私たちの生活を見回すと、私たちを生かすために存在するものがたくさんあることに気づきます。例えば、政治であり経済であり、科学であり医学であり、法律もそうですしエンターテインメントもそうです。

 そして政治は、国民の生命と財産を守るのが仕事だと言われます。
 また経済は、豊かにして貧困に苦しむ人をなくそうとしています。
 科学は、便利なものを世の中に送り出し、快適に生かそうとしています。
 医学は、少しでも寿命を延ばそうとしています。
 法律は、悪しきを罰して、生活の秩序を正そうとしています。
 エンターテインメントは、私たちをもてなそうとしています。

 では、これらの政治や経済、科学や医学、法律やエンターテインメントは、私たちを生かすために存在するとはいえ、結局どうさせたいのでしょう。
 つまり、私たちはこれらのもののおかげでどれだけ生かしてもらってもやがては必ず死んでしまいます。死んでしまっては政治も経済も科学も医学も法律もエンターテインメントも用事がないではありませんか。

 ところがこのように申し上げると、

 その遺体をどう取り扱うか、法律で定めがあるではないか
 死体遺棄罪という立派な罪があるではないか
 埋葬方法も細かく法律で決まりがあるではないか

という反論があっても自然でしょう。
 ということならば、(中には相手にしなくていい反論もあるのですが、)反論にはきっちり相手しなければなりません。

 なぜ、死体遺棄罪があるのでしょう。どんな考え方に基づいてこの罪が設けられたのでしょうか
 なぜ、埋葬方法が細かく法律で決まっているのでしょう。どんな考え方に基づいて設けられたのでしょうか

 例えば「死体遺棄罪」。死体遺棄罪を犯した者を逮捕し事情聴取することで事件か事故か捜査が進展するからだ、と考えることもできるでしょう。
 ところが一方で、亡くなった方を弔わないと浮かばれないからという考え方に基づいているのならば、「死後はある」という考え方ないし思想の影響を受けていると言えるでしょう。

 「埋葬方法」についても、埋葬方法によっては亡くなった方が浮かばれないという考え方に基づいているのならば、「死後はある」という考え方ないし思想の影響を受けていると言えます。

 このように、よくよく突き止めてみると、死後はあるのか、ないのか」という考え方は政治にも経済にも、科学にも医学にも、法律にもエンターテインメントにも、多少なりとも影響を与えているのです。
 そして、「死後がある」と考えるのも1つの思想です。「死後はない」と考えるのも1つの思想なのです。決して大げさな表現ではありません、れっきとした「思想」なのです。
 死後はあるのか、それともないのか

 確かに私たちの肉体は、死ねばたいてい荼毘(だび)に付しますので、灰とひとつまみの白骨だけになってしまいます。といってもこれはあくまでも日本古来からの風習です。
 では、ワタシというものも死ねば無くなってしまうのでしょうか

 実際にアンケート調査結果があるそうです。聞いた話ですが、面白い集計結果とのことです。

 アメリカ人への調査結果は、「死後はある」という回答が多数だったそうです。
 次に中国人への調査結果は、「死後はない」という回答が多数だったそうです。
 では、日本人に同じ質問をしたらどんな結果が出たかと言えば、「死後は無い」という回答が多数だったそうです。

 ところで、著名人が亡くなると報道関係者は口を揃えて「ご冥福をお祈りいたします」と言います。皆さんも通夜や葬式に訪れては「ご冥福をお祈りいたします」と言うのではないでしょうか。
 少し心を落ち着かせて、「冥福」という言葉についてじっくり考えていただきたいのです。

 「冥福」とは、「冥土の幸福」を略した言葉です。
 そして、「幸福」の意味はよく分かっていらっしゃるでしょう。「冥土」の意味はズバリ申し上げれば、「死後の世界」のことを言います。ただ、なぜ「冥土」と言うのか、ご説明するとかえって混乱を招きかねませんので、今回は割愛させていただきます。

 お気づきいただきたいことは、アンケートでは「死後は無い」と回答していながら、死後の世界があることを前提としている言葉である「冥福」という言葉を故人に向かって言っている矛盾が起こっている、しかもほとんどの方がこの自己矛盾に気づいておられない、ということです。

 それ以外にも、ワタシが死んだら、灰や遺骨を海にばら撒いてくれ」と遺言する人があります。まるで、死んだ後もなお灰や遺骨と一緒にワタシが行動している、ワタシに死後があると心の底では思っているというようにしか考えられません。

 こんなにも世間中が「冥福を祈る」と言う中で、ある報道キャスターの口からは、私・浅路は「冥福を祈る」という言葉を聞いたことがありません。あまりにも聞けないため、検索エンジンで検索したほどです。そうしてヒットしたブログには、次のような内容の意見が書かれていました。
> ZARDの坂井泉水さんが亡くなった時には、「冥福を祈る」みたいなことを言っていたが、松岡農水大臣が自殺した時に「冥福を祈る」と言わずに追悼の意を示さないのは、屍に鞭を打つようなものだ。
 実は、私・浅路の記憶では、坂井泉水さんが亡くなった時にも「冥福を祈る」など聞きませんでした。

 このキャスターは、なぜ「冥福を祈る」と言わないのでしょうか。実は、2通りの理由が考えられます。

 1つが、「死後は無い」という信念があり、かつ「冥福」という言葉の意味からすれば「冥福を祈る」と言うことは自分の信念に反するため、という理由です。
 もう1つが、「死後はある」とは考えているものの、私たちがどれだけ「冥福」を祈ろうとしもどうすることもできないと考えているため、という理由です。
 論より証拠、という言葉があります。

 「前世なんかがあるものか。だったら証拠を出してみろ」と、前世や過去世の存在をとうてい信じられない人は多いでしょう。
 あるいは、「自分は人の前世が見える」と豪語し、自分以外の人の前世をリアルに語る人もいるようです。インチキくさいですが、それらを聞いたから前世があると信じている、という人もあるでしょう。

 いずれも、証拠を通して前世や過去世のあるなしを判断していると言えます。

 一方、私たちはこの世に生を受けましたが、出生地もバラバラ、両親もバラバラ、容姿もバラバラ。これらを結果と見たときに、よりによってこんな生まれ方になった原因は何なのか、どうすれば分かるでしょうか。

 ここで大事になるのが、生命観であります。
 私たちの肉体は有限であり、生命もまた肉体の誕生と共に始まって終わるのだから有限、と世間中が思っています。しかし、先ほどの問いに答えようとすれば、とうとうと流れる大河のような生命が過去世から存在し、その生命が過去世でやってきたアクション(行為)がこの世になって結果を引き起こしている、としか考えようがないのです。

 こちらは、論を通して前世や過去世のあるなしを検討しています。
 じゃあ両親はどういう位置づけになるというのかといえば、私たちがこの世に生まれるという結果を引き起こすのに手助けした存在(縁)に該当するのです。

 ところで、私たちは過去世とか前世と聞いても連想するものは、過去世はエジプトの女王だったとか、戦国武将の足軽だったとか、その程度でしょう。
 ところが、日本の思想界から絶大な支持を得ている『歎異抄』には、私たちの連想と桁違いの生命観が書き残されています。(弟9章)
> 久遠劫(くおんごう)より今まで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、
 さすがは思想書。難解な言葉がたくさん使われています。とてもすべてを説明することはできませんが、「久遠劫」だけは説明させてください。

 「劫」とは、時間の単位です。一劫は4億3千2百万年を言います。
 とすると「久遠劫」となると、気の遠くなるような遠い昔何億年×何億年。これほどの期間を『歎異抄』は問題にしていることが分かります。
 確かに、結果には必ず原因があり、その原因を結果と見てさらに原因を追究する、ということを繰り返していけば、私たちの生命は始まりのない始まりからこの世まで続いていると考えてこそ自然です。

 そう申し上げても、「前世があるとは思えない。だいたい、記憶がないではないか」と反論される方が非常に多いでしょう。
 それでは、私たちの幼少時代の記憶はありますか。なければ、私たちには幼少期はなかったというのでしょうか。記憶がないことをもって存在しないことの証拠とすることはできないのです。

 結局、何が言いたいのか。そして、何が目的で過去世や前世の話をしたのか。
 過去世があるということより、私たちははるか昔から「囚人のジレンマ」ゲームを気づかぬうちにプレイし、今もその真っ最中にいると知らされます。はるか昔から続いているという生命観に立ち、正直に生きる大切さを知っていただきたいのです。
 どうしてワタシは、日本に生まれたのだろう。
 どうしてワタシは、昭和や平成の時代に生まれたのだろう。
 どうしてワタシは、このような体を持って生まれたのだろう。

 この疑問を科学的思考に立って「原因」を追究しようとして真っ先に思いつくのが、両親が「原因」だとする考え方です。

 ここで忘れてはならないのが、原因が同じならば結果も同じ原因が異なれば結果も異なる、ということです。もし両親が「原因」だとすると、同じ両親(すなわち同じ「原因」)から生まれてくる子ども(すなわち「結果」)は同じでなければなりません
 現実はどうかと言えば、私たちもよくよく思い知らされているように全く違います。

 そこでこんな反論が出てきそうな気がいたします。あくまでも両親は「原因」ではあるが、その時その時の両親の状態が違ったために、きょうだいに違いが現れるのではないか。

 その時その時の両親の状態とは例えば、年齢や、体調や、仲の良し悪しであります。
 母親が、初産の後になってタバコの味を覚えて喫煙するようになった。妊婦になってもなおタバコはやめられず、その中で子どもが育っていった。きょうだいの間で違いがあってもおかしくありません。
 経験則で、第1子と第2子以降とを比べると、第2子以降のほうが成長が早いと言われます。理由と考えられている説を語るのは割愛させていただきます。

 なるほど、きょうだいの間に違いが現れても別に不思議なことはありません。しかし、それでも拭い去れない疑問が残るのです。しかもその疑問こそが最も不可解なのであります。

 どうしてワタシは、よりによってあんな優秀な兄の次に生まれたのか。
 どうしてワタシは、よりによってあんな美人の妹の前に生まれたのか。

 この疑問を言い出すと、今まで腹底に閉じ込めてきた疑問まで次々と噴き上がってくるに違いありません。

 どうしてワタシは、金持ちの家の1つ隣の貧乏な家に生まれたのか。
 どうしてワタシは、この度の就職氷河期の再来と重なる昭和末期に生まれたのか。
 どうしてワタシは、日本という窮屈な国に生まれたのか。

 もう一度立ち止まって考えてみましょう。
 両親が「原因」という考え方は、ワタシとはこの肉体のことだ」とする考え方と強く結びつく気がします。

 そういえば、医学の進歩により、皮膚の移植・臓器の移植が可能となりました。このままの進歩が続けば、肉体の各部位をそっくり丸ごと別人のそれと取り替えることができるのではないでしょうか。あるいは人工臓器などが製造され販売される時代が来るかもしれません。
 心臓はトヨタ社製品、脚はミズノ社製品、大事な顔は近年の成長が著しいサムスン電子社製品。
 こんなふうに選ぶのならば、それらの製品を選ぶワタシがいるのです。つまり、肉体とは別にワタシがいるのです。ここから言えることは、ワタシは肉体ではありません。

 ということは、どういうこと? そういうことです。
 どうしてワタシは、日本に生まれたのだろう。
 どうしてワタシは、昭和や平成の時代に生まれたのだろう。
 どうしてワタシは、このような体を持って生まれたのだろう。

 私たちがこの世に生を受けたことについて、なぜ、どうして、と疑問に思うことはないでしょうか。

 思えば、世間の様々な科学的学問が、なぜ、どうして、という疑問を出発点として、「結果と原因の関係」を徹底的に追究して発展しています。
 このことを考えると、私たちがこの世に生を受けたことについても同じように「結果と原因の関係」をとことん突き詰めて考える、これこそ科学的な考え方と言うべきでしょう。

 そこで大事な思考は、両親がいて私たちがいるということです。

 私たちが誕生したのは両親がいたからにほかなりません。どちらか一方だけでも欠けていれば、私たちはこの世に生を受けることはなかったのです。当然至極のことと思われる方もあるでしょうが、とても重要な視点ではありませんか。
 ワタシがこの世に生を受けた、というのも1つの結果です。このワタシがこの世に生を受けた」という「結果」に対する「原因」は、両親ということになりそうです。

 ここにさらに、しいて付け加えることがあるとすれば、「原因」だけがあっても「結果」は現れず、結果として現れるような環境や条件(「縁」といわれるもの)も揃って初めて「結果」が現れる、ということです。
 とすれば、世界のほとんどが男尊女卑もしくはそれに近い考えを持っていますので、「原因」は父親、「縁」は母親、そして「結果」として私が生まれた、と考えるのが無難なようです。
 もちろん、「男女平等」、「母親の血肉を頂いて生まれてきた」という点を重視して、「原因」は母親、「縁」は父親、そして「結果」として私が生まれた、と考えても悪くはありません。

 ところがせっかくこのように考えたにもかかわらず、納得の行かないこと説明がつかないことがあることに気づきます。

 「原因」が同じならば「結果」は必ず同じになる。「原因」が異なれば「結果」も必ず異なる
 例は極端かもしれませんが、炭素を高温高圧の環境に置けば人工ダイヤモンドができます。ダイヤモンド1つ1つにつき原子配列が異なることがあるでしょうか。

 つまり、同じ両親から生まれた子どもは、この考え方によると「原因」が同じなのですから同じ「結果」すなわち同じ子どもになる、ということになります。それはもう、性別も、身長も、好き嫌いも、賢さも、ルックスも、何もかも同じでなければ話が合いません。
 ところが現実は、きょうだいがいる場合はよぉ~く分かっていらっしゃると思いますが、性別が違うこともある、五体満足で生まれてくる子もいれば障害を持って生まれてくる子もいる、器量のいいように育つ子もいれば悪い子もいる、学力優秀に育つ子もいればとんとだめな子もいる。
 いくつか同じところもあるでしょうが、何もかも同じになったためしがあるでしょうか。DNAの違いは決定的と言えるでしょう。

 ということは、「原因」は父親で「縁」は母親、あるいは、「原因」は母親で「縁」は父親、という考え方は間違いのようです。つまり、別のところに「原因」を探しに行かなければならなくなってしまいました。

 え?別のところに探しに行くのはまだ早い、という反論があるみたいですので、次回聞いてみましょう。