゴルフやワイン三昧の大使、警察組織との大きな落差、次官メールの愚、問題提起にも無反応、下からの評価の弊害、諫言と讒言、リーダーシップの欠如、大量離職への右往左往、現職次官との一対一の議論) ⑨ 無責任体質(公電文化の弊害、経済局長時代の敗訴という痛恨、敗訴からの巻き返し、幹部会の議事録は自画自賛ばかり) ⑩ いびつな人事(秘書官経験者の優遇、次官が後任を自分で決められない、秘書官的次官、政治家へのすり寄り、生かされない東郷事件の教訓)

 

 山上氏の指摘する劣化のアイテムについて具体的内容を理解し易いように記述したため、ちょっと見出しの引用が長くなったが、このブログで取り上げたいのは、山上氏が挙げる ③ 歴史問題での事なかれ主義 を取り上げて考えたい。

 著書の中で「外務省に対する根強い批判のひとつに、「歴史戦」に弱い、さらには、そもそも戦おうとしないとの指摘がある。その通りだと思う。四十年間組織の中にいて、私は嫌というほど思い知らされてきた。慰安婦問題は、その象徴だ。「言論テレビ」に出演した安倍晋三元首相は、『安倍政権においては、歴史戦を挑まれている以上は、各国の大使館、大使は日本を代表しているのですから、責任を持って反論しなさい、と。反論するための知識をしっかりと身に付けて、いろんな場面で、言うべきことを言ってもらいたいと、私は大使が赴任する際には指示するのです。どちらかと言うと、今まで外務省はそれをスルーしてしまうんですよ』と。
 歴史問題が紛糾して二国間関係を損なう、さらには日本外交の制約要件になるようなことを極力防いでいく、というのが多くの外務官僚の問題意識であったことは間違いないだろう。これに対して、日本国内の保守派からは、日本の外交官は相手国との友好、国際世論の風当たりを言い訳にして謝罪に走り回るだけで、日本の立場やものの見方を毅然と説明してこなかったのではないか、との不満や憤りが今なお後を絶たない」
 「歴史問題への対応の大きな節目となったのは、1995年、戦後50年という節目に発出された内閣総理大臣談話、いわゆる「村山談話」だ。同談話では、社会党出身の首相であることを最大限に活用し、それまでの日本政府の対応より大きく踏み込んで、日本国総理大臣の立場で、往時の日本の植民地支配と侵略を明示的に認めた上で、それにより被害を受けた人たちに対して、『痛切な反省と心からのお詫び』を表明することとなった。同談話の起案・発出には、社会党の村山富市首相を首班とする特異な内閣であったにせよ、チャイナスクール幹部の外務官僚が中心的役割を果したと伝えられている。こうした経緯も相まって、外務省は歴史問題について謝罪主義者の牙城と見られてきた」
 「如何なる国が相手であれ、何らかの歴史問題が議論になった際に日本政府の立場を問われると村山談話に言及し『日本は謝罪しています、反省しています」とだけ述べ、ひたすら辞を低くしてその場を丸く収め、嵐が過ぎ去るのを待とうとする風潮である。
 南京事件にせよ、慰安婦問題にせよ、徴用工問題にせよ、元戦争捕虜問題にせよ、歴史問題と言われる個別具体的な問題すべてに色々な経緯、立場と主張がある。本来、黒白で割り切ることなどできないし、すべきでない点が多々ある。にもかかわらず、条件反射的に村山談話に依拠することによって、すべての陰影が捨象され、事案が単純化され、『痛切な反省と心からのお詫び』によって、『当時の日本が悪いことをしました」の一言で括られてしまうという問題なのである。
 こんなことでは、厳しい国際情勢の下で国益の維持、国策の実現に腐心し、心ならずも戦争に踏み切らざるを得なかった当時の為政者、さらには、南洋やジャングル、中国大陸やシベリアで力尽きて散華した英霊は浮かばれないだろう」

 「振り返ってみて、戦後五十年の村山談話で『植民地支配と侵略』を認め、それによる被害者に対して『痛切な反省と心からのお詫び』を表明したことによって、歴史問題は終結したのだろうか。否。むしろ『不十分だから再度謝れ』、『謝罪した以上、補償をしろ』といった要求が繰り返され、歴史問題は却って息を吹き返して悪化した面があることは否定できない。『謝れば済む』といった日本社会の常識は、国際社会では通用しない。
 だからこそ、安倍政権では、村山談話の負の効用を手当てすべく、これをオーバーライドする内容の談話にしようとの問題意識で、戦後七十年の機会に内閣総理大臣談話を改めて発出した。しかしその内容はどっちつかずの玉虫色のものになった。『私たちの子や孫、そしてその先の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』が一番の決め台詞であった。他方『我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります』との記述も盛り込まれた。この結果はどうなったか。以降も歴史問題が起こるたびに、村山談話に回帰してしまう、ないしは、安倍談話を引用するものの、『歴代内閣の立場は今後も揺るぎない』とした部分に力点が置かれてしまう。問題が起こるたびに、安易に村山、さらには安倍談話に依拠する外務官僚の性癖は変わっていない。これが歴史戦に臨まなければならないはずの多くの外務官僚の出発点なのである」と。

 「歴史問題の根深さは、一外務省に特有の問題として片付けられないことだ。外務省は日本社会全体の縮図でもあるからだ。国際法局審議官時代(2013~14)、外務大臣、次官の両人と中堅幹部が一堂に会して飲食を共にしつつ、じっくり懇談する機会があった。席上、歴史問題が議論となった。私を含めて若手からは、『受け身に回るだけでなく、積極的に反論することも必要ではないか』『東京裁判について言えば、サンフランシスコ平和条約第十一条に規定されている条約上の義務(種々の関連軍事裁判を有効なものとして受け入れ、そこで下された刑を執行する)は既に実施済みであって、裁判で示された事実認識や考え方を逐一受け入れなければならない訳ではない」といった議論が提起された。それに対する次官、大臣の反応は、

次官「そういう議論をすること自体が無駄なんだ。歴史問題を議論して日本の得になる事など、何もない」
大臣「戦後の日本は、東京裁判を受け入れて始まったんだと思う」

 外務省だけではないのだ。日本の政界、財界、官界を含む社会全体が戦後七十年以上を経た今なお敗戦の桎梏にとらわれており、歴史問題について反論を提起する環境にはない実態を改めて目の当たりにし、暗然とした」

 

 山上信吾氏の著書から、この時の次官は齋木昭隆氏、大臣は岸田文雄氏だと分かる。この著書のこの個所を読んで初めて、岸田前首相が先の自民党総裁選で、旧派閥の議員に、高市氏でなく石破氏を選ぶよう働きかけた心の内が理解できた。岸田氏は東京裁判が提示した歴史観を守らなければいかないと考えて居るようだ、いろいろ議論があっても、日本は受けいらざるを得ない、との立場にいることが分かる。中国、韓国が主張しているA級戦犯の合祀された靖国神社に、日本の首相が参拝するのは避けるべきだ、と。また、長年外務大臣も担当した。山上氏が指摘する『日本外交の劣化』の時の3年8か月間、最高責任者でもあった。その責めの一旦は背負っていることになるが、本人にその自覚はないかもしれない。だから、歴史問題について、外務大臣として、斯く発言して憚らないのだ。山上氏は触れていないが、サンフランシスコ講和条約で戦闘国間の問題は解決したことになっている。残念ながら、中国での日本との戦闘国、中華民国政府は講和条約時点で、台湾に避難し、吉田総理は一地方政権との見解を示しているが、講和条約締結後まもなく日華平和条約も締結している。中華人民共和国とは1972年9月、日中平和友好条約が締結され、第一条に「両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする」としている。内政に対する相互不干渉とはどんなことを指すのか。しかも、その時の条約署名者は外務大臣、園田直 となっている。外務省はなぜこの点を、指摘しないのか。靖国参拝問題は、すこぶる日本国内の問題である。中華人民共和国が日本国の首相についてあれこれ指図することは、この平和友好条約の条文に違反している。

 そんな日中関係の中で、安倍総理は敢然と靖国参拝を敢行した。戦後の歴史を知らないバイデン副大統領がその行為をあげつらう。オバマ大統領も極東の歴史に疎かった。こんな時、外務省はその力を発揮すべきだった。その時の外務大臣は岸田文雄氏であったが、目に見えるサポートはしなかった。東京裁判を受け入れて始まった日本、村山談話を拠り所に歴史問題を議論しても無駄という外務省、を指揮している岸田外務大臣だったから、安倍首相は当時孤立した戦いになった。しかし、安倍元首相の挑戦は続く。退任後すぐに靖国を参拝、暗殺される直前の8月15日にも参拝している。この安倍前総理の思いを岸田氏は理解できないし、理解しようともしなかっただろう。その結果は、山上氏にとっては、外務省の劣化のひとつに映っているだろう。

 岸田文雄氏は総裁選決選投票で、高市氏を避けて、石破氏への投票を旧派閥議員に呼び掛けた。靖国神社参拝がもたらす日中・日韓関係の悪化を恐れた結果だろう。でも、山上氏の指摘する外務省の劣化、ひいては日本の劣化に繋がりはしないか。しかし岸田文雄氏の頭の中は、東京裁判を受け入れて始まった日本の姿が、現在の変化する国際情勢の中にあっても、変わらずデンと居座っているのだろう。

 高市早苗の総裁選に臨む所見(基本理念)は

高市早苗は、国の究極の使命は、「国民の皆様の生命と財産」「領土・領海・領空・資源」「国家の主権と名誉」を守り抜くことだと考えます。

激甚化している自然災害の被害を軽減するための防災対策の促進、サイバー防御体制の樹立、領土・領海・領空・資源を守り抜ける国防体制の構築、経済安全保障の強化、紛争勃発時における在外邦人の迅速な救出を可能とする体制整備、北朝鮮による拉致被害者の帰国実現、国内外におけるテロリズムや凶悪犯罪・新技術を悪用した犯罪への対策強化など、取り組むべき多くの課題が存在します。

高市早苗は、引き続き、「リスクの最小化」に資する制度設計に取り組んでまいります。

 まことに、時宜を得た問題意識だと感じていたが、岸田氏には、その課題解決よりも、靖国神社参拝がもたらす日中、日韓間の関係悪化の方が重大だと考えたこととなるし、石破氏に投票した自民党議員も同様な判断だったと考えざるを得ない。ということは、『東京裁判を受け入れて始まった日本、村山談話を拠り所にし、歴史問題を議論しても無駄』という自民党議員が過半数いるということになる、本人たちは否定すると思うが。世界の時代の変化についていけない、古い体質の自民党員がかくも大勢いることに驚いた。少なくとも安倍晋三はこれらに挑戦していた。高市氏もこれに挑戦しようとしていた。「国家の主権と名誉」を守り抜くと言っている。これをドン・キホーテと思っている議員が沢山いるということだ。筆者は、高市氏も政治家だ、宰相になれば適宜適切に対応すると考えて居るし、中国も韓国も今ほど日本と親交を結びたいと考えて居る時代はなかった。安倍総理時代にクアッドも出来たし、TPPも完成した。トランプも再登場した。国民民主党の玉木雄一郎氏は記者会見時、政党は常にアップデートする必要がある、昨日の国民民主党はもう古いかもしれないと語っていた。筆者には今回の自民党の姿を皮肉っているように聞こえた。更に筆者が付け加えるとすれば、中国と言っても、現在はたまたま中国共産党政権の中華人民共和国であり、韓国も反日政権だったりする現在たまたまの韓国だ、と、捕らえておく必要があると思う。そのようにドライに考えてもいいのではないか。未来永劫の中国でも韓国でもない。また、BSフジのプライムニュースに出ていた政治評論家の後藤謙次氏、政治学者の中北浩爾氏、元防衛相の森本敏氏も揃って靖国参拝に反対したという。極めて一般的反応だ。政治家はチャレンジしてはいけないのか、日本のあり様を正すのに。むしろ、そのチャレンジにサポートする気概、乃至、先読みが出来る眼力があって、初めて政治評論家、政治学者と言えるのではないか、と残念であった。山上氏が外務省に抱いた思いと同じ思いが対自民党にも当てはまるのではないか。

 

 ジャーナリスト髙山正之氏は産経新聞時代、「しがらみを絶ち本音で世間を書くとどうなるか」と編集長からスペースを貰い書き始めたコラムが「異見自在」。その後週刊新潮で書き始めたのが「変見自在」。氏は、米国は先の戦争のはるか前から、日本を故意に誹謗し、非白人で非キリスト教徒の野蛮人の国と言い募ってきた、米国がなぜ日本をそこまで憎むのか、それを探るためにダワーが言う「興隆する時代の日本」の足跡から初めて、先の戦争の様々な現場を訪ねている。そしてそこで日本人が何を考え、何をしたか、対する彼らはどう対応したか、を追いかけている、と以前のブログで触れた。その時の内容は「真珠湾を見た男 世界は腹黒い」で英自治領ビルマの首相ウ・ソーの悲劇だった。今回氏の著書「変見自在 習近平は日本語で脅す」(新潮文庫版)を久しぶりに手にして、「はじめに」書きに、フムそうだと合点した。

 「明治の日本に来た白人たちはこの小国に住む人々が高貴な白人しか持ち合わせない優雅さと慈悲と寛容とをどんなに身分が低いものでも持っていることに驚いた。さらに彼らがさりげなく作る工芸品は『我々が美と思い込んできたごてごてと宝石をちりばめた装飾品を一瞬にして色褪せさせた」(フィラデルフィア博でのニューヨーク・タイムズ評)ことに驚嘆した。しかし当の日本人はそれを評価しない。お雇い外国人が日本の美と素晴らしい文化を称賛すると答えは決まっていた。「いえ我々には文化はなかった。今、西欧文化という本当の文化に接し文明人として第一歩を印したばかりです」
 日本人はとかく自分たちの業績も文化も極端に低く見る。それはロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦についても同じだ。多くの日本人は東郷平八郎の咄嗟のT字戦法で奇跡的な勝利をつかんだと思っている。しかしギリシャ時代以来、海戦が国家の消長を決めて来た白人国家群は肝を潰した。彼らの観念では海戦は舳先を相手艦の横っ腹に突っ込ませるのが唯一無二の戦法で、だから舳先から喫水線下にかけてアントニオ猪木の下顎のように突き出していた。それを衝角といった。」

《装甲艦の普及により、再び艦載砲の貫通力や命中精度がこれを撃ち抜くのに不足とされ、かつ戦列艦の時代よりも艦載砲の数が減少しているため、衝角戦が再び脚光を浴びた。リッサ海戦(1866年)やイキケ海戦(1879年)がこの例である。もうひとつの理由として、同時期において蒸気機関の実用がなされ、艦船においても蒸気推進が主流となったからである。当然の帰結として衝角戦の実用性、および効果の度合いも高まったと考えられた。さらに、日清戦争の黄海海戦(1894年)時においては、清国北洋水師の「定遠」などが衝角を備え、日本海軍連合艦隊と戦闘を行ったが、軽快艦艇で構成された聯合艦隊は衝角攻撃をかわし、かつ速射砲により多数の砲弾を浴びせる事により、北洋水師艦艇に対し損害を与えている。近代軍艦における衝角は20世紀初頭まで装備された。日露戦争時には両軍の主力艦に装備されていたが、日本海海戦においては、数千メートル離れた距離からの砲撃のみによって戦艦を撃沈できることが明らかになった。その後まもなく衝角は装備されなくなり、ワシントン海軍軍縮会議による旧式主力艦の廃艦で1920年代にほぼ消滅する》 (裏付けとしてウキペディアより引用)

 「わが連合艦隊は一度もロシア艦に接触せず、38隻の大艦隊のうち30隻以上を沈めてしまった。彼らが信じて来た海戦の形を日本があっさり書き換えてしまった。観戦武官の報告を受けた英国は日本の戦い方に倣って大口径の主砲を多く搭載した、そして下顎も出ていないドレッドノート型戦艦をデビューさせた。

 それ以上の衝撃はロシアがこれで制海権をすべて失ってしまった事だった。 ニューヨーク・タイムズは日本海海戦から3日目の紙面で「日本はペンシルバニアの会社に軍用トラックと鉄道資材を大量に注文した。日本陸軍は北上し、ウラジオストクを目指すだろう。制海権を失った今、陥落ははっきりしている。皇帝が停戦を躊躇えば日本は交戦国の権利として大西洋、バルト海に出てロシア商船を拿捕、破壊できる。ロシアに降伏以外の選択肢はない」と書いた。そしてその翌日、セオドア・ルーズベルトは日露の和平仲介を宣言した。ポーツマス条約のことだが、その内容は酷かった。日本はロシアから一銭の賠償金も、寸土の領土割譲もなく、ロシアが清朝から25年契約で租借した旅順・大連などの関東州と南満州鉄道の利権だけが与えられた。 セオドアは奸智に長け、人種意識は強かった。同じ白人仲間の国が劣等人種に負けたなど金輪際認めたくなかった。日本への一方的な差別が条約を貫いている。 ところがこれで日本側の説明になると「もはや日本に戦争継続能力はなかった」「セオドアは時の氏神で、それは金子堅太郎とセオドアの友情があっての仲介だった」となる。
 セオドアはこの直後、朝鮮にあった米公館を閉じて「日本が朝鮮を仕切れ」と押し付けて来た。面倒くさい土地は敵対国の負担になるよう押し付けるのは欧米の外交によくある。チャーチルがイラクを取り、面倒くさいレバノン、シリアをフランスに押し付けたのはその好例だ。日本もその後36年間、朝鮮に国費の2割を毎年割いて、感謝どころか、今は百年の恨みを買っている。しかしその朝鮮も日本側では「帝国主義日本が大陸進出の足場に取った」とか、酷いのになると「搾取した」とかいう。世界一遅れた文化も資源もない国から何を搾取したというのか。
 日本の生き方について謙遜して、ときには卑下し、他国から非難されれば、それに根拠があろうがなかろうが頭を下げる。逆に外国からの見方に反発するのは無知なナショナリスト風に言われる。日本人の心根はお雇い外国人から文明を教わっていた時代のまま、停滞しているように見える。
 実際、それは今にも当てはまる。例えばトランプの対支那政策だ。数次にわたる経済制裁を日本のメディアは彼らの神様ニューヨークタイムズに倣って保護貿易の復活と非難する。知財を盗み進出企業に技術ノウハウの提供を要求する異常な支那は「同情すべき被害者」に仕立てる。日本のメディアもまた右に倣い「まずは日中友好」を言う。
 トランプは支那の覇権主義を素直に嫌う。過去の米政権が無関心だった台湾についても支那の金科玉条だった「一つの中国」に一瞥もせずに台湾との外交を事実上復活し、蔡英文も米国の土を踏み、軍事支援も始まった。それだけではない。支那が過去、内政干渉と突っぱねて来たウイグルも問題にし始めた。
 漢民族の世界は昔から万里の長城の内側だった。清朝はその漢民族を奴隷化し、モンゴル、ウイグル、チベットなどの周辺国と連邦を形成していた。辛亥革命でその体制が消えた後、1932年、フーバー政権は突如「漢民族は清朝の版図を継承した」と言い出した。意図は目障りな日本を潰すことにあった。満州を生命線とする日本に「満州は支那領土」「日本は支那の領土を侵犯した」と非難するために生み出した嘘だった。
 世に言うスティムソン・ドクトリンで、実際、日本は国際連盟を脱退し、米国に支援された支那との戦いに疲弊し、ついには真珠湾の罠に嵌っていった。」

《「現実に存在する中国は、1912年の中華民国建国以来、世界史を大きく変えた国民国家化に向けて努力を続けているが、未だに成功していない。なぜなら中国には同じ言語と同じ歴史を共有する国民というものが存在していない。チベット族やウイグル族などは、漢族とはあまりに言語・宗教といった基本的な文化要素が違い過ぎる。清朝は、中国本土だけでなく、満州、モンゴル、チベット、新疆といった地域を300年近い年月、同時に支配してきた。しかし清朝がこれら五つの地域を統一したという事実はない。実態は、清朝の皇帝が、五つの国のそれぞれの君主を兼任していたに過ぎない。それは清朝皇帝が記す公文書に明確に表れている。皇帝は満州人に対して満州族連合会議の議長、モンゴル人に対してはチンギス・ハーン以来の大ハーンとして振る舞い、チベット人に対してはチベット仏教の保護者を名乗る。新疆の人々に対してはジューンガル帝国の後継者として統治権を行使する。そして、中国人に対しては明朝以来の正統の後継者皇帝を名乗った。だから、清朝時代にも、モンゴルやチベットは決して中国の一部ではなかった。実際、中国の統治に関しては、科挙により役人になった者が行政に参加できたが、それ以外の帝国全体の統治は満州人の仕事であり、中国人は参加できなかった。さらに、清朝時代には、税制も五つの国では全く違うもので、モンゴルでは税金を徴収せず、モンゴルの王侯には、中国で集めた金を分け与えていた。そのため現在も中国政府が必死になって実現させようとしている近代中国の基礎となるものは、1912年の中華民国の建国以前にはまったく存在していない。せいぜい、明朝が支配した領土ぐらいが本来の中国であり、満州、モンゴル、チベットなどを領有する権利はない」(岡田英弘著「この厄介な国、中国」)》

《「日米戦争の序章は満州事変であったことはほぼ定説で、少なくともアメリカではそう理解されている。一つにはこの事変が究極的には対米戦争を含んだ第二次大戦に発展してしまった事によるが、今一つは事変当時のアメリカの認定、その時アメリカ政府(フーバー政権)の国務長官だったスチムソンの考え方が大きな役割を果している。その考え方は、1936年に彼が著した『極東の危機』に詳しく残されている。・・・満州事変に対してのスティムソンの基本認識は、中国への過度の思い入れと、国際平和維持体制の重視にある。このことが彼の対応を、現実の軽視、当時残存していた各国の錯綜した利害関係の無理解に繋げた。・・・リットン報告書もその存在を認めていた、①満州における日支鉄道問題、②1915年の日支条約及び交換公文とそれに関する問題、③満州における兆戦人問題、④万宝山事件と朝鮮における排日暴動の問題、⑤中村大尉事件。「この支那官民の永年に亘る組織的な悔日排日の暴虐に対して日本政府は、日本国民は、常に忍び難きを忍んで只管に支那官民の覚醒を期待してきた。しかし支那官民の無法な暴虐が累積していく時、いつかは終に日本国民の忍辱が激怒に変わるべき日の来るのは必然であった」と、昭和7年金港書籍発行「満州事変外交史」は記している。日本の満州を含む中国での活動が、基本的に種々の条約その他に基づいていた。当時の中国は革命外交の方針の下にそれらを否定しようとしていたが、無効になった訳でもなく、従って、それら条約の下での日本の要求にも正当性があった。そのような日本の立場を軽視したアメリカ国務省の判断は、非見識の誹りを受けてもやむを得ない。実際、その満州事変に至るまでに、日本に対抗するための手段としてボイコットが頻繁に行われた。スティムソンは、ボイコットを外的侵略に対する平和的防衛の武器であると考えている。この事実の認識の欠如、あるいは事実の無視による事件全体の判断は決して公正なものとは言えない。・・・
 1932年2月に満州国の独立が発表され、3月1日建国宣言が公布された。スティムソンはこれを日本によって支配されているまったくの傀儡国家と規定した。かれの1月の「不承認宣言」はこのことを念頭に置いたものだった。内容は、パリ不戦条約(1928)に違反するような手段によりもたらされたいかなる事態、条約、協定をも承認しない旨を宣言する、いわゆるスティムソン主義Stimson doctrineである。スティムソンが不承認宣言をイギリスなどと共同で行おうとしたとき、イギリスはそれに同調しなかった。ロンドンのタイムズ紙は「中国の行政的保全を保護するということは、それが理念ではなく実践的になるまでは、イギリスの外務省の仕事ではない。行政的保全を保護するという仕事は1922年には存在しなかったし、今日も存在しない。九カ国条約が署名されて以来、中国の広大な領土の大きさそして多様な地域の上に真の行政的権威が存在したことはなかった。今日中国の命令書が雲南や他の重要な地域に届いていない。満州に対する主権は論争になっていないけれど、南京が中国の首都になって以来それが満州に真の行政を施行したという証拠は無い」と書いた。・・・
 アメリカの中国における利益は、究極的には日本に代わってそこに覇権を打ち立てることであった。門戸開放政策も九カ国条約も、そのためのものである。・・・しかしながらスティムソンが一貫して主導したアメリカの政策は、やがて世界の世論を形成し、後に東京裁判まで連なった。そしてそれがあたかも正義の声であるかのごとく受け止められている。」(柴田徳文著紀要論文「スティムソンの満州事変観の検討」)
 フーバー政権は突如「漢民族は清朝の版図を継承した」と言い出したと髙山氏いう裏付け文書を探したが、この論文の中には見当たらなかった。しかし、スティムソンの論旨からは、もはや、それを前提とした内容となっている。当時の中華民国の革命外交のなかで、中国自らが主張し、それを追認したのがスティムソンドクトリンなのだろう。》

《革命外交について、髙山正之氏は別にコラムで次のように綴る。孫文は武昌蜂起を米国の新聞で知るとすぐには支那に帰らなかった。逆方向のニューヨークに飛び、そしてロンドンに回り、新しい支那の統帥者と称して資金集めに駆け回った。彼は過去10回蜂起して10回失敗したが、その都度、出資者を探し出しては焼け太っていった。多分、今度も失敗だろうが、カネが集まればそれでいいと孫文は思った。そういう男だと彼をよく知る米人ジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・リーがその著作で書いている。孫文が帰国すると案に相違して革命は成功していた。黎元洪は偉そうにし、袁世凱も出てきた。詐欺師孫文の出る幕はなかった。ただ一つ、支那で辛亥造反と呼んだ武昌蜂起を彼は日本風に「辛亥革命」と改めた。これだけは支那人も倣った。以後、政治的な卓袱台(ちゃぶだい)返しを「革命」と称した。
 支那人がこの言葉を不平等条約改正で最初の使った。日本は各国と交渉を重ねてなんとか条約改正を果したが、支那は革命外交と称して全ての不平等条約を何の交渉もなしで一方的に無効とした。日本の満州権益も同じで支那は過去の経緯を消して卓袱台を返した。以後、支那は国際ルールを無視した「革命」外交一本で今までやってきた。南沙は国際法廷でお前に権益はないと判決しても革命的に無視した。50年間は一国二制度の香港も勝手に一制度に切り替え中だ。そして我が尖閣も革命的歴史観で支那の核心的領土にされつつある。のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある。教え諭すより拳骨で叩きのめすときが来たように思うが。と》

「台湾もチベットもウイグルも支那のものという「一つの中国」はクリントン夫妻、オバマらが支那から金を貰って支えてきた。それが今崩れつつある。世の中には新聞が伝えないだけで、結構心躍るいい話がある。そして何より、日本人がどんなに優れた資質を持っているか。卑下と腹黒い世界の中でいかに真摯に生きて来たか」と、2018年初秋に髙山正之氏は記している。

 日本人が謙虚で優れた資質を持っていることを、変えることは必要ない。しかしこと海外諸国と対峙する時は、髙山正之氏が言うように、自国の主張をキチンと伝えることは必須である。政府・外交官は無論のこと、日本のメディアも同様である。特にNHKの海外向け報道について、日本の立場を十全に伝えることは、視聴料を税金の如く徴収している組織として当然である。しかし、報道の自由という言葉に隠れて、中国や韓国に配慮した報道が目に余る。YouTubeなどの海外から日本を見る目が、いかに誤解に基ずく誤認が多いか、うんざりするが、これは単に政府間の問題だけでなく、日本のマスメディアの責任も大きい。海外報道を利用して、政府を批判する手法は、まさしく隣邦諸国に材料を提供する、役割を果すことになる。
 先ごろ、垂前駐中国大使が「中国が最も恐れる男」として日本のマスメディアに盛んに報道で取り上げられたが、氏は日本の立場を正確に伝えることに腐心された方である。メディアは自分たちで言えないから、垂秀夫氏に言って貰っている構図である。垂氏がここまで持ち上げられることが、ある意味、日本の異常さの表われである。「のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある」という髙山正之氏の言葉には重みがある。

 中国がGDPで日本を抜いて久方である。一時はアメリカを抜くとか抜かないとか、議論があった。しかし、トランプが牙を抜いたら、中国の経済はだんだんおかしくなって、いまやチャイニーズ・ランとか言って、海外企業がどんどん抜け出している。中国はやっと事態の重大さを理解しつつあるが、この流れを食い止めることは難しいだろう、中華民国の偉大な復興を掲げる習近平がトップにいる限り。
 中国の高度成長を助けてあげたのは日本だったことは前に触れたが、そもそもなぜ中国が世界の工場と言われるようになったかは、誰も語る人はいない。私は密かに日米貿易摩擦、貿易戦争に端を発したと理解している。当時1975~1988、アメリカは貿易赤字に苦しんでいた。日米貿易は圧倒的に日本の貿易黒字だった。日米間の貿易摩擦は1950年代まで遡る。まずは綿製品等の労働集約的品目で日本は外貨を稼いだ。結局日本の輸出自主規制を受け入れ、沖縄返還を実現、「糸で縄を買った」などの憶測を呼んだ。同時期、日本の鉄鋼製品も摩擦の原因になった。その後カラーテレビでも摩擦が発生、対米輸出台数が制限された。続いて第一次石油危機によるガソリン価格高騰で小型輸入車がアメリカ市場で増加、ビックスリーに対して大きな打撃となった。日本の自動車メーカーに対する米国からの現地生産要請を日本側が渋っているうちに、状況は悪化。UAWが日本車についてダンピング提訴、結局日本側の輸出自主規制措置が講じられた。その後日本メーカーの現地生産が開始され、自主規制は撤廃された。また米国の半導体産業は当初特殊な形態(マーチャントとインテグレーティッド)でスタートし、日本は総合電機メーカーでスタート、資金力や人材面で優位に立ち、世界半導体販売ランキングで上位を日本メーカーが占め、米国は安全保障上の観点から日米半導体協定が締結、その後日本メーカーに衰退が始まった。さらに対米貿易黒字の縮小のため日米構造協議が行われて日本側の内需拡大を求められ、そのツケが1990年代の日本のバブル崩壊につながった。その間米国側の言い分は日本の低賃金、ダンピングの疑いを常に持っており、当初は生産をメキシコや東南アジアに移転する方策を取っていた。その先に天安門事件で制裁を受けていた中国に、その制裁が緩和されると改革開放を唱える鄧小平中国に生産拠点を移転する動きが急展開した。日本も低賃金の中国へ、円高の為替環境もあって、日本企業が中国に進出、日本のデフレ化に貢献した。

 中国の生産方式は低賃金に加え、日米欧の先端技術を導入して、徹底的な大量生産方式を採用、価格競争で世界シェアを獲得する方式で急成長を遂げた。また日米貿易摩擦を研究して、元の為替はドルリンク。為替操作による競争力低下を未然に防いだ。中国エコノミスト柯隆氏は今年の日本での記者会見で、中国の土地制度は日本の定期借地権を参考に考案されたと述べていた。1990年代末に考案され、瞬く間に中国のGDPの3割を占めるまでに拡大した。ただし、中国のGDP信仰は、最近の情報によると、中国経済の仕組みを崩壊させる要因になっているようだ。改革開放で取り入れた経済の仕組みは、資本の論理(単純化すれば資金繰り)で動かざるを得ず、現在流れてくる情報ではそう言えそうだ。共産主義のロジックと相容れない。ここが中国の最大のウイークポイントである。片方で、海外企業のチャイニーズ・ラン。さらにトランプが追い打ちをかけると、中国の就業者数は悪化を辿る。経済情勢の悪化が社会不安につながる。この情勢を習近平は何処まで正確に掌握できているか、よその国ながら心配である。

 石平氏は中国の民主化運動に傾倒。北京大学卒業後、88年に来日、神戸大学院博士課程を卒業後、民間研究機関勤務後、執筆活動に入り、日本国籍を取得。山本七平賞も受賞。現在はユーチューブで活躍、その論説は明快。タイトルは氏の著書から借用した。このブログでもすでに、彼の主張を取り上げた。石平氏の鬱屈した主張をまず聞こう。二度目の引用となるかもしれないが、詫びずれずに、「1989年、留学のために日本の大学院に入り、中国近代史が日本でどのように書かれているか、興味を持った私は、日本の権威ある大手出版社から刊行された関連書籍を大学図書館から借りて色々と読んでみた。読後の感想はひとこと、『なんと気持ち悪い!』、そして唖然としてしまった。その理由は簡単だ。日本の一流知識人たちが書いた中国近代史のほとんどは、まさに中国共産党の『革命史観』に沿って書かれた、中国共産党への賛美そのものだったからである」「中国共産党シンパの日本の知識人が書いた、『中共史観の中国近代史』が広く読まれた結果として、今なお日本では、中国共産党に親近感や甘い幻想を持つ財界人や政治家が数多くいるように思う。私は、中国共産党を賛美する偽の『中国近代史』が日本国内で氾濫していることを、これ以上看過できない。嘘と偽りで成り立つ『中国共産党革命史観』を、この国から一掃しなければならない。そのために、自らの手で中国共産党史をまとめて、世に問うべきではないかと思ったのだ」と。 石平氏の主張に対して、正面から論争を持ち掛けた日本の中国近代史家は聞いていない、ただやり過ごしているのだろう。

 石平著「中国共産党暗黒の百年史」の中国近代史は次のように始まる。「中国共産党という政党が創建されたのは1921年7月1日のこと、この日こそ、中国史上と世界史に悪名を残すサタン誕生の日である。この中共という名のサタンを中国の地で生み落としたのはロシア人のソ連共産党、厳密にいえば、ソ連共産党が創設したコミンテルンである。コミンテルンの極東書記局が設立され、中国を含む極東地域で共産党組織を作り、暴力革命を起こさせるのが任務であった。こうして1921年、コミンテルン極東書記局の主導により、コミンテルンからの100%の資金援助で、陳独秀という共産主義に傾倒する知識人を中心に、上海に集まった13人のメンバーが、中国共産党を結党した。その時、現場にいて彼らの血統を指導・監督したのはコミンテルンから派遣された、ニコルスキーとマーリンという二人のロシア人である。中共は創立直後から、コミンテルンの方針に従い、煽動とテロによる暴力革命の実現を中国各地で試みたが、失敗の連続に終わり、勢力拡大も思惑通りいかなかった。当時の中国では、1911年の辛亥革命で樹立された中華民国が軍閥勢力を打倒すべく奔走していた。従って中国国内の革命勢力は、孫文と彼の作った国民党を中心に結集していたため、どこの馬の骨か分からない暴力集団の中国共産党は、本物の革命派から見向きをされなかった。
 中国共産党の不人気と無能に痺れを切らしたコミンテルンはやがて方針を転換し、孫文率いる国民党勢力を取り込むため、支援することにした。その目的は、民主主義共和国の建設を目指す孫文の革命を、ソ連流の共産主義革命に変質させ、中国革命そのものを乗っ取る事である」と。「その乗っ取り工作の先兵となるのが中国共産党であった。コミンテルンは国民党への財政支援や武器提供の見返りとして、孫文に一つの要求を突き付けた。中国共産党の幹部たちが共産党員のまま国民党に入り、国民党幹部として革命に参画することを受け入れよ、という要求だった。近代的な政党政治の原則からすれば、そんな要求は全くナンセンスで、あり得ない話だが、孫文はコミンテルンの支援をどうしても欲しかったため、このとんでもない条件を飲んでしまった。今から見れば、孫文が下したこの姑息な決断が、中国と世界にとっての大きな災いの始まりであり、国民党にとっては破壊への序曲となった。
 中国史上第一次国共合作と呼ばれるこの出来事は、1924年に起きたが、その内実は、コミンテルンに使嗾された中国共産党による、国民党への浸透工作、中国革命の乗っ取り工作である」と。

 中国の歴史書を綴る場合、紀伝体と編年体と分かれたが、石平氏の記述方式は中国共産党を一個の人間に例えた紀伝体記述方式である。歴史を深く理解する為にはこの方式の方がベターである。編年体方式は歴史の表面に表れた事象の羅列に留まることが多く、歴史の裏面を知るには難しい。更に、ここでは中国共産党の歴史を知るのではなく、日本との関りについて、タイトルの内実に迫りたいと思う。石平氏は次のように記述する。
 中共の思惑にのった「国交正常化」
 「中国共産党政権が成立した1949年から1972年の23年間、共産党統治下の中国は、隣国の日本と、ほぼ無交渉の状態であった。その時代、日本は共産党中国を国家として認めておらず、国庫を結んでいたのは台湾の中華民国の方であった。そして、東西対立の冷戦時代において、日本はアメリカの同盟国として西側陣営に属し、共産主義陣営の中国とは対立関係にあった。共産主義国家・中国と国交断絶していた状態は、日本にとって決して悪くはなく、むしろ幸いだった。日米同盟に守られる形で日本は長期間の平和を享受でき、戦後復興と驚異の高度成長を成し遂げ、世界屈指の経済大国・技術大国となった。そして今振り返って銘記しておくべきは、日本の戦後復興も高度成長も、中国市場とは何の関係もなく、中国と経済的に断絶したまま達成できたことである。
 日本が共産党政権下の中国と初めて正式に関係を持ったのは1972年、中国政府は当時の田中首相を北京に招き、一気に国交正常化にこぎつけた。中共政権は一体なぜ、日本との国交樹立を急いだのか。その背景にあったのはもちろん、当時の中国とソ連との深刻な対立関係である。1949年に中共政権が成立すると、外交関係では直ちにソ連と同盟関係を結び、共産主義国家陣営に文字通り一辺倒の状態となった。1950年代を通じて、中国は一貫してソ連との同盟関係を基軸に、反米・反自由主義世界の外交政策を進め、共産国陣営の主要メンバーとして西側と厳しく対立した。だが1960年代に入ってから、状況は次第に変わっていった。
 共産主義国家陣営内の主導権争いで、毛沢東政権はソ連共産党とケンカを開始し、対立が徐々に深まった。60年代半ばになると、中共政権とソ連共産党政権は完全に決裂して、互いのことを共産主義の裏切者と罵り合うようになった。そして1969年、中ソの間で国境を挟んだ軍事衝突まで起きた(珍宝島事件)。両国はこれで、不倶戴天の敵対関係となったが、ソ連と敵対関係になった中国はソ連を盟主とする共産主義国家陣営からも当然破門となり、追い出された。同時に、中国は共産主義国家として冷戦中の西側陣営とも対立していた。まさに世界の孤児となり、史上空前の四面楚歌の孤立状態に陥った。しかも軍事大国だったソ連は、中国との長い国境線に100万人規模の大軍を配置して、いつでも中国側に攻め込む態勢をとっていた。これは外交面でも安全保障面でも、中共政権にとって政権樹立以来の最大の危機であり、政権崩壊につながりかねない。この危機的な状況を打開するため、1972年2月、中共政権は水面下での工作を周到に行った上で、当時のニクソン米大統領を北京に招き、米中対立の劇的な緩和を図った。
 一方のアメリカにも、中国に接近して強敵のソ連を牽制しようとする戦略的意図があったから、双方の思惑が一致して両国間関係は改善された。これで一気に、米ソ両大国と敵対する危険な状況から脱出したが、アメリカとの国交樹立までには至っていない。アメリカは民主主義陣営の盟主として、共産主義国家・中国との国交樹立までは、さすがに躊躇していた。そこで中国は、日米同盟の矛先をかわし、ソ連の脅威から自国の安全を守るために、日本との国交樹立に動き出した。ニクソン訪中から7か月後の1972年9月、中国は時の田中角栄首相を北京に招き、わずか数日間の交渉で一気に国交樹立を実現させた。そのために中国政府は「日本に対する戦争賠償の放棄」と「日米安保条約の容認」という二つの好条件を揃えて日本側に差し出した。自らの国際的孤立を打破して強敵のソ連と対抗するため、当時の共産党政権はそれほど日本との国交樹立を熱望していた。
 しかしこの国交正常化は日本にとってどんなメリットがあったのか。前述のように、1972年までに二十数年間、日本は中国との関係を断絶したまま、長い平和と安定を享受できたし、中国市場と無関係に戦後復興と高度成長を見事に成し遂げていた。しかも、当時の日本は中国のように国際的に孤立していたわけでもなく、ソ連を含む世界の主要国のほとんどと国交を結び、概ね良好な関係にあった。ならば日本は何のために、共産党政権の中国と国交を結ばねばならなかったのか。この問題について、当時の日本の政治家も、後世の専門家も、誰一人として明確な答えを出していない。田中角栄を含む当時の日本の政治家や外交官僚はただ日中友好のムードに流されて、なんとなく、中国と国交正常化して良かったと思っていただけだろう」と石平氏はきびしい。確かに当時はあの支那事変の負の遺産を清算したいという気分はあった。共産党中国というよりは、中国と。しかしその中国は台湾の中華民国が引き継いでいた。その中華民国を切り捨てて、共産政権と国交を開いた。率直に言えば、共産党中国をそれほど恐れて居なかった、それより巨大な人口を持つ国家を認知した方が、地政学的に安全だと、時の政府は考えたのかな。その後の両国の経緯を見て、石平氏は言う。
 「今から見れば、1972年の日中国交正常化の正体は、まさに中共政権による、中共政権のための国交正常化であった。その時から約半世紀にわたる、中国共産党による日本の利用と、日本叩きの始まりに過ぎなかった」と。

 日中友好の甘言で資金と技術を騙し取った鄧小平
 「田中訪中の1972年当時、中国は文化大革命の最中であった。中国は完全な鎖国政策を取っていたため、国交が樹立されてからもしばらく、日中間で目立った往来や交流はなかった。やがて1976年に毛沢東が死去すると、数年間の権力闘争を経て中共政権の実権を握ったのは共産党古参幹部の鄧小平であった。現実主義者の彼は最高実力者の座に就くと、毛沢東時代晩期に崩壊寸前だった中国経済の立て直しを何よりの急務とし、中国経済を成長路線に乗せることを至上命題とした。そのために開発開放路線を唱え、強力なリーダーシップで推進していった。
 改革とは要するに、毛沢東時代に出来上がった計画経済のシステムに改革のメスを入れ、資本主義的競争の論理、市場の論理を導入することである。それによって、中国経済の活力を取り戻そうとした。
 開放とは、毛沢東時代の鎖国政策に終止符を打ち、中国を世界に開放することだ。その最大の狙いは、外国の資金・技術を中国の導入することだ。経済を成長させるには技術・資金・労働力の三つの要素の投入が必要である。当時の中国には労働力はいくらでもあったが、肝心の技術と資金がない。そこで鄧小平は、開放路線の実施によって先進諸国から技術と資金を導入する方法を考え出し、実行に移した。その時、鄧小平たちが技術と資金を導入する国としてまず目をつけたのは、近隣の経済大国・日本である。
 日本は今でも世界有数の経済大国・技術大国であるが、1970年末の時点では世界での存在感は今よりもっと大きかった。日本には、鄧小平が喉から手が出るほど欲しい技術と資金がいくらでもあった。それを中国に引っ張ってくるために、鄧小平たちは日中友好という心にもないスローガンを持ち出して、日本の政界と財界、そして日本国民を篭絡する戦略をとった」と。 籠絡(ろうらく)する: 巧みに手なずけて、自分の思いどおりに操ること。「甘い言葉で—する」  石平氏がなぜここで籠絡する戦略と言い切っているのか。
 「中国はまず、1978年8月に「日中平和友好条約」の締結にこぎつけた。その上で、この年の10月22日から29日までの8日間、鄧小平は事実上の中国最高指導者として初めて、日本を正式訪問した。8日間にわたる長旅の日本訪問で、鄧小平は尖閣問題の棚上げを表明した。歴史問題にもいっさい触れないことにした。彼は極力、日本のマスコミと国民の好感を買うよう努めた。その一方で鄧小平は、あらゆる場面で日本の産業技術への興味を示し、日本の政界と財界に対して、中国の近代化への支援を求めた。訪問の期間中、鄧小平は日本の産業を代表する新日鉄・日産・松下の3社を見学したが、新日鉄の君津製作所を見学した際、工場の設備や技術について詳しく尋ね、その場で日本側に対し、中国人労働者の受け入れと中国に投資して同じような工場を建設するよう要請した。中国側にとって、鄧小平訪日は想定以上の目的を達成し、大成功に終わった。石平氏の手元には、人民日報運営の「人民網日本語版」が2008年12月3日に、鄧小平訪日30周年記念に掲載した回顧記事があるが、次のように総括している。『鄧小平氏の訪日後、中国では日本ブームが沸き起こった。多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれた。中日政府による会議も相次いで行われた。官民の各分野・各レベルの交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展した」 このブログでも取り上げた清朝末期での中国人留学生が大勢日本に押しかけたときのことを想起させる。現在はすっかり忘れられた日中間の交流は繰り返し起こっている出来事だ。しかもどれも中国側からの要請で起きている。しかし石平氏の引用した新聞記事は日本語版である。中国版ではどうなっているのか。中国版で触れられていなければ、籠絡する戦略の裏付けの一つになる。
 「人民日報記事に言う両国の協力は急速に発展したとは、日本が朝野にあげて資金と技術を中国に注ぎ込んでいったことを意味する。実際、鄧小平訪日翌年の1979年から、中国に対する政府開発援助(ODA)が日本政府によって開始され、経済成長を促すインフラ整備のため、大量の資金が中国に流れた。さらに、鄧小平自らが訪問した新日鉄や松下電器をはじめ、多くの日本企業が競って中国進出を進め、中国国内で投資を始めた。投資すれば当然、資金と技術を持っていくことのなる。
 結局、当時の日本政府と日本人は、日中友好という世紀の甘言と歴史問題や尖閣問題を巡る鄧小平の善隣友好姿勢にまんまと騙されて、中国が喉から手が出るほど欲しがっている資金と技術を鄧小平の懐へ注ぎ込んだ。中国はそれを利用して産業の近代化を図り、ボロボロの経済を立て直して成長の軌道に乗せることが出来た。しかし鄧小平は日本からの資金と技術の提供に、本心から感謝したか。もちろんしない。鄧小平は本当に歴史問題も尖閣問題も忘れたかといえば、もちろん忘れていない。1982年6月、日本の文部省の歴史教科書検定で華北侵略が華北進出に改訂されたとの報道が出ると、中国政府は早速外交問題にして日本政府に圧力をかけた。そして日本の歴史教科書の記述が近隣国に配慮しなければならないという近隣諸国条項を事実上、日本に強いた。
 1985年、戦後政治の総決算を掲げた当時の首相、中曽根康弘が8月15日に靖国神社への公式参拝を行うと、中国政府はまたもや、日本の内政問題であるこの一件を政治問題化して、あらゆる手段を使って日本側への圧力を強めた。その結果、中曾根康弘は翌年からの公式参拝を取り止め、自ら掲げる戦後政治の総決算は最初から頓挫することとなった。
 日本を利用すべき時は思う存分利用し、叩くべき時は思い切って叩く。鄧小平はによって開発されたこの老獪にして横暴な日本対処法はその後、中共政権の対日外交の常套手段となった。」 巧みに手なづけて、自分の思うどうり操ること。ここまでの経緯を紐解くと、確かに籠絡するという言葉が残念ながら当てはまる。

「1989年6月に中国では天安門事件が発生、中共政権は戦車部隊まで動員し、民主化を求める学生や市民に対し、大規模な虐殺を断行した。これで中国は世界中から激しい批判の嵐に晒され、国際的に完全に孤立した。アメリカを中心とする西側諸国は中国への制裁を実施し、海外からの投資が完全にストップした。89年、90年の経済成長率はそれぞれ4%台まで落ち込み、実質的なマイナス成長となった。このままでは、中国は国際社会から孤立したまま、経済崩壊という最悪の結末を迎えることになりかねない。人権抑圧に反発する西側諸国は、経済面だけでなく、首脳らの訪中も取りやめるなど制裁の幅を広げていた。当時の中国指導部にとって、こうした対中制裁網を突破するため、どこかに風穴を開けることが緊急の課題となっていて、まさに生き残りをかけた最優先任務だった。彼らが目をつけたのは、西側先進国の中で中国の外交工作にもっとも弱く、中国にもっとも利用されやすい日本である。
 外交的孤立の突破口を開けるため、中共政権は盛んに対日外交工作を行った。天安門事件翌年の1990年11月、外交担当の副首相だった呉学謙は天皇陛下の即位の礼への参列のため日本を訪問し、与党自民党と野党の要人たちと続々と会談を行った。外交工作の結果、呉学謙訪日の直後に、日本政府は天安門事件後に凍結していた第三次円借款の再開を決め、西側諸国野中で最も早く、率先して中国への経済制裁を解除した。そして1992年4月、今度は共産党総書記の江沢民が日本を訪れた。彼の訪日の最大にして唯一の目的は、当時の宮澤喜一内閣を相手に、天皇訪中を実現する工作の大詰め作業であった。江沢民と中共政権はこの工作の成功に国運のすべてをかけていたが、結果的に彼らの必死の工作が功を奏し、1992年10月、日中関係史上初の天皇訪中が実現した。
 江沢民と中共政権は、この外交上の成功から何を得たのか。時の中国外相の銭其琛が2003年に出版した回顧録の中で、『日本は中国に制裁を科した西側の連合戦線のなかで弱い部分であり、自ずから中国が西側の制裁を破る、もっとも適切な突破口となった』『天皇訪中が実現すれば西側各国が中国との高レベルの相互訪問を中止した状況を打破できるのみならず、日本の民衆に日中善隣友好政策をもっと支持させられるようになる』『この時期の天皇訪中は、西側の対中制裁を打破する上で積極的効果があり、その意義は明らかに中日両国関係の範囲を超えていた。この結果、欧州共同体が制裁解除を始めた』
 そのために、中共政権は国を挙げて天皇訪中を熱烈歓迎した。党総書記の江沢民自身が先頭に立って日本中の親中政治家やチャイナスクールの外交官を動かし、対日工作を必至に展開した。工作によって実現した天皇訪中は、最初から最後まで中共政権の党利の画策されたもので、まさに中共による中共のための政治的イベントに過ぎなかった。その結果はすべて、中共政権の望む通りの展開となった。天皇訪中以来、中国は日本を突破口にして西側の制裁網を打ち破り、国際社会への復帰をみごとに果たした。状況が安定してからは、中国への諸外国からの投資は以前よりも格段に増え、ふたたび、中国経済の高度成長の起爆剤となった。そして、天皇訪中の1992年から2021年までの30年間、中国は史上最大にして最長期間の高度成長を成し遂げ、日本を抜き去って世界第二位の経済大国となった。高度経済成長の上に成り立つ中国の軍事力と外交力の増強は、日本の安全保障を脅かす、現実の脅威となっている」

 「天皇訪中から6年も経った当時、中国は天安門事件以来の疲弊した国内経済の立て直しにある程度成功し、当時のアメリカのクリントン政権ともよい関係を構築して、国際的立場はかなり強くなった。日本に対する立場がすでに優位になったと思った江沢民は、日本訪問中、いたるところで歴史問題を持ち出し、激しい日本批判を行った。中国を大いに助けたこの日本の地において、彼は終始一貫、威圧的・横暴な態度を貫いた。恩を仇で返すという言葉を地でいく、あるまじき言動であったが、日本人としてもっとも許し難いのは、天皇陛下主催の宮中晩餐会での江沢民の無礼千万の振る舞いであった。宮中晩餐会の礼儀に沿って、ホスト役の天皇陛下をはじめ、男性の出席者全員がブラック・タイの礼服を着用していた。ところが、江沢民一人だけが黒い人民服を身に着けて厳しい表情で臨席し、天皇陛下に対する非礼の態度を露わにした。そして晩餐会でのスピーチで江沢民は、日本軍国主義は対外侵略の誤った道を歩んだ云々と、天皇陛下の前で公然と日本批判を行い、日本国と天皇陛下の両方を侮辱した」「日本人にとって大きな屈辱だったこの光景こそ、1972年の国交樹立から始まった日中関係の基本的性格を象徴的に表したものである。約半世紀もの間、日本という国は、いつも中共政権に利用されて中国を助けた後、噛みつかれて深い傷を負う羽目になった」と石平氏は日本人以上に憤っている。日本人をカモにしたというタイトルも納得いく経緯である。いったいこれは何に起因しているのだろうか、これは我々自身への課題でもある。

 石平氏は言う。石平氏が記述した衝撃的な真実から再度、中国共産党の邪悪な本質を認識していただきたい、そして日本が今後、中国共産党が支配する中国とどう向き合っていくべきか、真剣に考えて頂きたいと結んでいる。では日本の現状はどうなのか、中国共産党にきちんと日本側の考えを正確に伝えることで評価の高かった、中国がもっとも恐れる男と異名を持った元駐中国大使、垂秀夫氏の見解を東洋経済オンラインでのインタビュー記事で聞こう。
 1、日中関係の課題は?
 「日中関係の基礎は経済交流と人的往来だ。とくに私は人的往来、なかでも中国から日本への人の流れに注目している。いま中国人が日本に大勢来ているが、私はこれを近代史で3回目の「日本ブーム」ととらえている。アリババ創業者のジャック・マー(馬雲)氏などの有名人も日本に生活拠点を持っていることが知られている。この現象を、歴史を踏まえて観察することが必要だ。国の将来を悲観して、多くの中国人が海外に渡っている。行き先としてはアメリカ、カナダ、オーストラリア、シンガポールなどが候補になってきたが、いまは日本が一番ホットになっている。
 2、習近平の統制を嫌っている人たちは、日本をどう思っているのか?
 1989年の天安門事件の際に、日本はまっさきに制裁を解除した。そのことが共産党に塩を送ったという印象があるので、体制に距離を置く知識人は日本に関心を失っていた。
 私は2002年に胡錦濤政権が成立したころから、中国の先行きを考えるうえで「民主主義」と「法の支配」が決定的に重要になると思っていた。そこで私は継続的に知識人を日本に招いて、現実の日本社会を見てもらうようにした。そのなかには、国会議員の選挙を視察した人もいた。与党と野党それぞれの候補の演説風景を見たり、選挙カーやポスターをめぐるルールなどを知ることで、「民主主義」がどのように運営されているかを理解したようだ。当時の安倍晋三首相が応援演説している際に握手した人は、大いに感動していた。「アジアに民主主義と法の支配がここまで定着している国があった」ということで、彼らにとっては「日本を再発見した」という思いだったろう。東日本大震災の際の日本社会の秩序ある対応に感動している人も少なくなかった。
 3、日本を知ってもらう事で中国の変化を期待するという事か?
 中国をどう変えるかは、あくまで中国人が決めることだ。しかし中国が「民主主義」と「法の支配」を尊重する方向に変わっていくなら、それは日本にとってもいいことだ。そうした変化の担い手とのつながりをもっておくのは大事だろう。いま日本に富裕層が多く来ているというのは大きなポイントで、彼らは今後中国が変化していくうえで重要な役割を担う可能性がある。現在の台湾の与党である民主進歩党はもともと体制外の活動家の集まりだったが、台湾の企業家たちがスポンサーになったことで政党として成長した。

 中国の変化を待つ、これが従前から共産中国に対して取って来た日本のスタンスではなかったか、その結果が石平氏の各種指摘であり、習近平政権の日中戦争にまつわる三つの国家記念日、7月7日の「抗日戦争勃発記念日」、9月3日の「抗日戦争勝利記念日」、そして12月13日の「南京大虐殺犠牲者追悼日」を2014年2月の全人代で法案を採択した。中国の変化を待つという消極的な政策はお蔵入りだ。その間、国が動いた。日本が前面に立つようで立たないでいられる、対中国包囲政策が安倍政権の時に実行された。「TPP」結成であり、「自由で開かれたインド太平洋戦略」であり、自由や民主主義、法の支配といった基本的価値を共有する日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みのクアッドなどである。背後にはトランプ政権の時に始まった対中貿易政策もある。巨視的な見方は次回に回そう。

1、なぜ日満支ブロック経済圏構想が生まれたか 
  中原とは黄河文明誕生の地であり、中華文明の中心地として数千年にわたって栄枯盛衰を繰り返してきた。帝国は典型的な農業帝国であり、二千~三千年前から黄河流域で栄えた後、時代とともに南下したが、それは自然との共生というより自然の食いつぶしという営みだった。過剰開発で生態系が崩壊しつつある社会だから、近代になって社会の「一窮二白」(窮は貧困、白は白紙状態=文物の低水準状態)がいっそう昂進した。
 満州は清王朝発祥の地としてずっと支那人、朝鮮人の入植を禁止した。20世紀に入って封禁が解かれると人口が急増し、瞬く間に中国化、軍閥が跋扈し伝染病が蔓延することとなった。1900年の北清事変で全域をロシアに占領され、鉄道が敷かれ、都市が建設され、投資と技術移転が行われた。日露戦争後、代わって日本が南満州の近代化建設を行った。1932年満州国が成立し、その時点から近代化が急ピッチで進み、わずか十数年で、自動車、飛行機まで作る一大近代産業国家へと急変貌した。台湾、朝鮮、満州まで押し寄せた日本からの文明開化の波は、日中戦争の勃発とともに中国にまで及んだ。だが、周知の通り、それから8年ほどで日本の勢力は敗戦により中国大陸から撤退した。華北、華中、華南において第二、第三の満州国が再現され、人々が近代文明の恩恵に浴することが出来なかったことは、東亜の文明史から見て一大挫折だったと、黄文雄氏は嘆く。
 それまで中国の国民経済は、特に欧米列強の経済に依存し、搾取の対象になっていた。半植民地と言われる所以でもある。その原因としては、この列強の経済進出だけでなく、中国の民族資本が貧弱だったことが挙げられる、と黄文雄氏。中国は元来農業国であって、鉱工業はまだ初期資本主義のの段階を脱していなかった。対外貿易を行うにも資本と技術不足で、鉱工業、貿易の多くは外国資本の支配下に入った、と。列国中、日本は対中投資額の面で英国と一位、二位を争っていた。1931年の外国投資総額に対する割合では、英国36.7%、日本35.1%、以下ソ連、米国、フランス、ドイツ。それが34年になると、日本53%、英国24%となった。だが、日本の投資の大部分は主に軽工業に向けられ、土着資本と正面衝突を演じたため、反日機運を高める一方、土着資本を欧米依存へと走らせた。英国は投資の7割を交通、運輸、銀行、金融機関に向けられ、表面上、土着資本の脅威にならなかったばかりか、中国経済の近代化を支援するものと評価さえされた。結局、中国の民族資本は英国に、労農階級はソ連に奪われる形で、日本は中国で経綸を行う足場を築けなかった。
 世界恐慌後、英・仏は排他的な経済的自給自足を図るブロック経済を採用し、日本の工業製品は世界で締め出しを受けた。そこで外国貿易に依存していた日本では、自国防衛にため満州、さらに華北を対象としたブロック経済圏の建設構想が生まれた。

 1932年の満州国建国で、日満の政治、経済の提携が密接になると、満州と国境を接する華北の政情や経済などの不安と動揺は直接満州国に影響を及ぼすだけでなく、軍事的には中国側の反日反満の軍事的策源地となり、北京などはソ連の赤化工作の拠点だったため、華北は満州、ひいては日本にとって大きな脅威に映った。それと同時に華北は、日満の不足資源を補い得る経済的パートナーとして期待された。重工業、軽工業、化学工業が進んでいた日本と、石炭、鉄鋼などの鉱山資源が豊富にあった華北とは、摩擦、衝突を起すことなく互助関係を確立できるものと考えられた。また消費財の多くを自給出来ない中国にとり、廉価な日本製品を輸入することは得策であった。華北において35年に蒋介石の国民政府から独立した冀東、冀察両親日政権が成立した後、満鉄は子会社の興中公司を設立し、華北の鉱山資源の開発と対日輸出、鉄道の敷設に乗り出した。華北の資源は量、質ともに優良で、興中公司は眠れる資源を高度技術で開発し、生産を増大して日満の国防・経済に支柱にすることを目指した。それは日満支共栄圏構想にもとづいたものであり、中国民衆の生活向上を目的の一つにしていた。日本が求めていたものは中国の反植民地状態の解消だった。

2、雄大だった占領地近代化構想
 日本軍は支那事変勃発翌年の1938年10月に武漢を攻略し、大規模な軍事行動はここで終了させ、以降は日満支共栄圏を打ち立てるため、占領地の経済建設に乗り出すことになった。日本政府が11月3日に発表した「重大声明」は、「帝国の冀求する所は東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり、今次征戦究極の目的また此れに存す。この新秩序の建設は日、満、支三国相携え政治、経済、文化など各般にわたり互助連環の関係を樹立するをもって根幹とし、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり」。当時川越茂駐中国大使は新中国の建設問題に関し、「経済力が先行して政治機構が自然発生的に生まれ出ることは支那式で、この方法が支那には適している」と述べている。
 日本軍の占領地は、中国本土の人口の約4割、耕地面積の54%で、米麦の39%、雑穀の69%、豆類の43%、小麦粉の98%、さらには石炭、鉄鉱石のほとんどを算出していたほか、綿糸、綿布、セメント、マッチなどの工業製品のほとんども生産していた。しかし当時の中国経済は殆どが封建的で、資本主義的な産業組織が存在しなかった。近代資本と言っても商業的な利潤追求を主眼とした官僚資本、買弁資本として発達したもので、大資本による長期的投資などは望むべくもなかった。だから蒋介石の国民政府がいくら鉄道や鉱工業の発展方針を打ち出しても、事業は遅々として進まず、結局は列国の借款に頼らざるを得ない状況だった。
 且つ、少なからざる産業施設は戦火で破壊された。日本軍の砲爆撃もあったが、それ以上に中国軍の焦土作戦による被害が深刻だった。中国軍は伝統的な兵法として、日本軍の補給を断つために、退却のたびに「清野作戦」(焼き尽くし、奪い尽くす)を行っていた。工場、鉄道、その他の近代施設から堤防、あるいは町を丸ごと破壊しまくった。
 そうした中、日本による占領地の経済建設は「長期建設」が謳われた。中国を近代国家に押し上げるというもので、従来中国人自身がなし得なかった、雄大な構想だったと黄文雄氏。それは思い付きでも冒険的行為でもなく、また侵略の野心の糊塗などでもない。台湾、朝鮮で近代化に成功し、満州でも着々と近代的産業が生まれていたので判る。アジア人によるアジア史は、ダイナミックな流れを見せていた。しかし結果的には、その途上で日本が敗戦を迎えて頓挫、この史実は日本の過去否定と相俟ってあまり語られていない、と黄氏。

 1937年12月24日の閣議で事変対処要項を決定し、「日満支提携共栄実現の基礎を確立する」ことを同地域の開発目標とし、そのため中国の現地資本と日本の資本、技術を結合させ、経済各部門を開発整備し、秩序の維持、民衆生活の安定を図るという華北の経済開発方針を確定した。ここでは、華北経済の開発と統制のため、国策会社の設立も謳われた。それが北支那開発株式会社(北支開発)である。それは興中公司の事業を継承、拡大するため、日本経済の総力を結集したものだった。事業としては、主要交通運輸と港湾事業、主要通信事業、」主要発送電事業、主要鉱産事業、塩業と塩利用事業などへの投資と融資及び統合調整が掲げられた。日本政府の統計によると、38年から終戦の45年までの日本の対中国投資の累計は47億円に達し、地域別では蒙彊を含む華北が33億円、華中が11億円、華南が3億円。その華北での最大の投資先は北支開発。産業拡大を図るため、まずはインフラ建設、経済の動脈である交通運輸事業、鉄道、水運、自動車輸送網を華北全域に廻らせた。港湾施設は、塘沽新港建設、青島港増強、四運河・五河川の改修築。更に電気通信事業、日中合弁で電信電話事業、配電事業。
 中国の石炭埋蔵量は当時世界第五位、その大部分が華北と蒙彊に集中していた。太平洋戦争開戦後は日本への大量輸送は困難となり、資源の現地製品化が促進された。もともと中国の工業は基礎が確立されておらず、鉄鋼業技術も原始的なものだった。この時期、日本は華北で小型溶鉱炉を建設、年間100万トンの銑鉄生産目標を進めた。またアルミナ製造工場の拡充新設、セメント、カーバイド、火薬、木材、耐火煉瓦の急増産も行われた。また機械工業も拡充され、この頃には鉱山、交通関連の機械製造や兵器製造の現地自給も可能となった。具体的には華北車両、華北自動車、久保田鉄工、天津造船、華北電気、華北電線、華北湯浅電池、東芝通信、北平鍛造、小糸重機、今村製作所、華北機械、東亜重工などの工場が驚異的ペースで新設された。このように華北経済建設が、対米開戦後のインフレの激化、抗日ゲリラによる交通破壊など治安攪乱活動の日常化の中で、ほとんど破綻することなく着々と進展し続けたことは驚くべきことだと、黄文雄氏は解説する。日系事業の経営者や技術者は、中国人に大規模経営、機械化、厳正な経理会計などを教えた。
 蒙彊は広大な面積を擁する辺境の地、もともとは蒙古人の土地だったものの、清時代以来の漢人植民政策により、支那事変当時は全人口七百万のうち、蒙古人は約一割に過ぎない状況、漢人に圧迫された蒙古人は、モンゴル族の王公の一人、徳王を中心に内蒙古自治運動を展開し、36年には蒙中両軍は交戦もしている。だから日蒙は当初から利害が一致した。純朴な蒙古人は中国人よりはるかに日本人と相性が良く、対日感情は良好で、両者の提携関係は順調に進んだ。そして「ミニ満州国」の様相を呈しつつ、日満支ブロックにおける防共国防国家体制の確立を目指した。ただ、汪兆銘の南京政府が成立すると、蒙古連合自治政府はその傘下に入った。

 華北開発と同時に華中でも、国策会社の中支那振興株式会社が上海に設立され、北支開発と同内容の事業を行った。しかし華北が開発を必要としていたのに対し、華中は経済復興を必要としていた。上海を中心とした華中は交通が発達し、産業資源も豊富で、中国経済の心臓部と言えた。ここも経済的機能の大半は戦禍で破壊され、自力での復興は不可能だった。それを日本の資本と技術を投入して成し遂げたのが、この中支那振興だった。この会社の下に、華中鉱業股份有限公司、華中水電股份有限公司、上海内河輸船股份有限公司、華中電気通信股份有限公司、中華蚕糸股份有限公司、このほか華中鉄道、上海恒産、上海都市交通、大上海瓦斯、淮南煤鉱、中華輪船、華中火柴、中央科学工業、柳泉炭鉱、華中水産、華中運輸などで華中産業の復興、近代化を推し進め、大きな成果を挙げた。
 1945年の終戦により、日本の在中国資産は全て重慶の国民政府によって「敵産」として接収された。終戦で日本人の事業はどのような状況にあったか。製鉄事業などは交通機関の破壊によって原料の確保が難しく操業停止を余儀なくされたが、その他の重要産業である交通、電気、通信、炭鉱などの事業は、おおむねは接収の時まで、社会秩序の崩壊を横目にしながら、極力現状維持に努めていた。これが中国に進出した日本人の姿勢であった。もし彼らが中国人の言うように日本の利益だけを考え、略奪を事業目的にしていたのであれば、終戦の時点で職場を放棄し、中国側に手渡す前に、会社財産の奪い合いを演じていたに違いない。しかし公の精神に徹していた当時の日本人はそれをしなかった。最後の最後まで中国の発展のために働き続けていた。接収に際しては財産目録を詳細かつ正確に作り上げ、中国側に引き渡している。せっかく手にした宝である日系の産業設備を、中国側は活用したかった。そこで日本人技術者を留用する規定を公布し、各地、各業種で多数ぼ日本人を残留させた。北京だけで47年1月の時点で、30の企業で留用日本人は勤務していた。それだからこそ、心血を注いで打ち立てた中国の新経済体制が国共内戦によって破壊されたことは、残念であった。資本と技術不足の中国は、社会主義社会の建設に失敗した後で、改革開放へ路線転換して以後の、死に物狂いの外資導入の現状からみれば、日本の満州国建設や日中戦争後の雄大な占領地近代化建設構想を、冷静な目で再評価すべきではないだろうか、黄文雄氏はこの様に提起している。

3、「略奪」はウソ、代わって中国農民を救済した日本
 1937年1月も衆議院で、社大党書記長麻生久が「北支経済工作に関しては農民大衆の福祉を招来するが如き方策を講ずることが、この目的達成のため緊要である」と強調したのに対し、近衛文麿首相は「今後は支那民衆の心を把握することでなければ東洋平和の確立、ひいては日支両国の提携は出来ない。支那は農業国であるから支那農民と結び、農業の発展をわが国が手伝うことは極めて必要だ」と答えている。このように日本では、貴族宰相でも無産階級の指導者でも、農民対策が中国占領政策のカギであると認識していた。それほど中国の農業は悲惨な状況にあった。支那事変前、農村は平時においても農産物の生産高が低いため完全な自給が出来ず、絶えず食糧不足に喘いでいた。労働人口は過剰だったが、生産技術が原始的なまま停滞していたため、農業は根幹産業でありながら、少なからざる食料を日本や香港など、外国からの輸入に頼っていた。自作農45%、半自作農23%、小作農32%の割合で、55%が地主への高率の地代にあえいでいた。地代は収穫物の半分、7~8割に達する地方もあった。また作物の流通においても農民は、手数料、保管料、前貸しといった仲介業者による高利貸的な搾取を受けていた。また市場の不統一、度量衡の不統一、穀物取引の秘密性や価格の非公開などの伝統的社会状況も農村の発展を妨げていた。更に農村に対する重税の賦課も深刻だった。地租は地方財政上最も重要で、地方における付加税は地租を基準に課せられた。
 そして最大の敵は洪水、旱魃、虫害といった自然災害の頻発だった。例えば、1927年:華中で水害、900万人が罹災。1928年:大旱魃が華北八省を襲い、罹災民は3000万人。1929年:陝西省を中心とする西北大飢饉で餓死者は1000万人との公式記録。華中の水害で5400万人が罹災。 1931年:揚子江、淮河及び大運河の流域十六省が大水害で5000万人が罹災。 1932年:全国水害被害十五省、旱魃被害八省、蝗害被害十省。1934年:水害十四省、旱魃十一省。1935年:黄河と揚子江で大洪水。四省だけでも1400万人が罹災。このような状況下で各地の農業はしばしば壊滅し、一家離散に悲劇だけでなく、深刻な飢餓に見舞われた。このような悲惨な状態から中国農民を救出しない限り、近衛首相が言った如く「日支両国の提携」は出来る筈がなかった。

 華北は八千万人の人口を抱えた農業地帯で、耕地面積の90%は小麦、大麦、粟、稗、コーリャン、トウモロコシ、大豆など食糧作物に充てられたが、生産性の低さから食料の不足状況は深刻で、輸入、移入に依存していた。37年の支那事変は、耕地を荒らし、主に中国軍によって灌漑施設が大きく破壊され、労働力や家畜も徴用され、農村が受けた打撃は大きかった。そして洪水や干ばつ、水害が相次いで発生、これに匪賊の跋扈も深刻だった。日本は華北における増産計画を立てて、生産の指導、支援、治安維持を行い、食糧の需給秩序の回復を努めたが抗日ゲリラの勢力下にあった農村は、需給秩序の攪乱に狂奔した。日本は北京、天津の食糧不足を解決すべく、食糧供給源であった蒙彊地方の農業振興を指導した。この農業振興政策は生産機構を組織化し、生産力の向上をもたらすことに成功した。また鉄道の復旧を行い、途絶えていた華中から華北への食糧供給を再開させた。
 華中の農村は全中国の水稲作付け面積の七割を擁し、小麦の約四割を生産する食糧供給源だった。戦争で経済の中心地だった上海が大打撃を受け、農産物の出回りは交通の途絶、市場の閉鎖等で不可能に陥った。更に日本軍の占領後も、ゲリラの跋扈で都市への食料の出回りは困難に陥った。ここでも日本は農業の再建と発展に取り組んだ。また1940年に成立した汪兆銘の南京政府にとっても、米価の安定や出回り促進は最重要課題だった。戦禍の影響をこうむった生産自体は、それでも1940年頃には、復興作業に伴い、戦前レベルにまで回復したが、インフレーションの進行などもあり、悪戦苦闘の連続だった。
 生産量の早急な回復は、戦争や戦時経済が続く限り難しかったが、それでも日本は恒久的な視野に立ち、依然前近代的な自給自足的色彩を帯びる農村経済の近代化のため、並々ならぬ心血を注いだ。その一つに合作社運動がある。合作社運動は、日本の農協と産業組合を併せたような機能を持っていた。それを通じ、村落間の抗争の仲裁から教育、技術指導、文化活動、公共事業への寄付も含め、無秩序な農村を経済的に組織化することを図った。当時の農村は合作社の意味を解するほど教育レベルが高くなく、さしたる効果が得られないまま終戦を迎えたが、もしその後も継続されたなら、台湾、朝鮮、満州同様、農民の文化レベルは向上し、食糧問題の解決にも大きく貢献した筈と、黄文雄氏は言う。このような農村社会、秩序の停滞を打破しようとする試みは、満州国を除いては中国史上類令のないものだった、と。

 凶作が続いた日本占領地域に対し、蒋介石の重慶国民政府地区においては豊作が続いていた。しかし40年以降、米価をはじめとする食料品の急騰が続いた。これは自然的要因というより、人的、社会的要因によるものだった。各地の地主、大商人、官僚、軍人などが、権力と財力を使って食料を投機目的で買いだめしたのが最大の要因だった。このため重慶側住民は深刻な食糧恐慌に陥った。支配階層による買いだめは、彼らが政権への不信や社会不安を感得した結果だが、このような民衆の生活や生命を無視した権力者の姿勢こそ、中国の伝統社会の一大特徴である。それは焦土作戦についても同じことが言える。重慶の国民政府は対日戦の間は米国の支援によって何とか持ちこたえたものの、結局はそうした同胞への冷血的な姿勢により、戦後は国民に見放され、共産党に天下を奪われることとなる、と黄文雄氏は分析する。
 これに対し略奪、虐殺をもっぱらにしたとされる日本の占領軍は、実は全く逆だった、と。日本人がひたすら占領地住民の福祉の向上に努めていたことは、戦争、占領の合理的な遂行のためにも、そして早期の平和の招来とその後の日中両国の提携を通じた自国の発展と安定のためにも、最も有効な手段である、と理解していた。日中戦争中、略奪を行ったのは重慶側だった。蒋介石軍は前線将兵に、食糧不足に悩む農民から食料の徴発を平然と命じていたし、黄河を決壊させて十一の都市と四千の村を水没させ、農業に大打撃を与えたこともあった。破壊=戦争を事とする中国人と、建設=平和を好む日本人の民族性の違いを、ありありと示したのがこの時代だった、と黄氏。

4、植林は中国再生を考えた遠大な計画だった。
 華北には禿山が見渡す限り広がっているが、古代には大森林もあった。中国最古の地理書「山海経」で、かって鬱蒼たる森林があったことが窺える。孟子は、禿山の原因は乱伐で植林を行わず、放牧を行ったからだ、と言っている。日本人の感覚からすれば、華北の禿山を放置すること自体許さない。日本人の指導の下で、華北の親日政権は林業対策に乗り出したが、日系炭鉱会社も植林活動に参加した。造林という大規模にして長期間にわたる大事業は国家事業であって、極端な個人主義、利己主義の中国国民にはなかなかできない。しかし閻錫山指導下の山西省だけは違った。国民党からも共産党からも評価されていない閻錫山だったが、彼は中国史に残る名君だった、と黄氏。中国でも日本人は常識として植林に努めたものの、終戦後中国人は植林思想という目に見えない文化遺産を継承しなかった。その結果が現在の砂漠化であり、水害大国化である、と。

5、医療衛生に対する多大の貢献
 中国は古来、不潔極まりない国として有名。戦前の日本人も、この国を東亜の病夫などと呼んでいた。だからこの国の人間は、水旱、内戦、そして疫病を人命を襲う三大脅威として恐れられていた。それらに襲われるごとに百万人、千万人単位の餓死者、虐殺死者、疫病死者が出る事は珍しくなかった。この悪循環から自然破壊と社会崩壊が繰り返され、文化生活の環境は殆ど改善される事がなかった。二十世紀に入ってからも、この国では上下水道も建設されず、たとえ北京で水道が敷かれても、水幇に襲撃され、破壊される有様だった。だから市民への給水は武力による警護下で行われていた。日清戦争後、東亜情勢の平和と安定を図ろうという声が朝野で高まり、中国及びアジア諸地域に対して医療事業を展開することが広く提唱され、1901年、東亜同文医会が発足、翌年、北里柴三郎らの主導で同仁会を成立させた。同仁会は病院開設、最新医療の提供、医学校設置と医療人材の育成、医療衛生の調査や留学生の勧誘、医学、薬学に関する図書の発行を主要事業とした。1914年北京に日華同仁会病院を開設、その後済南、青島、漢口にも設置した。
 悪魔の細菌部隊として悪名高い731部隊が、実はあくまでも防疫給水を主任務にした部隊であり、細菌開発については中ソ軍の開発に対抗して小規模に着手した程度だったと、黄文雄氏は解明している。そのような部隊が必要とされたほど日本軍が悩まされたのが伝染病であり、その脅威は中国軍の攻撃以上だった。同仁会は支那事変以降、各地に施療防疫班を設置するなど、防疫事業にも大々的に取り組んだ。

6、孫文の夢を代わって実現した鉄道網の大建設
 文化的に中国は「南船北馬」といわれ、南方の東西交通は殆ど河川に頼った。しかし中国人は道路建設をしている余裕がなかったし、根本的な理由は社会の不安定さと経済の遅れだった。鉄道にしても風水の問題から、しばしば破壊活動の対象となった。中国は文化的には匪賊国家であり、山林や湖沢は全て匪賊によって支配され、匪賊による鉄道襲撃は日常茶飯事であった。だから戦前の列車は武装警備隊の配備、夜間運航の中止など特別配備をしなければ運行できなかった。中国の鉄道経営の困難さや人流、物流の未発達の原因はここにもあった。鉄道は実業の母、鉄道は中国を救うと唱えたのは孫文だった。1938年に英国で出版された「シナ大陸の真相」で、鉄道建設が立ち遅れた理由は軍閥の搾取だけでなく、鉄道経営自体が腐敗堕落していた、と。行政官の汚職、冗員が高給を食み、一般職員も遵法精神に欠けた。戦前の台湾の鉄道は、運営も設備も人員も世界トップレベルだった。ところが終戦後の中華民国政府の接収を受け、たちまちマヒ状態に陥った、と。
 戦争で占領地の鉄道は日本軍が管理し、施設の応急復旧や軍事輸送を行った。その後治安は回復に向かい、日本は中国自治政府(中華民国臨時政府 北京)の要望も斟酌し、1939年4月、半官半民の華北交通株式会社を設立、華北の鉄道経営を行うことになった。営業線は五千六百キロ、その後千キロを伸延した。また華中にも中華民国維新政府(南京)と協定して華中鉄道株式会社を設立、営業線は千百キロだったが、華北鉄道と直結させ、両地域の物資交換体制が築かれた。日本の建設事業に言えることだが、つねに民需、住民の福利を念頭に置いたもので、華北交通にしても華中鉄道にしても、民生を重要視し、低廉な運賃設定、公正なサービスに務めた。
 さらに日本軍は、大東亜縦貫鉄道建設計画に基づき、45年には中国中央部を南北に走る、北京から京漢線を通って武漢に至り、粤漢線を通って衡陽に至る縦貫線が開通した。終戦で南方への連絡は実現していない。

7、中国近代化への貢献を文明史の中で考えよ
 日本が行った占領地の経済建設は日本、満州、中国の共栄圏構想にもとづいたものだった。大東亜戦争前年の1940年10月に日本政府が決定した「日満支経済建設要綱」は、この点に関する明確な指針を打ち出している。日、満、華北、蒙彊及びその前進拠点である南支沿岸の島嶼を有機的に一体である自存圏として、華中、華南、東南アジア及び南方諸地域を包含して大東亜共栄圏を確立するというものだった。この構想は、当時快進撃中だった日本軍の大勝利を前提としたものであって、今日の人からは単なる夢想にしか見えないだろうが、中国には「豊富なる労働資源、地下資源並びに農業資源供給国として国防上の要請に即応すると共に日満支の民衆生活必需物資の確保自給を図る」ことが期待されていたことが分かる。そのため華北には資源開発に伴う重軽工業、華中には南方物資を持ってする軽工業と中国の工業建設が重要視された。日本による中国の経済建設を、単に日本軍の作戦上の都合で行われたものとする見方だけでは、当時の歴史の大きなうねりを説明できない。東亜新秩序(日満支の共栄圏)にしても、その拡大延長線上にあった大東亜共栄圏にしても、あくまで西洋列強支配の世界秩序に対する挑戦であり、アンチテーゼだった。これは十九世紀以来、西力東漸の脅威にさらされてきた日本の反撃であり、それに伴い、自力では亡国的な半植民地的状態から脱局出来ないでいた中国も、ようやくそこから引き揚げられようとしていたというのが、当時の歴史の進行状況だった。黄文雄氏は当時の時代をこの様な文明史として見ている。そして敗れはしたが、日本の築きつつあった新秩序の遺産は今でも息づいている、中国、満州に残る近代産業のインフラなどはまさしくそれだ、と。

 戦後、日本がアジア諸国を侵略したという歴史認識が近隣諸国から強要されている。また東京裁判の判決やGHQの歴史観強要も影響してか、大日本帝国が八十年間、東アジアで果たした役割、貢献を文明史的観点から冷静、客観的に見直そうという作業はほとんど行われていない。日本は侵略国家ではないと言うだけで非難ごうごうである。「大日本帝国興亡史」には様々な見方があり、その評価を巡って様々な論争があることは知っているが、と前置きして、黄文雄氏は、そこにはマイナス面よりプラス面の方が多い、しかもそれが人類史にもたらした意義の大きさには驚きを禁じ得ない、と見解を表明する。全体的、総括的に言えば、東亜五千年の歴史の中で、進歩発展と民衆の解放という事に関して最も大きく貢献したのが大日本帝国であり、この点に関してはいくら評価してもし過ぎることはない、と。少なくとも東亜民衆の覚醒、さらに今日に至るまでの資本と技術の移転でもたらした精神的、物質的文明生活の質的向上という成果について、記述してきた。非西欧文明諸国の中で、日本は他に先駆けて近代化に成功した国だが、その近代化がアジアの国々に、直接あるいは間接的に及ぼした影響は巨大なものだ。多くの日本人学者あるいは東洋史研究者は台湾、朝鮮、満州の近代化を考える上で、「侵略・搾取」という視点を捨てようとしない。しかしそのような非科学的見方を取る限り、それらの地域に近代産業社会の成長を促したもの、大日本帝国の精神的、物質的影響というものは分からない。良識ある学者は、このような史実に目を向けだしてよい、と黄氏は日本人を鼓舞する。
 日本人の鋭い感性は近代化を「文明開化」としてとらえた。そしてその時代感覚から「脱亜入欧」を進め、積極的に西欧文明を受容して国家を成長、隆盛させると共に、怒涛の如くアジアに影響力を伸張していった。第二、第三の文明開化の波が台湾、朝鮮、満州、そして中国へと押し寄せ、社会を変え、文明までも変えていった。日中戦争とはむしろ、日本が中国の内戦のブラックホールに吸い込まれたというのが実相であって、日本はむしろ中国内戦の被害者であると黄文雄氏は断言する。文明史から見れば、日清戦争以降百余年來の日中関係の本質は、戦争というより、むしろアジアにおける第二の「文明開化」の波を、中国が日本から受けていたという事実にある。当時の歴史の主流に照らしてみると、そのような見方が確かだ、と。

 こうした史観に立てば、黄文雄氏が言う「日本人は中国に対し反省や謝罪をする必要は一切なく、むしろ中国の方こそ日本に感謝すべきだ」という主張も首肯できる。近代中国をつくったのは日本人であり、少なくとも日本なしでは中国の近代化は絶対にあり得なかった、この考えで、日本は現在の中国と対峙すればいい、と最近思っている。