ドラマの中断ですっかり投稿がご無沙汰になってしまいました(^-^;
いつから再開するのかな? 次は足利義昭を報じて信長が上京するあたりからかな?
なんて考えながら、信長と将軍義昭が将軍になるあたりまでの信長の足跡なんぞ追ってみようかしら。
と思い。ちょっと投稿を再開してみようと思います。
【桶狭間の戦い後~将軍義昭が将軍になるまでのざっくりした流れ】
こんな感じで時代は流れます。
○永禄3年(1560年)
5月19日 桶狭間の戦い
5月23日 松平元康(家康)が岡崎城を奪還
11月13日 三好長慶河内を平定
○永禄4年(1561年)
4月・梅が坪城攻め(対 家康)
5月11日 斎藤義龍が急死。斎藤龍興が跡を継ぐ。
5月14日 森辺の合戦(信長vs龍興) ※前田利家が大活躍し、ようやく復帰を許される。
5月23日 十四条の合戦(信長vs龍興) ※池田恒興、佐々成政が活躍
6月・於久地城を攻撃(東美濃攻略の前哨戦)※永禄5年説もある
8月・尾張守護斯波義銀を国外追放(信長。事実上の尾張国主に) ※信長公記には年代が記載されていない。追放理由としてうぐいら(長島)の「服部友定と駿河勢を海上から引き入れようとしたこと」が書いてある。桶狭間合戦の時に今川義元は大高城沖に服部友定の軍船を呼び寄せている。
おまけ:8月3日:秀吉がおねと結婚。
○永禄5年(1562年)
1月 信長と家康が同盟を結ぶ
○永禄6年(1563年)
4月 信長、稲葉山城に侵攻するも竹中半兵衛の戦術に嵌り敗退(「織田軍記」)
※ただし「織田軍記」(総見記)の信憑性は疑問符が着く。永禄9年にも加納では戦いがあるためこちらは以後省略する。
7月 東美濃侵攻のために本城を小牧山に移転
○永禄7年(1564年)
2月 竹中半兵衛と安藤守就。稲葉山城を乗っ取る。
2月28日 家康、三河一向一揆を平定。
5月 黒田城の和田定利・於久地(小口)城の中嶋豊後守の調略に成功し味方にする
8月 丹羽長秀、犬山城を攻撃し包囲。犬山城の織田信清退去。
○永禄8年(1565年)
3月・家康。東三河を統一。
7月10日 東美濃勢の加治田城が織田方になる
7月28日 一条院覚慶、のちの足利義昭が奈良を脱出し、六角>朝倉を頼る
8月 伊木山に陣を構える。宇留摩城、猿啄(さるばみ)城を落とす
8月28日 堂洞城を落とし、東美濃の大部分を手中に収める。
9月 「麟」の花押を使い始める。
○永禄9年(1566年)
4月・加納口の戦い(信長vs龍興)
5月 信長の娘(五徳)と家康の長男信康が政略結婚
○永禄10年(1567年)
8月1日・西美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)が信長に鞍替え。
8月15日・稲葉山落城。斎藤龍興は長島に逃れる
小牧山城から稲葉山城に拠点を移し「岐阜」に改名。「天下布武」の印を使い始める※
10月 滝川一益が伊勢に侵攻。
○永禄11年(1568年)
越前から足利義昭の使い(細川藤孝、和田惟政)が来訪。
7月25日・義昭。美濃へ到着 ※この時光秀の名前はまだ信長公記には出てこない。
8月7日・六角義賢に使者を派遣し協力を求めるも拒否される。
9月7日・信長。上洛に向けて近江攻略開始。
10月2日に摂津の池田まで侵攻し、義昭は京に入る。
10月22日・義昭。征夷大将軍に任命され15代将軍になる。
ドラマは桶狭間の後から永禄10年あたりまでをさらっとまとめ、義昭が使いを送る前あたりから始まるのでしょうか?
まだ再開まで少し時間がありそうなので、上記の合戦部分をまた地図に落とし込んでみようかな。
と思ってます。
【余談】
この頃の「天下」とは天皇の下。すなわち京都を中心とした畿内を指すことが一般的でした。
信長公記その他の書物でもほぼその意味で使われています。
そのような観点から見ると「天下布武」とは『京都・畿内を武によって制圧するぞ!』
という上京の意思表示を明確にし、周辺に喧伝するためのツールだったのでは?
とも考えたくもなってしまいます(^-^)
「岐阜」という字は、古代中国の周の「文王」が岐山を拠点に全国統一したことにあやかって命名した、と書く向きがあります。
たぶんそうなのでしょう。ただ、「ぎふ」は「義父」と書くこともでき、ドラマで信長が帰蝶に「実はな。表向きああ言っているが。実のところは義父(ぎふ)である道三殿への贈り物なんじゃよ」。
なんて表現したら、ちょっとドラマ的にも面白いシーンになるなあ。
なんて考えてしまいました(*^-^*)
今回は以上です(地図がなかったw)