大学二年の福島賢治が働く出前専門店に、その日も昼下がりの注文が入った。「極上天丼、一つ」。配達に向かったのは同じ大学の後輩、加藤という気のいい青年だった。

だが、三十分経っても戻らない。一時間を過ぎても、店の裏口は静まり返ったままだった。

胸騒ぎを覚えた賢治は、店長に断りを入れ、加藤の向かった住所へ向かった。住宅街の外れ、地図に示された家は、どう見ても人が住んでいるようには見えなかった。外壁は色を失い、窓枠はくの字に歪み、ガラスとの間には指が入るほどの隙間が空いている。

「虫どころか、風が吹けば全部飛んでいきそうだな……」

思わず独り言が漏れた。

呼び鈴を押しても返事はない。声をかけても沈黙が返るだけだった。仕方なくドアノブを握ると、ギイ、と湿った音を立てて開いた。

中は真っ暗で、月明かりだけが床を薄く照らしている。玄関には、冷え切った天丼が置かれていた。まるで、誰かがわざとそこに置いたかのように。

賢治は恐る恐る奥へ進んだ。すると、薄闇の中に人影が見えた。

「……加藤?」

そこには、上半身裸の加藤が、畳の上に横たわっていた。呼びかけると、彼はゆっくりと目を開けたが、焦点が合っていない。夢遊病者のように、呂律の回らない声で言った。

「……奥さんが……天丼、受け取って……酒を……」

話を聞くと、家の“奥さん”が天丼を受け取り、「ちょっと待ってて」と酒を勧めてきたという。バイクで来ているからと断ったが、あまりに強く勧められ、一口だけ飲んだ。すると、体が火のように熱くなり、気づけば服を脱ぎ、酒を飲み続けていたらしい。

だが、今この家には灯りもなく、人の気配もない。窓は開け放たれ、冷たい風だけが吹き抜けている。

賢治は加藤を支え、店へ戻った。だが、店に着くとさらに奇妙なことが起きた。

――注文票が、どこにもない。

確かに受けたはずの「極上天丼一つ」の記録が、帳簿からも伝票からも消えていた。

数日後、どうしても気になった賢治は再びあの家を訪れ、近所の住民に話を聞いた。

「ここはね、少し前までおばあさんが一人で住んでたけど、亡くなってね。息子夫婦が解体して売りに出す予定なんだよ」

つまり、加藤が訪れた時点で、家には誰も住んでいなかったのだ。

背筋が凍りつき、賢治は逃げるようにその場を離れた。

それから加藤の様子は急激におかしくなった。店でも独り言をつぶやき、突然大声を上げるようになった。誰も近づかなくなり、ある日を境に姿を見せなくなった。

心配した賢治は、管理人に頼んで加藤のアパートに入れてもらった。

部屋はゴミで埋まり、壁には震える文字で「奥さんに逢いたい」が何度も書かれていた。

その後、加藤が店に戻ることはなかった。

あの家は解体され、新しい家が建ったが、一年経っても買い手はつかないという。

賢治はその話を聞いたとき、胸の奥に冷たいものが沈むのを感じた。

――あの日、加藤が出会った“奥さん”は、いったい誰だったのか。

そして、今も夜道を歩くと、ふと背後から声が聞こえる気がする。

「……ちょっと、待っててね」

(完)

 

まえがき

日常の風景は、ときに思いがけない裂け目を見せます。

そこから覗き込んでくるものが、人なのか、それとも別の何かなのか――私たちは確かめる術を持ちません。

この物語は、大学生の青年が体験した“出前”というありふれた仕事の中に潜む、ひそやかな異変を描いたものです。

どうか、ページをめくるあなた自身の背後にも、そっと気配が寄り添っていきますように。

 

あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

“奥さん”が誰だったのか、物語の中では明確にしていません。

ただ、加藤が見たもの、聞いた声、そして残された言葉が示すものは、読者それぞれの想像に委ねたいと思います。

日常の裏側に潜む気配を、少しでも感じていただけたなら幸いです。