明日8月9日は、長崎にプルトニウム原子爆弾が投下されてから73年目の原爆忌です。いまだに苦しんでいる被爆者の方も、被爆二世、三世も、まだまだ苦闘は続きます。
この古びた本は、42年前、被爆二世の高校生を中心に被爆者の方々から体験をお聞きして編纂し、出版させていただいたものです。被爆二世の友人たちの追体験も掲載されています。私は被爆二世ではありませんが、長崎に住むものとして、これはぜひ参加させてもらいたいとお願いして、インタビュー、原稿起こし、校正などの一連の取り組みに参加させていただきました。
1975年の夏過ぎから1976年夏の刊行まで、およそ一年の経験でしたが、私の人生で最も意義ある経験だったと思っています。
被爆から73年が過ぎ、街は復興したかに見えます。しかし、人間が犯した残虐な行為は決して忘れてはなりません。昨年の核兵器禁止条約ににほんがなぜ反対しなければならなかったのか、その理由は明確に、誰もが納得できるように説明すべきです。
爆心地を訪れた修学旅行生が、公園に落ちてよかったというようなことをいっていたときいて、愕然としました。確かに目標からは外れていますが、爆心地には家があり生活があり人が住んでいたのです。それが11時2分の一瞬で消え去った結果が今の原爆公園なのです。
毎回書いているかも知れませんが、日本に投下された2つの原爆は、その組成が違います。なぜ、あえてアラモゴードで成功した爆弾に統一せず、別々の、一方は実績のない爆弾を投下したのでしょうか?そして、終戦後ABCCで医療行為といいつつも大量の放射能による人体への影響のデータを集めたのでしょうか?それらを考えたとき、残虐な大規模人体実験以外の何物でもなかったと思わざるをえないのです。
ヤルタ会談に出席中のトルーマン大統領のもとに原爆実験の成功が伝えられたとき、彼は内心ほくそえんだことでしょう。ルーズベルト大統領の死去により転がり込んだ大統領の椅子。そして日本の降伏を自らの功績にできる喜びと、ソビエトを出し抜いたという喜び。自身が人類最大の大虐殺者になることは微塵も考えていなかったでしょう。
どうかみなさんも自分の身に置き換えて考えてみてください。そして日本がこれからどんな方向に向かうべきなのか、考えてみてください。