次のクルマは、「スバル1000」セダンだ。
この車は、スバル360の縁でお世話になったデーラーの
紹介で、中古で手に入れたもの。

今までのクルマに比べて、室内がかなり広く感じたし
独特の水平対向エンジンのフイーリングが何とも心地よかった。
当時のスバル1000を紹介したコメントがあったので参考までに
挙げておこう。

スバル1000の個性は単に水平対向ボクサーエンジンだけではなく
当時の国産乗用車の中にあって、これほど個性的なクルマは
他になく、今でも十分個性的なレガシーやインプレッサの比ではない。
ボンネットの低い、当時のサーブのようなデザインはもちろん
個性的だし、全くフラットな床と広い室内も魅力だが、スバル1000は
日本で初めて前輪駆動車の量産に成功したクルマなのだ。


このクルマで、タイムトライアルや、ツーリングを楽しんだことを
覚えている。とにかく楽しいクルマであった。

室内はかなり広く、フラットな床面と素っ気ない位のインテリアが

返って心地よかった。また、ステアリングが軽くキレが良いことも

気に入っていた。


http://www.jsae.or.jp/autotech/large/1-46-1.jpg








わがクルマの遍歴で4番目い乗ったのは「オースチン
と言う外国車だった。

この車は私の親戚筋の人から無償で譲ってもらったもので
その代わり、神戸から東京まで陸送してきたものだった。


このクルマは、原産はイギリスであるが1952年以降、
日産自動車がノックダウン生産し販売していたもの。
従って純粋な意味の外国車ではなかったのだ。

軽自動車以来、普通の自動車に乗ってこなかった私に
とって、1500CC、4ドアセダンのこの車は何とも言えず
かっこいい気分だったのを覚えている


しかし、この車、親戚筋からタダでもらって来たのは良いが
何とも手のかかるクルマであった。
まず、神戸から大阪経由で当時の東海道(1号線)を東京に
向かったのだが、愛知県の熱田神宮あたりに来た所で
エンジンがストップし、どういじっても動かなくなって
しまった。未だ東名高速などはできておらず、国道をトコトコ
走ってきたが原因が分からず往生した。


取り敢えず、近くの修理屋まで運び見てもらったが
どうやらエンジンが焼き付いたらしい。
修理屋の言うには、エンジンを載せ替える必要があるとの
ことで、その修理屋にあったダットサン・トラックのエンジンと
そっくり載せ替えることになった。

今考えると、よく載せ換えができたと思うが、同じ日産自動車系の
エンジンだったから出来たものとおもう。
兎に角、その修理のため、一旦東京へ国鉄でもどり10日後位に
また、取りに行った。
トラックのエンジンは馬力があり、何となく得した様な気がした。

その後、自宅を拠点に2年位乗っていたと思う。
この車は、今までの軽とは違い、5人が乗れて、4ドアのセダン
で、やや高めの運転席からの視界は結構良かった。
しかし、ハンドルの取り回しは鈍重で(パワステではない)
力のいるドライブだった。


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/Austin_A50_Cambridge_front.jpg

さて、じじいの次の自家用車となったのは、やはり
軽自動車で、当時も好評だった「スバル 360」だ。

この車は、当時の国民車ブームもあって、小さいながら
しっかりと4人乗りで乗り心地もよく、かなり実用度の
高いものであった。
勿論、新車で買える訳はなく、中古の月賦で手に入れたもの。

エンジンは2気筒、2サイクルで、リアエンジン形式となっていた。
2サイクル独特のポコンポコンという音と、結構な排ガスが出るのが
特徴だったが、軽い(350Kg位)のと、4人乗れる室内の広さが
一番のお気に入りだった。

車体はモノコックで、後部席のサイドウインドウとリアウインドウは
確かプラスチックのハメ殺し窓だったと思う。ドアは前に向かって
開く2ードアで、サイドウインドウはこれもプラスチックの
スライド式だった。 ウインドウ系はすべてプラスチックなので
(フロント・ウインドウのみガラス)すぐにキズだらけになり
視界に難があった。

勿論、エアコン、カーステは無しで唯一ラジオだけがインテリアで
存在感があった。

この車には、約3年間乗ったと思う。


実際のくるまとは違うが、年式等からみてこんなイメージだった。



じじい

前回に続き、私の愛車遍歴第1号の マツダR360 クーペについて

もう少し書いてみる。



*当時こんな本があったらな・・・
見てわかる!クルマのメンテナンス&しくみ完全ガイド

徹底図解 自動車のしくみ―自動車の基礎知識から、日常のメンテナンスまで (カラー版徹底図解)



クーぺの初オーナーとなった私は、社会人1年生で未だ給料も少なかったがその大部分を使って、自分で整備し調整して得意になって乗り回していた。
その頃はまだ、一般の人が自家用車を持てる時代でなく、同僚などから変わり者の目で見られつつ、羨望の的であった。

このクルマは、いわゆるモノコックボデイと言われる構造で
車体にフレームが無く、センターにシフトギアを通した凸状
の剛性カバーが取り付けられていてこれで車の前後の
歪みを補強していた。
ところが、何年か経っと車体の前後の歪がこれでは補強
できなくなり、ボデイ側面のステップの所に亀裂が生じた。
(使い方にも問題があった様だ、オフロード的な乗り方で
かなりの凸凹道も飛ばしていた)
今考えると、溶接等で対応すれば何とかなったかも知れない
が自己修理派の私は、亀裂部分に鉄板のパッチをボルトで
取り付け対応していた。
一時的にはこれでよかったが、モノコックの一部に亀裂の入った
ボデイは強度的に耐えられずとうとう動けなくなってしまった。

かくして、R360は5年間の愛車人生を終え、私の基から去っていった。
小さくて可愛いスタイルのR360は、エアコンも
カーステレオもリクライニング・シートも無かった
シンプルなクルマだったが私の青春の貴重な相棒として
数々の思い出を残してくれた。

昭和37年7月に免許を取得して以来、結構いろいろなクルマに

乗ってきた。忘れているものもあるが、

ボツボツ思い出しながら私の愛車遍歴を紹介

しよう。

初めて自分のクルマを手にしたのは、免許取得と同じ年で
軽自動車と言う区分の小さいクルマだった。
その名も、マツダ クーペR360
ご存知の方もおいでかと思うが、当時はまだ普通車は高くて
サラリーマンになりたての身では手が出せず、街で走っていた
このR-360を見かけ、追いかけて行ってオーナーと交渉し
中古で買ったものである。

兎に角、軽くてよく走るクルマで休日にはよくドライブを
楽しんだものであった。
乗員は2名となっていたが後部座席があって無理すれば
1~2名は追加で乗れた。後部座席は子供用みたいな
狭いものだったので、乗せられた大人は気の毒なかたちで
あった。
エンジンは一応 V型2気筒の4サイクルでリアエンジンで
手入れがしやすく、メカ好きの私はよくいじっていたのを
覚えている。
勿論、デストリビュータなども何回もバラして点火位置の
調整なども自分でやったものだ。


この車で一番遠くまでドライブしたのは、房総半島の一周で
当時は高速道路もなく、結構悪路を大きくバウンドしながら
走ったものだ
この車のイメージは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%BBR360%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%9A