秋晴れの爽やかな午後、藍曦臣は通い慣れた道を歩き、お気に入りのカフェを目指していた。
そのカフェの大きな窓からは舗道の並木がよく見える。この季節、紅葉した銀杏の葉が枝から舞い落ち、鋪道は黄色い絨毯を敷き詰めたようになる。
その窓の1番端の席が曦臣のお気に入りだった。
鋪道の先まで見渡せる。
並木や道ゆく人々の姿。時にはドラマチックな場面を目にすることもある。そんな風景を見るのが好きだった。
演奏家という職業柄、感受性を豊かにしなければならないのだが、実はあまり他人に興味が湧かない。家族のこととなればそうもいかないが。
特に弟に対しては、何かあれば何を置いても飛んで行くくらいの愛情は持っている。けれど他人にその感情を向けることはなく、30代も後半になるというのに嫁ももらわないと、叔父には呆れられている。
けれど仕方がないのだ。今まで心を揺さぶられるような人に出会えなかったのだから。
だから、少しでも色々なものを得ようと人間観察をしている。これもまた仕事のうち。
そんなわけで、お気に入りの席にはカフェのオーナーである江晚吟の好意の元、常に予約席の札が置かれていた。
いつものように店に着き、ドアを開けると小気味良いウインドチャイムの音が曦臣を迎え入れた。東屋の屋根を模したものの下に紐でいくつも吊るされた蓮花の形のベルだ。
江澄の故郷では蓮の花と実が有名で店の名も居住地に因んだものだった。
「いらっしゃいませ、藍の若様」
江澄が、少し嫌みにも見える笑みを浮かべながらカウンターに立つ。
「江澄、揶揄うのはいい加減やめてくれないか。藍家が栄えていたのは大昔の話なのだと何度も言っただろう?」
苦笑しながら、いつものクッキーと紅茶のセットを注文してモバイルで会計を済ませる。その途端、奥からガラスの割れる音と共に、小さな叫び声が聞こえて来る。
「またやった、、、。藍兄は席にどうぞ」
「大丈夫なのかな?彼は」
声のした方を気にする様子の曦臣に、江澄は肩を竦めた。
「いつもは失敗など全くしない完璧主義者ですよ。姉の紹介だし俺が雲夢に戻った後ここを任せるつもりでいるんだから、、、。笑顔も良いし客の評判もすこぶる良い。けどなぁ、あなたがが来る日は、、、」
不自然に言葉を濁す。
「私が来ると?」
聞き逃さなかった曦臣が問うも、江澄は「なんでもない」とちょっと怒ったような顔をしただけだった。
曦臣は少しばかり気になりながらも、いつもの席へ向かう。
『何か私が悪い影響でも与えているのだろうか、、、』
椅子に座り、ふとテーブルに目を落とすと、薄水色の一輪挿しに、白い花が挿してあった。
椅子に深く座ると、その花を眺める。
「凛として、まるで、、、」
ポツリと呟いた時、
「お待たせいたしました。紅茶のセットでございます」
男性としては少し高めの、けれど柔らかい声が曦臣の耳に届く。
その声の方を見れば、顔なじみのウェイターがいた。
糊の効いた白シャツに、スリムな黒パンツ。店のロゴである九瓣蓮が左胸に小さくプリントされているベージュのエプロン姿で。
初見の際、江澄の姉が嫁いだ相手の弟だと紹介された。自分とさほど歳は違わないらしいと聞いたが、やけに若く見えるのが印象的だった。小柄でほっそりした体つきに、大きな目が幼さを際立たせている気がする。
笑うと両頬に印象的なエクボが出来る。
「ありがとう。この、一輪挿しは、、」
「ご、ご迷惑だったでしょうか?!」
動揺したような声と共に、紅茶を注ぐティーポットの注ぎ口がカップの縁に当たって嫌な音を立てた。拍子に紅茶の滴がソーサーに跳ねて汚れてしまう。
「ああ、申し訳ありません!ただ今拭くものを、、、」
慌てた様子でティーボットを置き、踵を返そうとした彼の手首を掴む。
「阿瑤、待ちなさい。そう慌てなくてもいい。少し落ち着きなさい」
優しい笑みを向けられ、阿瑤と呼ばれた彼、金光瑤は泣きそうな顔をした。
⌘⌘⌘
2週間ほど前の事だった。阿瑤がオーナーである江澄から曦臣を紹介されたのは。
第一印象は『優しそうな人』
「初めまして、藍曦臣と言います。音楽関係の仕事をしているのですが、休憩中はほとんどここに」
優しいまなざしと笑顔を阿瑤に向ける。今までこのような笑みを自分に向ける者などいなかったせいか、胸の奥で小さなさざ波が起きる。
スッと差し出された右手に、遠慮がちに手を合わせた。
「初めまして。金光瑤と申します」
長く美しい指が、阿瑤の手をしっかりと握る。意外にも力強く握られて驚いた。
「いっ、、」
うっかり痛みに声を出してしまう。
曦臣はハッとして、握りすぎていた手を離した。
「すまない!つい力が入ってしまった。加減を間違える時があるんだ。気をつけているつもりなんだが、、」
やれやれと肩をすくめる曦臣に、阿瑤は笑いかける。
「大丈夫です。そんなに痛かったわけではありません!ただ、少し驚いてしまっただけで、、、」
少しひんやりとして大きな手。思ったよりも柔らかな皮膚に触れた時、ピリッと何か静電気のようなものが走った気がした。痛むほどではないけれど、心臓まで走り抜けるような感覚。
「江澄の指導は厳しいが、的確なアドバイスをくれると思う。挫けそうになったら、愚痴でも何でも聞いてあげるから頑張るんだよ」
大きな手が阿瑤の肩を軽く叩いたあときゅっと掴む。
綿のシャツ越しに温もりを感じて、阿瑤は息苦しくなってくる胸を、どうすれば良いのかわからず、唇を噛んだ。
彼の人となりなど考えるまでもない。初対面にも関わらず、あっけなくも数秒で恋に落ちてしまった。
「あ、、りがとうございます」
「阿瑤と呼んでもいいかな?青年に向かっておかしいかな、、」
曦臣と阿瑤がこの店「蓮花塢」で初めて会ってから、数日が経っていた。
曦臣は仕事の合間を見つけては、毎日店に通ってくる。音楽関係とは聞いていたが、話し始めると、仕事場兼レッスン場がすぐ近くにあるらしい。
その日も紅茶と小皿に入った江澄の姉の手作りクッキーを、緊張した様子でカタカタと揺らしながら置く阿瑤に話しかけた。
「昨日言っていたろう?何と呼べばいいか尋ねたら、自分の大層な名前があまり好きではないのだと。何かニックネームのようなものを考えたが、それほど付き合いも深くないからね。思い付かなかった。ならば、阿瑤はどうかと思ったんだよ。子供っぽいかな。でも音も良いだろう?嫌かな?」
顔を見上げられ、答えを待っている曦臣に、嫌だなど言えるはずもない。それどころか親しげに呼んでもらえる事が嬉しくてならない阿瑤だった。
「嫌ではありません。藍さんの、、お好きなように呼んでください」
阿瑤は、自分の顔が赤くなっていないか不安になりながら、紅茶をカップに注ぐ。わずかに手に震えが起こるのを感じていた。
「そうか。ならばそのように呼ぶことにしよう。だが、君も私の事を藍さんなどと呼ぶのは他人行儀すぎないか。聞けば、うちの弟の伴侶とも縁があるようだからね。私たちも家族のようなものだろう?だから哥とでも呼んでくれないか?」
曦臣の提案に、阿瑤は必死に驚きを隠した。
「でしたら、、、もう1人兄と慕う方がいるので、藍さんの事は二哥と呼ばせていただいても?」
拒否されはしまいかと、心臓が破裂しそうな緊張の中、阿瑤は答えを待った。
「もちろん!それで構わないよ。では阿瑤、これからもよろしく」
曦臣の優しい笑みが阿瑤の気持ちを落ち着かせていく。
笑みを浮かべた阿瑤を見て、曦臣もまた安堵したのだった。
初めて会った時から、ずっと心の中に阿瑤という存在が消えずに居続けている。
その気持ちがどういう名前のものなのか、まだわからないままではあったがーーーー。
⌘⌘⌘
「阿瑤。私は咎めてはいないよ。素敵な花を置いてくれてお礼が言いたかっただけなのだ。そんなに怯えないでくれないか?」
阿瑤の手首を握る曦臣の顔もまた、悲しそうに見えた。
「本当、ですか、、、?私はてっきり、余計な事をしたと思われたかと、、、」
「まさか!そんな事を思うわけがない。君が私のために用意してくれたその気持ちが嬉しい。音楽をやっていると、時にピリピリした感情になることもあるからね。今日も、この花を見て癒された気がした。まるで君を見ているようで、、、」
見た目は百合の様でも彼岸花のようでもあるが、凛として、気高く美しい花だと。更に興味を惹かれたのは、花びらが陽の光を浴びてキラキラと輝いて見える事だった。その花に彼はとても似ていると思った。
出会ってまだわずか。阿瑤の何を知るわけでもないが、己の心の琴線を揺らして止まない彼とは、何かの縁で結ばれているとしか思えない。
他人に興味を持つことが出来なかった自分が家族以外で初めて興味を持った人物。
それがなぜなのかは、これから知っていけばいいと思っている。
ふと、2人が見つめあっているところに、
「ゴホンッ!そこの2人、周りの視線に気づいているだろうか?お姉様方の熱い眼差しを、いつまで受けているつもりかな。金光瑤よ、今日はもう帰っていい。いや、帰ってくれ。明日からの事を思うと頭が痛い、、、。藍兄も、兄弟揃って、、、はぁ、、。俺の周りは一体何なのだ💢」
江澄の言葉を受け、2人は周囲を見回すと同時に、手首を握ったままの曦臣の手に目を落とす。
ハッとしたように手を離す曦臣だったが、時すでに遅し。周囲の女性客達からは熱い眼差しが注がれていた。
「いや、これは、、。阿瑤外に出ようか」
曦臣に促され、これ以上周りを見る事ができなくなった阿瑤は
「はい、、、」
顔を俯け、消え入るような返事をした。
曦臣が立ち上がると、阿瑤は呆れ果てる江澄からバッグと上着を手渡される。既に用意してくれていたようで、申し訳なさで深く頭を下げた。
曦臣もまた同様。
「申し訳ない江澄。この礼は今度必ず」
「この貸しは高くつきますからね」
呆れながらも顔は既に怒ってはいないようだ。元々表情がきつい彼だったが、わずかに笑っているようにも見える。
「もしかしたら、面白がっているだろう、、?」
「そんなことはない。さ、迷惑だから早く出ていってください」
江澄に背中を押され、2人はドアに向かう。その後ろにざわめく女性達の声を聞きながら。
『いたたまれない、、』
阿瑤は心の声を、赤面で表した。
外に出て、並木路を黄色い葉を踏みながら歩く。前を行く曦臣の後ろを、半歩遅れで項垂れて着いて行く阿瑤。
大通りから外れた鋪道は、2人の他に誰もいなかった。
ふと、前を行く曦臣の足が止まった。すぐに気づけなかった阿瑤は、その広い背中にそのまま突っ込んでしまう。
「うぷっ、、、」
顔をぶつけて僅かに痛む鼻に両手を添えた阿瑤に、クルリと向き合った曦臣。視界に入った阿瑤の左手首が赤くなっていることに気づき、その手をそっと自分の方に引き寄せる。
「強く握っていたせいだな。赤く跡が付いてしまった。すまない阿瑤、痛いだろう?」
赤い手首を優しく撫でながら、阿瑤の顔を覗き込む。阿瑤は、自分の手首を曦臣の手から引き抜き、
「二哥、、やめて下さい。こんな事されたら、私は勘違いしてしまいます」
俯きがちに答えた声は小さく頼りない。
「何を勘違いすると?言ってみなさい」
「言えません。言いたくありません、、」
更に俯く阿瑤の手を再び引き寄せ、赤くなった手首をそっと撫でる。そのむず痒いようなくすぐったい感触に、阿瑤はぐずる子どものように手を引き剥がした。
胸の奥から熱いものが溢れてくる感覚が、阿瑤に理性を失わせる。
「だからっ!こんな事されたら、あなたが私の事を憎からず思っているのではないかと!勘違いすると言っているんです!」
頭半分ほど高い曦臣の顔を見上げる阿瑤の大きな瞳が揺れている。
「勘違いではないと言ったら、、、?」
白く滑らかそうな頬に触れたい衝動に駆られた曦臣は、両手をそっと阿瑤の両頬に添えた。息を飲んだ阿瑤の瞳が更に見開かれ、今にも溢れそうな水の膜が揺れる。
そのまま引き込まれるように、曦臣の顔が阿瑤に近づいて、、、。
「だめです!」
突如上げられた阿瑤の声に驚く間もなく、曦臣は突き飛ばされていた。1、2歩たたらを踏む曦臣の目は驚きに見開かれていた。
「阿瑤、、?」
「だめ、です。二哥のような方に私は似合いません。私にはあなたの知らない過去がある。だから、だから、、、このまま何も聞かなかったことに、、、」
瞬きした阿瑤の瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ落ちる。
曦臣はジャケットのポケットからハンカチを取り出し、阿瑤の手に握らせる。
「これで拭きなさい。まずは落ち着こう、、」
「ありが、、とう、ございます、、、」
握られたハンカチを両目に当てる。
そのまま、阿瑤の体は曦臣の胸の中に抱え込まれていた。
「え、、、」
曦臣の胸に阿瑤のくぐもった声が響く。顔を上げようにも、抱き込まれて身動きすらできない。
離れようと身体を揺するも、まるで逃げられないよう、曦臣の腕に力が入る。
諦めたように、阿瑤は抵抗するのをやめた。それを感じたのか、曦臣の拘束もわずかに緩む。
「なぜ、こんな事を、、?」
胸に顔を押し付けたまま、阿瑤は疑問を口にした。
「どうしてだろうな。私にも明確な答えは出せない。なぜなら、こんな風に人を抱きたいと思ったのが初めてだから」
その言葉に、抱えられた阿瑤の身体が僅かに反応する。
「私には、執着というものがない。いや、ないと思っていた。けれど、君に出会ってから、その執着と呼べるものが生まれたようだ。もはや手放すつもりはないよ」
抱えた阿瑤の、髪に頬を寄せる。
愛おしいと、思う。
弟である藍忘機に対するものとは違う愛おしさ。守らなければならないと思う気持ちの差。
「この気持ちが、愛であるのか、、、。私にはよくわからない。今まで人を愛した事も愛そうと思った事もないから。だから、ゆっくり進もうと思う。それでも君はいいか?」
阿瑤は、温かな胸の中で、これ以上の何を望むというのか。と、思っていた。
愛人の子と蔑まれ、実の父親にも疎まれた子ども時代。早くに母親も亡くなり、大人になってからも、愛人の子は愛人にでもなれと、色眼を使われた事は一度ではない。
そんな時、父親が亡くなり義兄である金子軒が家長となった。
ようやく自由になれたと思った。
金氏を離れ、義姉である江厭離の紹介で職を得た。
そこで出会ったのが、曦臣だった。ほとんど歳は違わないはずなのに、自分より遥かに大人に見えた。
暖かい眼差しが、これほど心に染み込んだ事などなかった。
愛おしいという気持ちが、会うたびに大きくなっていった。
でも、それだけで良いと思っていた。思っても手が届かない白月光。触れたら、もっと手の届かない場所にいってしまう。
そういう人だと思っていた。
その人の胸の中に、今自分がいることが信じられなかった。
一生分の運を使ってしまったのではないだろうか。
それでもいいと思う。この後、どんな事になっても、この僅かな時間を宝にして生きていかれる。いや、死んでしまったとしても悔いはない。
だから、、、
「あなたのそばにいられるのなら、たとえそれがあなたの思う愛でなくても構いません。少しでも愛おしいと思って下さるなら、一緒に行かせてください」
私があなたを愛するから、、、。
阿瑤は、その思いを言葉にはしなかった。自分の中で育てていけば良い。
ただ、ほんの少しだけ。
腕を曦臣の背中に回すと、手のひらでその温もりを確かめた。
今、愛おしい人はこの手の中にいる。
これ以上の幸せなど求めない。
愛する人の胸の鼓動をこんな近くで聞ける喜びに、勝るものはないと。
あの、キラキラ光を放つ花は、私ではなくあなた自身なのだと、いつか教えてあげようと思う。
どこまでもキラキラと輝く人。
ずっと、そばにいられますように、、、。
了