今日もだれかの一言に傷ついているHSPさんのための多言語脳インストール法

今日もだれかの一言に傷ついているHSPさんのための多言語脳インストール法

心を乱されるのは日本語が原因だった?
多言語脳をインストールすれば、3秒でマイナス言葉をプラス言葉に脳が自動変換してくれます

Amebaでブログを始めよう!

アルゼンチンでは、食事の内容も感覚も日本とはぜんぜんちがいました


朝ごはん

朝が弱い私は、バナナを一本と紅茶くらいしか食べられませんでしたが、私より早く朝一番に出かけていく、ホストファーザーのパパ・アルベルト(スペイン語ではパパ👨と、二つ目のパにアクセントを置いて発音します)はちゃんと食べていっていたようです。


7時少し過ぎに赤いピックアップトラックに乗ってパパが仕事に出かけた後、私がのろのろと階下に行くと、パパが食べた後のお皿がテーブルに置いてありました。


まずコーヒー(インスタント)をブラックで。それから、ビスコチートと呼ばれる少し甘くてけっこう固いパンのかけらがお皿に残っていました。


ビスコチートは固くてカラカラなので、横に割って、そこに、はちみつやバター、そしてドゥルセ・デ・レーチェをつけて食べます。


ドゥルセ・デ・レーチェとは、一言でいうと、キャラメルソースです。


パンだけではなく、バナナにも何にでもつけて食べ、食後に必ずデザートを食べるアルゼンチン人の食卓に欠かせないモノです。




見ているだけで唾液が出そうなほど甘ったるいのが分かるそれを、おいしいから食べてみろと何度勧められたことでしょう。


最初に辞書で引いた言葉は「お腹いっぱいです」だったかもしれません。




そして、ついにドゥルセ・デ・レーチェを口にした時の衝撃は、超激辛のソースやドリアンを食べた時以上でした。


とにかく甘ったるくて、日本はおろか、一年半住んでいたイギリスでも、ほかのヨーロッパの国々でも口にしたことがないほどの糖度でした。


これを、すでに甘いケーキや果物につけて、そして朝っぱらから食べるとは…!


おそるべし、アルゼンチン人🇦🇷!


そして、こんな所で一年もやっていけるのか、日本人高校生🇯🇵?!








日本から10000キロ以上離れたアルゼンチンの、さらに首都から遠く離れた北部の小さな町にたどり着いたのは、日本を出て2日目の夜でした。


日本とアルゼンチンの時差は12時間。


旅の疲れと、途中越えてきたいくつもの時間帯によって、体内時計はめちゃめちゃになっており、アルゼンチン2日目のは何時に目が覚めたのか…。隣のホストシスターのベッドはすでに空でした。


到着した2月は、南半球では真夏。


学校は夏休みなのは知っていたので焦ることなく、夏服に着替えてから階下に行くと、そこにホストファミリーは見当たらず、知らない女性がダイニングテーブルの辺りを掃除していました。


"&¥@?/%#€€£?"


と話しかけてくれましたが、もちろん、薄く笑うしかできなかった私。すると、その人は台所の方に引っ込み、食べ物を持って出てきてくれました。


"&¥~{[€*~"


と言ってほほえみ、ナプキンとナイフ・フォークも持ってきてくれました。


そして、そこに真っ黒犬のブラッキーが寄ってきて、クーンと情けない声で鳴き始めました。


"¥@|$<%#!!!!"


とブラッキーを怒鳴りつけるその女性。


ブラッキーはその時はすごすごと引き下がりましたが、私が座って食べ始めると、テーブルの下に潜って私の膝の上にアゴを載せました。


昨日は近づいただけでいきなり唸って威嚇してきたあの態度からなんという豹変ぶり!


でも、犬と仲良くしたいと思った私は、パンのかけらを床に落としてやったのです。


すると、ブラッキーはそれをすぐに食べてまたアゴ攻撃。


しばらく無視していると、またクーンクーンと鳴き始めます。


"¥%|]£+€$_="!!!!!


台所から戻ってきた女性は、犬に一喝すると、それだけではダメだと思ったのか、今度は首輪を掴んで向こうのほうへ犬を引っ張っていってしまいました。



多分、私が餌をやったのがバレたのだと思うと、私も怒られるかもとちょっと緊張しました。


でも、その女性は、戻って来ると、私が言葉がわからないことは意にも介さず、どんどん話しかけてくるのでした。



後に、この女性はイルダと言って、通いのお手伝いさんであることが判明します。


道理で、事前に受け取っていた家族の説明や写真には載っていなかったはずです。


彼女は、毎朝家にやって来ては、掃除・洗濯・アイロンがけ、ベッドメーキングなどをしてくれるとのことでした。


こうして、外科のお医者さんのお父さんと専業主婦のお母さん、男兄弟4人、ひとつ年下の妹、食いしん坊の犬、そしてお手伝いさんという大家族との生活が始まりました。



アルゼンチンに行く日本からの直行便はありません。アルゼンチンだけではなく、南米に行くには、どこかで飛行機を乗り換えなければいけません。

 

私たち日本からの5人の高校生は、アメリカのヒューストン経由でした。ヒューストンまで十数時間、そして乗り継ぎ便まで何時間か待って、さらに十数時間、計30時間を超える、人生でいちばん長い旅でした。

 

ブエノスアイレスの空港に着いた時には気持ちは悪いわ、疲労困憊で、もう一生飛行機に乗りたくないと思ったのも束の間、最終目的地の北の果ての州までもう一度国内線に乗ることになりました。

 

でも、日本からいっしょに来たほかの4人はブエノスアイレスからバスで10時間以上かけて別々の最終目的地に向かったので、実は私はいちばん楽をしたようです…。

 

 

 

空港には、これから一年をいっしょに過ごすことになるホストファミリーが迎えに来てくれていました。

 

 

事前に受け取っていた書類で、家族構成、名前や年齢、職業などは知っていましたが、いっしょに入っていた写真2枚だけではどんな人たちなのか全然分からず、初対面はやはり緊張するものでした。

 

 

初めて着いた家は、靴を履いて入ることに「外国に来た」と感じました。床もタイルで固く冷たく、ちょっと寒々しい感じがしました。

 

 

家に着くと、ブラッキーという名前の黒くて大きい犬がいて、近づこうとすると唸りました。「危ないよ!近づかないで!」と言われたと思います。言葉が分からなくても、警告されたことは分かりました。

 

 

その夜はなにせ疲れ果てていたので、早く横になりたかったです。向こうもそれは分かっていたので、すぐに寝室に案内してくれました。

 

 

それは、5人兄妹で唯一の女の子、ホストシスターのエレナの部屋でした。部屋には私用のベッドが置かれていて、以来彼女と毎晩並んで寝ることになりました。

 

 

ついに、日本からいちばん遠い国に来てしまった。

 

 

なんて感傷に浸るまもなく、その夜は一瞬で眠りに落ちたのでした。

中学校の時の先生にAFSという高校生のための海外留学プログラムを教えていただいた私は、すぐ両親に「行かせてほしい」とお願いしました。


自分が海外好きの父は二つ返事。



書類審査、面接を経て、ついに決まった渡航先はヨーロッパでもアメリカでもないアルゼンチンでした。


かろうじてどこにあるか知っていた程度の、日本からは地球の反対側にある国。南半球にあって、たしかタンゴが有名?


もしも行きたくなければ辞退することもできましたが、そうすればどこにも行けなくなります。


少し考えた私は、「アルゼンチンはスペイン語」ということを思い出し、かつてスペインで聞いて感動した、日本語にその音体系が激似のあの言葉か!と思い、アルゼンチンに一年行くことを決めました。



そもそも、イギリスから帰国して一年足らずでまた海外に行きたいと思ったのは、英語のほかにもう一つ言語を身につけたいと思ったからです。



日本ではあまり話題にならないアルゼンチンと聞いて少し驚いた両親も、私が行きたいのであれば、と言ってくれました。



数週間して、母方の祖父から私宛に分厚い封筒が届きました。


そこには、アルゼンチンについて調べてくれた情報を手書きで写した手紙が入っていました。


普段は近寄りがたい感じがした祖父でしたが、やはり海外にはとても興味があり、遠い異国に旅立つ孫にエールを送ってくれました。



何回かの渡航前のオリエンテーションの後、高校一年生を終えることなく、私はほかの4人の日本人高校生とともにアルゼンチンに旅立ちました。


数ヶ月前から、地域の公民館で「世界の料理を作って食べる」というイベントを始めました。

 

 

そのイベントは今日で5回目。メキシコ料理、中華料理、フランス料理、フィリピン料理と、会を重ねるごとにリピーターも現れ、顔見知りも増えてきましたが、毎回色々な失敗やハプニングが満載でした。

 

 

 

最初のイベントの日、高校時代の友人が2人参加してくれたのですが、ふたを開けてみればその2人はスタッフとしてイベント中ずっと私を手伝ってくれていました。

 

 

受付、材料・道具・お皿配り、野菜切り、買い忘れた材料の買い出し…。

 

私一人ですべてできると思っていたのでしょうか??

 

 

 

イベントが終わって彼女たちに言われたのは、「本当に昔と変わらないね」という言葉。

 

 

 

昔から、やらなければいけないことがあるのにギリギリまで何もせず、しめきり直前になって人に助けてもらってやっと帳尻を合わせるということを、確かに私はしてきていました。

 

 

高校の家庭科で浴衣を縫った時。

 

 

縫い方を教わったあと、縫うペースは自分たちに任されていたため、友だちとのおしゃべりに夢中になっていた私。

 

締め切りが間近に迫ったのにまだ何段階も遅れていたことに気づき慌てた私を、もう縫い終わった友だちが静かに助けてくれました…。

 

 

その浴衣は現在the yukata of friendshipと名付けられ、今でも大事に取ってあります。

 

 

大学の卒論の時。

 

 

締め切りの1週間前に必要な資料が遠く離れた別の大学の図書館にあることが分かり、そこに通っていた友だちに頼んで借りてもらった思い出…。

 

 

それでもなんとか今まで生きてこられたのは、そんなテキトーな私を支えて助けてくれた友人たちだったことに改めて気づいてびっくりしています。

 

 

今日も途中でたまねぎを買いに走ってくれてありがとう❤️