一部ネタバレを含みます。

ネタバレが嫌だなぁ…と言う方は読まないようがいいかも?


人気作なだけに、読みたくはなかった。


あまりにも人気作品で、そうなると捻くれていつもなら読まないことを選択する本。

何日かかけて読んだ、『寂しい夜にはペンを持て』という本。


書くという本だということ、それから装丁の綺麗さに

思わずネットショッピングのカートに入れてしまっていた。


買ったからには、届いたからには真っ先に読もう。

そう決意した5月下旬。

調べてみたら、6月上旬だと思ったら5月下旬だった。

7月には入ってまもなく中旬。

そういえば、最近読了できた本すら記憶にないほど本を読めていなかった。


全部を読み終えた今、何だかとても自分という生物がいたたまれなく恥ずかしく、

また、タコジローとおじさんの物語に涙がじんわりと浮かんだ。


40歳も過ぎたからなのだろうか、随分と涙もろくなった。

はたまた先週の慌しかったスケジュールで疲れたのか、またそのどちらも当てはまるのか。


これはきっと、泣ける本ではない。多分、ない。

今の私という「個」にとっては、

本の中のおじさんという存在がいるという時点で、タコジローが羨ましいと思った。

詳しく書くと、過去を思い出して酷いと発狂したりしてしまいそうになるので、

それは、読書記録をしているノートにでも書くことにしよう。





裁く。


私は寂しくなくても、寂しくても、ペンを握っては書いていたけど、

そのほぼ全てと言っていいほど、日記ではなく思考を書いていた。


書いている思考は、あれは良くて、これはだめ。善と悪が潜んでいた。

そして同時に、自分のことを棚に上げる時もあるけど裁くという行為でしかなかった。

タコジローのように、素直な文章、素直な日記を書くことではなかった。


だから今でも私はひどく澱んで、にどく濁って、そして土砂の混じった雨水のように、

一定の決まった大きさのテリトリーから抜けられない。

正直にいうと、世間やら社会やら大きな組織や概念がまだまだ怖い。


だからって裁いていいわけではない。

ノートにひとしきり書いたあと、いつも「最低だ……」と思いながらノートを閉じていた。

日記もうまく書けない。

こうして、文章や形に残して表現するのは実は苦手でもある。

誰かに見られるなら、増して苦手だなぁという意識が湧く。


最低だ…と、ノートを閉じるくらいなので、自分のことはもれなく嫌い。


だからこそ、本を開いてすぐのページに書いてある言葉にはぐっと引き込まれた。


『ぼくは、ぼくのままのぼくを、好きになりたかった』


この間、縁あって手元に来た絵本も似たようなことが書いてあった。


ありのままの自分を好きになる。

素の自分、本当の自分を赦す。


私も、好きになれるなら、好きになりたかった。自分という生物を。

だけど、きっと小学生の頃からだろう。

自分という個を否定した。生まれなければよかったと。


その頃から、本が唯一の友達で。

その頃から、1人で遊ぶことしかできなくなって。

周りの女子がきゃあきゃあと遊んでたり、騒いだりしているのを、

濁った目でぼんやりと見ていた。


そして、自分だけのノートや手帳を買ってきて、自分や人を裁いていった。


一方で、この本はそんな私がモブキャラとして存在していた。

タコジローを何となくという理由で、

ゆでタコジローと揶揄するクラスメイトの中の誰かは明らかに私だった。


タコジローは負けなかった。

おじさんやイカリくんが居たから。


……強いな、すごいな。タコジロー。

私にはそんなことはできないから。


おじさんからの手紙。


本の巻末にはおじさんからの手紙が袋とじでついていた。


「もしも書くのが止まってしまったら、これを開けるように」

という言葉が書かれている。


中身は開けてない。

タコジローのように、日記にチャレンジして書けなくなったら開けようと思ったから。


おじさんと約束した10日間。

その10日、まずは書けるかどうか試してみたい。


ほぼ家にいるので、書くことは少ないかもしれない。

それでも、何かは日々起きる。


いつもなら、読了して記録も終えたら手放しているんだけど、

もう少し、この本は手元に置いておこう。

きっとタコジローが助けてくれる。

巻末のおじさんからの手紙も、何が書いてあるかはわからない。

書けなくなったら、封を開けて読もう。


まずは、今日からだ。