蘇州日記

蘇州日記

2015年4月から蘇州に単身赴任しています。蘇州での生活をブログに書いてる人が大勢いて、赴任前にとても参考になったので、真似することにしました。

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早いものでこの連載も40回目を迎えました。

あと数回で完結の予定です。

 

今日は地下鉄4号線の三元坊(サンユアンファン)の紹介です。

 

 

 

 

前回紹介した北寺塔から3つ南に行ったところにある駅です。

 

ひとつ前の駅が1号線と交わっている楽橋ですので、今回からは蘇州の南半分に入ります。

 

 

 

 

三元坊というのは元々は小道の名前なのですが、今では小さな広場になっています。

 

 

 

 

 

「元」というのは現在では中国の通貨単位の名前ですが、「一等賞」という意味もあります。

 

三元坊の「三元」は3つの一等賞という意味で、日本風に言えば「三冠王」という感じです。

 

清の時代に、蘇州出身の钱棨(チェン・チー)という人が科挙の試験を受けたところ、都市・州・全国の全てで一等賞になったことを称え、当時の皇帝が記念碑を立ててくれたことから、その記念碑があった小道が「三元坊」と名付けられました(「坊」は小道という意味です)。

 

こちらがそのことを説明する看板。

 

 

 

 

その碑は現存していないようですが、代わりに新たに作られた钱さんの石像がありました。

 

 

 

 

個人的には全国で1位だったら都市でも州でも1位なのが当たり前なので、なぜ敢えて三冠王と讃えたのか謎なのですが。。。

 

 

 

ということで、この辺りは学問にゆかりがある場所らしく、蘇州図書館もあります。

 

 

 

 

しかし、現代の一般庶民にとってのこの駅の重要性は、十全街があることでしょう。

 

十全街は、蘇州にあるいくつかの商店街の中で、かつてはもっともオシャレだった場所です。

 

私の勝手なイメージとしては、観前街が上野と浅草と原宿を合体させたような場所であるのに対し、十全街は青山みたいな場所だったのだろうと思います。

 

これまでは地下鉄駅からは遠い場所だったのですが、4号線ができたおかげで気軽に行けるようになりました。

 

但し、十全街の商店街は東西にかなり長く、三元坊駅があるのはその一番西の端なので、目的のお店が十全街の東の方や真ん中辺にある場合にはあまり便利ではありません。

 

 

 

 

かつて、蘇州に外国人が少なかった頃は、洋食屋や欧米風のバーはこの場所にしかなかったのだそうで、現在でもそれっぽいアルファベットの看板があちこちに見受けられます。

 

 

 

 

 

但し、全てが洋風というわけでもなく、中国っぽい店構えの建物も混在しています。

 

 

 

こちらは蘇州麺の名店「同得興」です(但し、本店ではありません)。

 

 

 

 

こちらは「南国賓館」というホテル。

 

 

 

 

ホテルの前には肉まんの屋台が出ています。僕は買ったことがないのですが、かなり美味しいらしいです。

 

 

 

 

残念ながら現在では十全街はかなり寂れてしまいます。

 

オシャレな買い物スポットの座を園区や新区に取られてしまったからだと思います。

 

 

 

十全街から1ブロック南に入ったところに、蘇州古典園林のひとつである網師園があります。蘇州には世界遺産に登録されている園林(庭園のことです)が9か所あるのですが、網師園もそのひとつです。

 

 

 

 

 

 

 

第39回 北寺搭

 

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200年に孫策が暗殺されたことにより、後を継いだのが、当時まだ19歳だった弟の孫権です。孫権の日本語での読み方は「そんけん」で父・孫堅と同じなのでとっても紛らわしいのですが、中国語の読み方では父・孫堅は「スンジアン」、息子・孫権は「スンチュアン」です。

 

兄から地盤を継いだ孫権は、他地方の有力者である曹操・劉備とある時は同盟し、ある時は敵対しながら徐々に地盤を固めていくわけですが、面倒なので詳細は三国志を読んで下さい(笑)

 

 

 

 

曹操・劉備・孫権の中で最も勢力が強かったのは曹操です。

 

彼は216年に後漢の献帝から「魏王」の称号を与えられました。

 

この段階では魏が後漢から独立したわけではなく、あくまでも国のトップは後漢の皇帝であり、その下の地方の有力者の中から皇帝が認めた者が地方政権の王に任じられるというスタイルです。

 

しかし、220年に曹操が死去すると、後を継いだ息子・曹丕(そうひ)は献帝に退位を迫り、禅譲させることに成功します。

 

こうして400年以上続いた漢王朝は滅亡します。

 

 

 

自らを漢の正統な後継者と考えていた劉備はこれを不服として、自ら蜀(正式名称は蜀漢)の皇帝に就きます。

 

しかし、孫権はこの時は一旦、この時点で魏に反抗するのは得策ではないと考え、曹丕の皇帝就任を承認しています。

 

これは孫権が曹丕の配下に入ることを意味します。

 

曹丕は孫権を自らの配下の地方政権の長として認定し、孫権を「呉王」に任命します。

 

 

 

222年、孫権は形ばかりの魏への従属から離れ、黄武という独自の元号を使い始めます。これが一般には呉の正式な建国とされています。それまでの魏の地方政権としての呉から独立国家としての呉になったわけです。但し、孫権が正式に呉の皇帝に即位したのは229年になってからのことです。

 

前にも書きましたが、春秋時代の呉が滅んだ後もこの地方は呉と呼ばれ、この地方に国家が興る旅に呉と名乗って来ました。この為、呉という名前の国がたくさんあって紛らわしいので、後世では孫権の呉のことを「孫呉」とか「東呉」とか「三国呉」とか呼びます。

 

蘇州の各地に「東呉麺館」という蘇州麺のチェーン店があるのですが、この東呉が三国志の呉を指しているわけです。

 

 

 

 

ただ、どうして三国時代の呉が「東の呉」と呼ばれるのかわかりません。

 

後述のように、三国時代の呉は、かつての呉の都である蘇州よりも西にある南京を都にしているんですよ。

 

だったら「西の呉」じゃないの??

 

 

 

 

孫権の元々の本拠地は杭州なのですが、その後、蘇州や鎮江など何度か本拠地を変えており、最終的には211年に南京(当時の名称は建業)に落ち着きます。

 

蘇州に拠点を置いていた期間が短いので、蘇州人たちは三国呉には大した思い入れを持っていないようで、蘇州人の中では「呉」と言えば春秋時代の呉を指すようです。

 

その後、南京は中国の南の中心地として発展し、それ以降に中国南部に都を置く時には南京が選ばれるようになり、蘇州は政治の中心地としての出番は少なくなります。

 

 

 

一方で、蘇州は文化の中心地として栄えるわけですが、そのきっかけを作ったのも孫権でした。

 

孫権は母の恩に報いるべく、蘇州に彼女の為の邸宅を建築します。

 

後に彼女がその邸宅を寄進し、通玄寺というお寺になりました。

 

このお寺が後年、母の恩に報いるという建築動機から報恩寺と改名しました。

 

法恩寺の敷地には12世紀に北寺塔(正式名称は万歳搭)という塔が建てられ、蘇州のシンボルとなりました。

 

今では蘇州のシンボルの座は東方之門に取られた感がありますが、北寺塔も十分な存在感を保っています。

 

 

 

 

孫権は252年に崩御します。

 

その後、呉の皇帝は孫亮(そんりょう)→孫休(そんきゅう)→孫皓(そんこう)と推移します。

 

一方の魏では司馬一族の勢力が強くなり、司馬昭(しばしょう)の指導の下で263年に蜀を滅ぼすことに成功。

 

司馬昭は間もなく病死しますが、後を継いだ司馬炎(しばえん)が265年に魏の皇帝・元帝から禅譲を受けました。

 

こうして魏が終焉を迎えて晋へと変わります。

 

晋は280年に呉に戦争を仕掛け、これに敗北した呉が降伏したことにより滅亡。

 

三国時代は終焉し、中国は再び晋という統一国家の時代に入ります。

 

 

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言うまでもなく、日本語の漢字は中国から輸入されたものです。

 

ですから、元々は中国語も日本語も単語の意味は同じだったはずです。

 

実際、現代でも「上」「下」「男」「女」などの基本的な単語は、日本でも中国でも同じ意味で使われています。

 

 

 

一方で、長い年月を経て、中国または日本で意味が変化したり、あるいは中国または日本で新たな単語が発明されたりして、日本と中国で(字体はともかくとして)字が同じなのに意味が違う言葉もあります。

 

それらの中には、中国語の単語を見せられても、日本語には存在しない言葉なので意味がわからないものもありますが、一方で、日本語にもその言葉は存在するけど意味が違うというものが結構あります。

 

今日はそれらの中から僕が面白いと思ったものを紹介したいと思います。

 

尚、下記の文章では中国語を赤字で示しています。

 

 

 

まずは「放置(ファンジ)」という言葉。

 

日本語ではこれは「ほったらかしにしておく」というような意味で、あまり良い印象の言葉ではありません。

 

ところが、中国ではそういう意味ではなく、単に「置く」という意味です。

 

」だけでも「置く」という意味になります。

 

僕の勤め先の工場には、「原材料放置処」というような看板がよく貼ってあります。

 

日本人の感覚だと、「大事な原材料を放置するなよ」と思ってしまいますが、これは正しい置き場にきちんと置くことを意味しているのです。

 

ところで、日本語の「放置プレイ」は中国語では何と言うのでしょうか?(笑)

 

 

 

 

次に「停車(ティンチャ)」という言葉。

 

日本語と同じく、車を一時的に止める時にも使う言葉ではあるのですが、中国語では駐車と停車の区別がなくてどちらも「停車」です。

 

ですから、ショッピングセンターに行くとよく「停車場」という看板を見かけます。

 

もちろん駐車場のことなのですが、日本語で「停車場」と言うと駅やバス停を指す昔の言葉なので、石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」という詩を思い出して望郷の念に駆られちゃったりするのです(笑)

 

 

 

 

次は「告訴(ガオスー)」という言葉。

 

日本語では裁判用語としてしか用いませんが、中国語では日常会話でしょっちゅう耳にする言葉です。

 

中国語の「告訴」は「告げる。伝える。教える」という意味。英語の「tell」にあたる言葉です。

 

例えば、ディズニーランドに初めて行く人が、既に行ったことのある人に「どのアトラクションがオススメか教えて」なんていう場面でよく使います。

 

「私に教えてね」(告訴我)という軽い命令文で使うことが多い関係上、まるで「俺を告訴しろ」と言ってるみたいな気がしてしまいます。

 

 

 

 

次は「情報(チンバオ)」という言葉。

 

現代は情報社会ですから、日本語では「情報」という単語をよく使いますが、中国語では日常会話でこの単語が出て来ることは滅多にありません。

 

なんでかと言うと、この単語は中国語では主として「諜報」という意味で使われるからです。

 

じゃあ、「情報」のことを中国語で何と言うかというと、「資訊」「資料」「信息」といった単語があります。

 

 

 

 

次は「経理(ジンリ)」という言葉。

 

日本でも中国でもこの単語はビジネスの場面でよく使いますが、全く別の意味です。

 

日本語の「経理」は言うまでもなく、会社のお金の出入りを記録・管理する業務・部署のことを指しますが、中国語の「経理」は「マネジメント」「マネージャー(管理職)」という意味なのです。

 

中国のビジネスマンと名刺交換をすると、名刺に「経理」と書いてある人がたくさんいて、僕は最初の頃、「なんで経理部の人ばかりと知り合うのだろう?」と思っていたのですが、彼らは経理部に所属しているわけではなく、日本で言うと部長や課長にあたる役職だということです。

 

ちなみに、社長のことは「経理(管理職)の中のトップに位置する人」という意味で「総経理」と呼びます。

 

 

 

 

次は「妻子(チーズ)」という言葉。

 

日本語では「妻と子」という意味ですが、中国語では「妻」だけを指します。

 

」という単語には「子供」という意味もあるのですが、ここではそういう意味ではなく、調子を整える目的で名詞の末尾につける接尾辞であり、特に意味はありません。

 

中国では「靴」のことを「鞋子(シエズ)」、「袋」のことを「袋子(ダイズ)」、「机」のことを「桌子(ジュアンズ)」という具合に、多くの名詞に意味のない「」が付いています。

 

この名残が日本語にも残っているのが「帽子」で、この単語は日本語でも中国語でも同じです。

 

では、中国語で「妻と子」と言いたい時は何と言えばいいかと言うと、「妻儿(チーアール)」という単語があります。

 

」も「子供」という意味で、息子のことを「儿子(アールズ)」、娘のことを「女儿(ニューアール)」と言います。

 

 

 

 

最後は「勉強(ミャンチャン)」という言葉。

 

この言葉は日本語では「学習・学問」という意味ですが、中国語では「無理強いする」「しぶしぶ」という全く違う意味です。

 

じつは日本でも江戸時代までは、この単語を中国語と同じ意味で使っていたそうです。

 

当時、学問は一部の恵まれた階級だけに許されたもので、学問の機会を与えられるのはありがたいことでした。

 

しかし、明治時代になって義務教育が誕生したことにより、誰もが小中学校に通うようになると、学問が嫌いな子供がイヤイヤ学校に行くという状況が頻発します。

 

この世相を皮肉った新聞漫画が、イヤイヤ学問をする学生を「勉強」という単語で表したことから、この単語を俗語的に「学習・学問」という意味で使うようになったそうです。

 

 

 

 

中国語を習う際に、「へぇ、この単語って中国では違う意味なんだ」と印象に残ったことは他にもたくさんあるのですが、今思いつくのはこんなところです。

 

 

 

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