子育て記事でちょいちょい見かける、
じっとしてられない子と、その親のエピソード。
スーパーや病院、電車の中などシチュエーションは様々ながら、大体はなかなか言うことを聞いてもらえない辛さを訴えるもので、私自身読んでて「ウンウンそうよね〜わかるわかる」と共感してしまうものばかり。
ただこれ、毎度毎度だけど「わかるわかる派」と「あんたの努力が足りんのよ派」と、さらには派生して「子供の面倒見ない親批判派」の大体3つでコメント欄が埋まるんですよね。
そしてそれぞれにやいのやいのと言い合うんだけど、これってもうたぶん
そのままじゃ、心からわかり合うことって難しいと思うのよね。
だってね、それぞれがそれぞれに経験してきたことをコメントしていくわけですよ。
そして、それぞれに自分の意見を信じて疑わない。
そりゃそうですよね、みんな話してるのは「自分の中の真実」なのだから。
我が家には繊細な兄と、発達凸凹な弟がいます。
ぶっちゃけて言うと、兄は俗に言う「聞き分けのいい子」。
もともと神経質なので、大きな声を出す子や暴れる子が苦手です。
そんでもって弟は俗に言う「聞き分けのない子」。
言っても伝わらない、体で止めても私ごと引っ張る勢いでどっか行っちゃう。
…何が言いたいかと言うとですね、どちらも私が育ててるんですよ。
出かける時には兄にも弟にも同じように「こういう場ではこうしようね」と常にマナーを伝えてきたし、飽きないようにおもちゃもお菓子も常に持って出かけました。
たぶん記事での困ってる親御さんたちもきっとそう。
例えば病院に行くとき。
兄は口で伝えれば「わかった」と言って、自然と私の隣を歩きます。
病院内でも静かに待てるし小さい声で話せます。
弟は口で伝えれば「わかった」と言って走り出します。
つけ加えて「走らないよ」と伝えれば止まります。
ここで「行くよ」と言えばまた走るので「手を繋いでお母さんとにいにと一緒に歩くよ」と伝えると、とりあえず歩きます。
でもすぐに何かを見つけます。
好きな色の車、杖をついたおじいさん、マンホール。
すると手を振りほどき、それをめがけて走り出します。
もはや「走らずに手を繋いでお母さんとにいにと一緒に歩く」ということは、どこかに行っちゃいます。
慌てて紐付きリュックを引っ張ろうものならつんのめって頭からコケます。
追いかければ「追いかけっこ」が始まったと思って、喜んでさらに逃げます。
1日中、365日、終始こんな感じです。
…さあ、病院についたら…もうどんな状況か想像つきますよね(笑)
前述の「わかるわかる派」は別として、
「あんたの努力が足りんのよ派」には「これ以上どんな努力をせよと」と思うくらい手を尽くしてきてるし、「子供の面倒見ない親批判派」に対してはもう、イコールとしてしか見てもらえないんだな…とあきらめるより他ない。
私思うんですよね、たぶん「わかるわかる派」はきっと身近に我が家の弟のような子がいるんではないかと。
発達凸凹でなくても、たとえ我が子でなくても、似たような子を知ってるんじゃないかと。
常識のあるよく知った人の子がこんな子なら、人って肯定的に受け入れられるんじゃないかと。
反対に受け入れられない人っていうのは、おそらく身近にそういう子がいない、もしくはそういう子の親が我慢ならないタイプ、さらには本当に子供の面倒見ない親子に嫌な思いをさせられた…のではないか。
そうやって相手の背景を考えると、色々な事が見えますよね。
人はみな、基本自分の経験から学んでいくもの。
経験してないことを理解するって、なかなか難しい。
勉強と違って「この子はこういう子です。はい!覚えてね」とはいきませんものね。
ただ、1つ思うのは
「言葉の先には必ず誰かがいて、誰かが見ている。(聞いている)」
ということ。
私にはわからない、で終わるんではなく想像してみる。
正論を述べて言葉を失わせるのではなく、新しい知識を得たと思って一旦受け入れてみる。
そうすると、もっと世界が広がると思うんですよね。
きれいごと、と言われるかもしれないけども、頭の片隅にでも入れておくと少しは違って見えることもあるかなぁ…なんてね。