人に裏切られたり、嫌われたり、そういった感情は果たして貴方にとって重要なことですか。
我々は誰しも嫌うのを怖がり、怯え、避けます。
無論それを否定する人も中には居るでしょう。
しかし、それは本心ですか。貴方が本当にそう思っているのですか。
まだ、少ししか人生を辿っていない自分は自分を見詰めることを嫌います。
振り返りたくないからです。恥ずかしいからです。何もかもが。全てが。
この事を人は『黒歴史』と呼ぶそうです。
滑稽ですね。
それが正しいか正しくないかは個人の捉え方の違いなので何も言えません。
少なくとも私は下らない名前を付ける暇があるなら、物事を真剣に分析しろと言いたいです。
自分に自己分析能力が有るかと問われれば、答は否でしょう。
自己を分析するほど、分析できるほど色んな事をやって失敗していないからです。
失敗は成功の母とか失敗は成功のもととか云う諺は子供の頃から耳に胼胝が出来るほど聞かされました。
強ち間違っていません。
寧ろ、最も正しいかと思います。
自分含めそれを中々行動に移す人はそうそう居ないでしょう。
やはり、失敗は怖いのです。恐ろしいのです。
羞恥という感情が人間にある時点でこの失敗を恐れないなんて難題は解けないのです。
この世界は数学の世界ではありません。
なので答は無限にあります。
これを自分は『可能性の枝』と呼んでいます。
オセロや将棋の人たちが手を読むという行為と何ら変わりません。
この『可能性の枝』は無限にあります。幾らでもあります。果てしないほどに。
自分が思う羞恥とは『可能性の枝』になかった《予想外の出来事》の事だと思うのです。
『可能性の枝』を二つに分類しましょう。
一つは《予想の出来事》。
もう一つは《予想外の出来事》。
この二つは大袈裟かもしれませんが世界の理を簡略化したものでもあると思うのです。
《予想の出来事》は名の通り可能性の枝によって可能性を導き出した答の一つです。
逆に《予想外の出来事》とは可能性の枝によって導き出すことの出来なかった答の一つです。
出来なかったと一言で言ってしまえば楽ですが、要は予想外の意味どおり思いもしなかった、とか
想像つかなかった等が含まれるでしょう。
その予想外の出来事が先述した通り羞恥であると思うのです。
つまり、羞恥とは思いがけない出来事であるということです。
そんなつまらない失敗に怯えるなら、
少しは可能性の枝を延ばして伸び伸び生きたほうが、
より良く生きられるのではないでしょうか。
少なくとも私はそう思います。