第一章:不自然な死

深夜零時。

東京の空気は昼間の喧騒を忘れ、湿った静けさだけが街を包んでいた。

その沈黙を破るように、ひとつの配信が始まる。

画面に現れたのは、長い黒髪を背に流した女――田村美代。

大津綾香を思わせる整った顔立ちに、どこか影のようなものが差している。

身長は160センチほど。華奢だが、目の奥に宿る光は鋭く、視聴者を射抜くようだった。

彼女は政治活動家であり、同時に人気Youtuberでもある。

その正体が、ハンガリーに伝わる魔女“トゥンデール”だと知る者は、まだ誰もいない。

配信開始と同時に、コメント欄が激しく流れた。

「待ってました!」

「みよたん今日もかわいい!」

「かわひひ!」

深夜にもかかわらず、視聴者数は一万人を超えている。

「みなさん、こんにちは。田村美代です」

柔らかい声。しかしその裏に、冷たい刃のような緊張が潜んでいた。

「今日は、日本の政治家がどれだけ親中なのか……そのお話をしますね」

画面の向こうで、視聴者たちが息を呑む気配が伝わってくる。

美代は、淡々と語り始めた。

「まずひとつ目。

日本は、中国人留学生に多額の補助金を与えています。

多い人では――年間一千万円。学生ですよ?商売をしているわけでもないのに。

どうして、そこまでの金額を“あげる必要”があるのでしょうね」

彼女は薄く笑った。

その笑みは、優しさではなく、何かを見透かす者のそれだった。

「ふたつ目。

中国人留学生には所得税がかかりません。他の国の留学生は対象外。

どうして中国人だけが優遇されるのか……これこそ差別でしょう?

不思議なことに、左翼の皆さんはこの件について政府を追及しません。

私は――不満です」

その瞬間、美代は画面の外に手を伸ばし、銀色の光を引き抜いた。

日本刀だった。

刃が蛍光灯の光を受けて、青白く輝く。

「親中議員は、私が成敗してあげます」

にんまりと笑うその顔は、妖艶で、どこか人ならざるものの気配を帯びていた。

「さて……今日の怖い話はですね」

視聴者のコメントが一瞬止まった。

美代の“怖い話”は、政治の話よりも恐ろしいと噂されている。

【美代の怖い話し】

「場所は東京都世田谷区。

上品な家ばかりが並ぶ地域ですが……その一角に、ひとつだけ異様な家があります。

曲がり角に建つ、ゴミ屋敷です」

美代の声が低くなる。

「そこに住んでいるのは、吉田律子という未亡人。

肩までの黒髪はごわごわで、背は高い。

一見すると上品ですが……疲れ切った影が、いつも彼女の背中に貼りついているように見えるんです」

視聴者のコメント欄に「怖い」「続けて」と文字が流れる。

「近所の人は、彼女がゴミを捨てるところを一度も見たことがありません。

臭いは鼻をつまむほど。

あるおばさんが注意したこともありますが、まったく効果はなかった。

ついに東京都に訴えが出され、清掃業者が派遣されました」

美代は、語りながらゆっくりと刀を鞘に戻した。

「清掃員たちは強引に家に入りました。

『吉田さん、ゴミを強制的に撤去します』

すると彼女は――

『どうぞ』

とだけ言ったんです」

視聴者の背筋が冷える。

「抵抗がないことに驚いた清掃員は、畳の上のゴミ袋をひとつ持ち上げました。

すると……畳から、半透明の“首”が生えてきたんです」

コメント欄が騒然となる。

「ゴミをどければどけるほど、首が出てくる。

吉田律子は言いました。

『いいですけど……ゴミを置いておかないと、首が出てきますよ』」

美代は、画面に向かって微笑んだ。

「怖い話ですね。皆さんはどう思いますか?」

そのときだった。

コメント欄に、ひとつの書き込みが浮かんだ。

「田村美代は中国の工作員、皆さん騙されてはいけません」

その文字だけが、なぜか一瞬、白く光った。

他のコメントが流れても、その書き込みだけは消えず、画面に残り続けている。

美代の表情が、わずかに揺れた。

だが――その揺れは、すぐに闇に溶けた。

 

第二章:さわりの恐怖

松本浩一は、夜の街灯に照らされると異様に影が濃くなるほどの大男だった。

スキンヘッドの頭皮は冬の乾いた空気を受けて鈍く光り、口元にはいつもの癖で楊枝が挟まっている。

深夜のラーメン屋で替え玉まで平らげ、満足げに腹を叩きながら帰路についたところだった。

「……あの女、中国の工作員くせに。右翼勢力に入り込んで、何を企んでやがる」

吐き捨てるように呟いた瞬間、視界の端で白い閃光が弾けた。

次の瞬間、轟音。

松本の巨体は宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。

その衝撃は、彼の人生の終わりを告げるには十分すぎた。

誰も、これが“田村”の仕業だとは思わなかった。

ただ、闇の奥で――真っ赤な口紅を引いた田村の顔が、ゆっくりとほくそ笑んでいたことを除けば。

その現場を、偶然にも目撃した者がいた。

佐藤さわり。

ニュース番組に出てきそうな、端正で知的な美貌の持ち主で、短い茶色の髪にスーツ姿、そして知的な印象を与えるメガネが特徴だ。

彼女は人気Youtuberで、番組では半額弁当を食べながら社会の片隅を語るという独特のスタイルで知られている。

その夜も、動画を撮り終え、コンビニで買い物をして帰る途中だった。

「え……?」

視界に飛び込んできたのは、倒れた大男と、走り去った車。

佐藤は思わず駆け寄った。

「運転手がいない? そんな……」

車内を覗き込んだが、ハンドルを握るべき人物の姿はどこにもなかった。

そして倒れている男の顔を見て、佐藤は息を呑んだ。

「この人……『右派ごんちゃん』じゃない」

面識はなかったが、ネット上での存在は知っていた。

ついさっきまで田村のYoutube配信でコメントを書き込んでいたはずだ。

それが――最期の言葉になった。

佐藤の通報で警察が到着した。

「ナンバーは見ましたか?」

「見ていないんです。それが……」

「どうしました?」

「運転席に……誰もいなかったような気がして」

「そんなわけないでしょう!」

警察は取り合わず、形式的にひき逃げ事件として処理した。

佐藤の胸には、説明のつかない不安だけが残った。

部屋に戻ると、棚の一角に一枚のCDが目に入った。

『増量中宣言』――松本浩一がバンド名義で出したアルバムだ。

右翼活動家でありながら音楽家でもあるという、彼の奇妙な二面性を象徴するようなジャケット。

佐藤は震える指でCDを取り出し、プレイヤーにセットした。

再生ボタンを押すと、スピーカーから荒々しいギターの音が流れ出す。

その音は、まるで彼女の胸の奥に潜む不安を掻き立てるように、部屋の空気を震わせた。

佐藤は腕を抱きしめ、静かに息を呑んだ。

――あの夜の光景は、ただの事故ではない。

そんな確信が、音の振動とともにじわりと形を成し始めていた。

翌日。

午後九時を少し回ったころ、田村美代のYouTube配信が始まった。

開始直後から、画面の右側を流れるコメント欄は異様な熱気に包まれていた。

いつもよりアンチの書き込みが多い。

いや、“多い”というより、攻撃的な何かに突き動かされているような、そんな不自然さがあった。

佐藤さわりは、湯気の立つインスタント麺をすすりながら画面を見つめていた。

仕事帰りのルーティンのようなものだ。

だが今日は、胸の奥にざらつく違和感があった。

「アンチさんも来てくれたのね。ありがとう」

田村が柔らかく微笑んだ瞬間、

その目が、画面越しにも分かるほど鋭く光った。

佐藤は麺を咥えたまま固まった。

「……おかしい。何かあるわ」

そのとき、彼女は気づいていなかった。

黒いカーテンを閉め切った窓ガラスの向こう側に、得体の知れない影が両手をべったりとつけ、

曇ったガラス越しにこちらを覗き込んでいることに。

指先が、ゆっくりと、まるで呼吸するように動いていた。

画面には新たなアンチコメントが流れた。

田村は一瞬だけ無表情になり、次の瞬間、にっこりと笑った。

「アンチの“日本の実力”さん……いえ、立身昌三さん。今日もありがとう」

佐藤は箸を落とした。

「どうして……日本の実力さんが立身さんってわかったの?

それに、実名をさらしていいの……?」

田村は何事もなかったかのように配信を続けている。

コメント欄は騒然となり、

“本名バレ?”

“怖すぎる”

“なんで知ってるの?”

といった書き込みが次々と流れていく。

しかし佐藤には、まだ理解できなかった。

昨日死んだ松本浩一――“右派ごんちゃん”との関連性を示すものは、この時点では何ひとつ見えていなかった。

翌朝。

佐藤は新聞を広げ、コーヒーを飲みながら記事を追っていた。

彼女はジャーナリストで、新聞と名のつくものはほぼすべて購読している。

日本経済新聞、朝日、毎日、東京……

さすがに聖教新聞や赤旗までは手を伸ばさないが、情報の幅は一般人の比ではない。

その中の一面下段に、見覚えのある名前があった。

「立身昌三さん(45)自宅浴室で溺死」

佐藤は目を疑った。

記事には、“浴槽で倒れていた”“事故の可能性が高い”といった定型文が並んでいる。

だが、佐藤の脳裏には昨夜の田村の言葉が鮮明に蘇った。

――立身昌三さん、ありがとう。

「……これは、何かあるわ。

調査してみる価値がある」

佐藤は新聞を畳み、深く息を吸った。

胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。

それは恐怖ではなく、ジャーナリストとしての直感が告げる“異常事態”の気配だった。

そして、彼女の背後の窓ガラスには、

まだ“あの影”の手形が、薄く残っていた。

 

第三章:さらなる被害者

保守論客芸能人ヒーヒー、あだ名・馬子(うまこ)。

歯が印象的で、子どものころから「馬子」と呼ばれ続けた。

二歳のとき、両親とともに来日し、そのまま家族で帰化した。

日本語しか話せず、文化も習慣も日本そのものだが、鏡に映る自分の顔だけは、どうしても“日本人に見えない”と周囲に言われ続けた。

その違和感を逆手に取り、彼女は「馬子チャンネル」を始めた。

自虐と社会風刺を混ぜた語り口が人気を呼び、今日も古いアパートの一室で撮影の準備をしていた。

「みなさん、こんばんは。ヒーヒーこと馬子です」

カメラの赤いランプが点灯する。

照明は弱く、部屋の壁紙はところどころ剥がれている。

それでも、彼女はいつもの調子で笑顔を作った。

「今日のテーマは、田村美代さん。

“保守”を名乗ってますけど、あれ、嘘なんですよ」

隣にはゲストの大塚英子が座っていた。

C国での研修時代、同じ部屋で暮らした仲だ。

英子は緊張した声で言った。

「田村美代の生い立ちは、全部作り物です。

本当は――」

その瞬間、照明がふっと消えた。

ヒーヒーは一瞬固まり、すぐに笑ってごまかそうとした。

「ちょっと、古いアパートだからね。よくあるんですよ、こういうの」

しかし、照明が戻ったとき、カメラのモニターに映る二人の背後に“何か”が立っていた。

輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいる。

人影のようで、人影ではない。

光でも影でもない、説明のつかない存在。

英子が息を呑んだ。

「……誰?」

振り返った瞬間、影は消えていた。

ヒーヒーは震える声で笑った。

「いや、気のせい……だよね?」

次の瞬間、マイクが突然ノイズを発し、完全に沈黙した。

カメラの赤いランプも消え、部屋は静寂に包まれた。

英子が小さくつぶやいた。

「……来た」

ヒーヒーは天井を見上げた。

そこに、誰かが“いる”気配がした。

画面越しにライブを見ていた佐藤さわりは、その異様な空気に息を止めた。

そのとき、揺れが始まった。

「あっ……地震」

佐藤の部屋も大きく揺れ、

画面は激しくぶれたあと、砂嵐になった。

翌朝。

ニュースは、ヒーヒーの住むアパートが倒壊したと報じた。

他に被害はなく、死者はヒーヒーと英子の二名だけ。

佐藤は胸騒ぎを抑えきれず、現場へ向かった。

瓦礫はすでに片付けられ、黄色いテープだけが残っている。

その地面に、奇妙な跡があった。

指で書いたような、かすれた線。

「田み」と読めるような、読めないような。

佐藤はしゃがみ込み、目を凝らした。

「……これ、まさか」

ヒーヒーが最後に残した“何か”。

偶然とは思えない。

佐藤の中で、ひとつの確信が生まれた。

――田村美代は、ただの人間ではない。

ここから、佐藤の運命が静かに狂い始める。

 

第四章:田村美代の正体

SNSのタイムラインは、黒い炎のようにざわめいていた。

「田村美代に逆らうと死ぬ」

「売国奴は天罰を受ける」

「左翼は消えるべきだ」

そんな物騒な文言が、深夜のネット空間を埋め尽くしている。

だが、当の田村美代は、いつものようににこやかに動画を更新していた。

「そんなこと、あるわけないじゃないですか。みなさん、落ち着いてくださいね」

柔らかい声。

しかし、その笑顔の奥に、どこか“空白”のようなものが見える。

佐藤さわりは、モニターに映るその顔をじっと見つめながら、

田村の過去の書き込みを一つひとつ調べていた。

――そのとき。

部屋の灯りが、ふっと消えた。

すぐに点く。

また消える。

まるで誰かがスイッチを指で弾いているように。

「……やめてよ、もう」

佐藤は小さくつぶやき、深呼吸をした。

だが胸の奥に、冷たいものが沈んでいくのを感じていた。

翌日。

佐藤は松本浩一の家を訪れた。

ジャーナリストとして、こうした遺族の情報はすぐに手に入る。

玄関を開けたのは、松本の妻・権奈(ごんな)だった。

やつれた顔に、深い影が落ちている。

「ご主人と田村美代さんは、何か関係がありましたか?」

佐藤の問いに、権奈は首をひねった。

「ええ……よく手伝っていましたよ。田村さんの演説とか、ビラ配りとか。

ボランティアが少ないからって、深夜にポスター貼りに行ったり……

有給まで取って、ビラを配っていました」

「親衛隊、みたいなものですか?」

「そう……だったんでしょうね。でも、ある日から急に、田村さんを罵るようになって。

理由は、私にもわかりません」

権奈はふと、思い出したように言った。

「そういえば……主人の服や首筋に、よくカラスの羽がついていたんです。

なぜか薄気味悪く感じていました……」

佐藤の背筋に、冷たいものが走った。

家を出ると、空気がざわついているのに気づいた。

カラスの鳴き声が、やけに耳につく。

千代田区の整った街路を歩いていると、

突然、耳元で声がした。

「余計なことを詮索してはいけない」

「えっ?」

振り向く。

誰もいない。

ただ、頭上を五羽のカラスが旋回しているだけだった。

「……なんか、怖いわ」

佐藤は歩く速度を少しだけ速めた。

次に向かったのは、第二の被害者・立身昌三の家だった。

家族の話は、松本のときとよく似ていた。

田村と親しかった時期があり、ある日を境に敵意へと変わったという。

立身の部屋を見せてもらうと、壁に奇妙なステッカーが貼られていた。

黒いカラスのマーク。

羽を広げ、こちらを睨むようなデザイン。

「このステッカー、いつから貼ってあったんですか?」

「最近ですね。でも、誰が貼ったのかは……」

家族は曖昧に首を振った。

家を出た瞬間だった。

空から、黒い影が急降下してきた。

「きゃっ!」

カラスだ。

三羽、四羽、五羽――

佐藤の頭を狙って突っ込んでくる。

佐藤はバッグで頭を守りながら、必死に走った。

近くの上島珈琲店に飛び込み、ドアを閉める。

額から血がにじんでいた。

「なんで……?」

震える手でコーヒーを持ち上げる。

外を見ると、カラスが店の前の電線にずらりと並び、

じっとこちらを見ていた。

佐藤は唇を噛んだ。

「……そういえば。田村美代の部屋にも、あのマークがあったわ」

コーヒーの苦味が、喉の奥に重く沈んでいった。

翌日。

佐藤さわりは、黒い傘を広げ、工事用ヘルメットを深くかぶって街を歩いていた。

空は雲ひとつない快晴だというのに、道行く人は怪訝そうに振り返った。

頭上ではカラスが三羽、四羽とついてくる。

「……今日は絶対に襲わせない」

自分に言い聞かせるように、傘を握る手に力を込めた。

向かった先は、『天の導き太平天国商会』という、怪しげな雑貨店だった。

店の前には、黒いロウソク、逆五芒星、そしてカラスの羽根を模したアクセサリーが並んでいる。

扉を開けると、鈴の音が乾いた空気を震わせた。

「いらっしゃい」

カウンターの奥から現れたのは、黒髪を後ろで束ねた女店主・田所裕子。

その目は、佐藤の全身を一瞬で見透かすようだった。

佐藤は周囲を警戒しながら、声を潜めた。

「……カラスの文様を使う悪魔、あるいは魔女について、

何かご存じありませんか?」

田所は、まるで待っていたかのように微笑んだ。

「いますよ。

カラスを自在に操る魔女。

ハンガリーの古い伝承に出てくる――

魔女トゥンデール」

佐藤の心臓が跳ねた。

「トゥンデールは、

人の“影”や“怒り”を糧にして力を増す。

そして、気に入らない者には……

カラスを使って“警告”を与えるの」

田所の声は淡々としていたが、その言葉の一つひとつが、佐藤の胸に重く沈んだ。

「あなた……最近、カラスにつけられているでしょう?」

佐藤は息を呑んだ。

「どうして……」

「魔女に目をつけられた人間は、どこへ行ってもカラスが離れないのよ」

田所は、佐藤の傘とヘルメットを見て、小さくため息をついた。

「……急いで帰ったほうがいいわ。

長くここにいると、魔女に気づかれる」

佐藤は礼を言い、店を出た。

帰り道。

晴天の空に、黒い影が増えていく。

五羽、七羽、十羽――

まるで佐藤の頭上に黒い雲が集まっているようだった。

「やめて……来ないで……!」

佐藤は傘を振り回し、

ヘルメットを押さえながら走った。

カラスの爪が傘に当たり、

バサッ、バサッと不気味な音が響く。

電柱の影から、ビルの屋上から、街路樹の枝から――

どこからともなくカラスが現れ、佐藤の進路を塞ぐ。

「なんで……なんでここまで……!」

息が切れ、足が震える。

しかし、佐藤は必死に走り続けた。

ようやく自宅マンションの前にたどり着いたとき、

カラスたちは一斉に鳴き声を上げ、空へと散っていった。

まるで、「今日はここまでだ」

と言わんばかりに。

佐藤は震える手で鍵を開け、部屋に飛び込んだ。

ドアを閉めた瞬間、外からカラスの鳴き声が響いた。

――カァァァァァ……

その声は、まるで笑っているように聞こえた。

佐藤は壁にもたれ、

ゆっくりと息を整えた。

「……田村美代。

あなたの正体は……魔女トゥンデール」

その名を口にした瞬間、

部屋の電気がふっと消えた。

そして、すぐに点いた。

佐藤は息を呑む。

 

第五章:対決

外は静まり返っていた。

しかし、その静けさは、嵐の前のそれに似ていた。

佐藤さわりは、部屋の灯りを落とし、ノートパソコンの前に座った。

外に出れば、カラスに襲われる。

だから、ここで決着をつけるしかない。

画面に、田村美代のチャンネルが表示される。

サムネイルの笑顔は、どこか“空白”を孕んでいた。

――配信開始。

チャット欄が一気に流れ始める。

「待ってました!」

「美代ちゃん今日もかわいい!」

「親中議員を成敗して!」

佐藤は深く息を吸い、

震える指でキーボードを叩いた。

『あたしはあなたの正体を知ってるわ』

一瞬、チャット欄がざわついた。

「美代ちゃんの悪口は許さない!」

「天罰があたるぞ!」

「そんなこと言うと死ぬよ!」

その瞬間、窓ガラスが――コン、コン――と叩かれた。

外を見ると、黒い影が十数羽、窓に張り付いている。

佐藤はさらに書き込んだ。

『ハンガリー魔女トゥンデールよ』

チャット欄は嘲笑に染まった。

「頭おかしいんじゃね?」

「小説の読みすぎだよ、この女」

「通報しとくわw」

だが、画面の向こうの田村だけは、笑っていなかった。

その目が、画面越しに佐藤を“見た”。

「……よく、わかったわね」

田村の声は、マイク越しではなく、“部屋の中”から聞こえた。

配信が終わると同時に、窓ガラスをすり抜けるようにして、カラスが部屋に雪崩れ込んできた。

「来ないで!」

佐藤は棒を振り回し、必死にカラスを追い払う。

しかし、黒い羽根は止まらない。

そのとき――

部屋の片隅の闇が、ゆっくりと形を成した。

長い黒髪。

赤い口紅。

そして、あの笑み。

田村美代。

いや――魔女トゥンデール。

「ここまで来たのだから、褒めてあげるわ。でも、あなたは死ぬの。そのお手伝いをしに来たのよ」

白い手が伸び、佐藤の首を掴んだ。

冷たい。

氷のように冷たい指。

「やめ……っ……!」

喉が潰れ、声が出ない。

視界が揺れ、意識が遠のいていく。

魔女の手が佐藤の首を締め上げ、視界が暗く沈んでいく。

そのとき――

佐藤の指先が、机の上の鏡に触れた。

最後の力を振り絞り、佐藤は鏡を自分の前に突き出した。

その瞬間。田村美代の顔が、ぐにゃりと歪んだ。

白い肌が灰色に変色し、赤い口紅が裂け、口が耳元まで裂けていく。

目は真っ黒に沈み、瞳孔が縦に裂け、頬は干からびたように痩せこけた。

醜悪な魔女の顔が、そこにあった。

しかし――

鏡には、その顔が映らない。

映ったのは、黒い煙のように揺らめく“空白”。

魔女は鏡を見た瞬間、全身を震わせ、

耳をつんざくような叫び声を上げた。

「やめろォォォォォッ!!」

その叫びとともに、魔女の顔はさらに崩れ、皮膚が剥がれ、黒い霧となって鏡に吸い込まれていく。

カラスたちも同時に悲鳴を上げ、黒い羽根となって消えていった。

 

エピローグ

魔女トゥンデールが絶叫とともに霧散したあと、佐藤さわりは床に崩れ落ちた。

首にはまだ、冷たい指の感触が残っている。

しばらくして、

ふっと意識が戻った。

部屋は――静まり返っていた。

さっきまで暴れ回っていたカラスの姿は一羽もない。

床に散らばっていた黒い羽根も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

佐藤は震える手でパソコンを開く、画面が光り、ブラウザが立ち上がる。

田村美代のチャンネルを開こうとした瞬間、検索結果が“ゼロ”であることに気づいた。

――チャンネルが消えている。

SNSのアカウントも、

投稿も、

写真も、

動画も、

すべてが跡形もなく消滅していた。

まるで、田村美代という存在そのものが、“この世界から削除された”かのように。

佐藤はゆっくりと窓の外を見た。

夕暮れの空は澄み渡り、カラスの影はどこにもない。

あれほど執拗に追い回してきた黒い影が、嘘のように消えていた。

「……助かった」

その声は、安堵と、ほんの少しの寂しさが混じって震えていた。

佐藤はそっと窓を閉め、深く息を吸い込んだ。

魔女トゥンデールは滅びた。

その日のうちに、すべては静かに幕を閉じた。

(完)

 

まえがき

この物語は、現代の日本を舞台にしています。

SNSが日常となり、誰もが自由に意見を発信できるようになった時代。

しかしその自由は、時に人を傷つけ、時に人を追い詰め、

そして――時に“何か”を呼び寄せる。

田村美代という人物は、実在の誰かをモデルにしたわけではありません。

けれど、彼女のように

「正義を語りながら、どこか底知れない影を持つ人間」

は、ネットの世界に確かに存在します。

批判を書き込むだけで死ぬなんて、

そんな馬鹿げた話があるものか。

そう思うかもしれません。

でも、SNSの炎上で人生が壊れることは、

もう珍しいことではありません。

“言葉”が人を殺す時代に、

もし“本物の魔女”が紛れ込んでいたら――?

そんな発想から、この物語は生まれました。

どうか、ページをめくる前にひとつだけ。

あなたが普段、何気なく書き込むその一言が、

誰かの人生を変えてしまうかもしれないということを、

ほんの少しだけ思い出してみてください。

それでは、物語の扉を開きましょう。

 

あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

田村美代という魔女は、

単なる怪異ではなく、

現代社会に潜む“匿名の悪意”そのものです。

SNSのコメント欄は、

時に人を励まし、

時に人を追い詰め、

そして時に――

人の心を蝕む呪いのように働きます。

佐藤さわりは、その呪いに立ち向かったひとりの女性でした。

彼女は特別な力を持っていたわけではありません。

ただ、真実を知ろうとする勇気と、

目をそらさない意志を持っていただけです。

魔女トゥンデールは滅びました。

しかし、SNSの世界から“悪意”が消えることはありません。

もしかすると、あなたのスマートフォンの中にも、

まだどこかに黒い羽根が落ちているかもしれません。

この物語が、

あなたの心に小さなざわめきを残せたなら、

それが作者としての何よりの喜びです。

また次の物語でお会いしましょう。