先日、越生梅林へ行った時、近くに道灌橋があると知って行ってみました。



イメージ 1
イメージ 2















道灌橋を渡ると、健康寺があります。

イメージ 3
健康寺(ケンゴウジ)入口には、「太田道真退隠地」の案内板があります。

イメージ 4
画像がボケボケで読めない。ショボーン
ここ小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒の跡地と推定されます。


太田道真は道灌の父で、当時武蔵国を支配していた扇谷上杉氏の配下でした。
上杉持朝を補佐して河越にいましたが、1455年、家督を道灌に譲り、
1461年、越生町小杉のここ健康寺の境内に隠居したと伝わります。


イメージ 7
龍穏寺の太田道灌像
(川越城大手門跡や他にも太田道灌の像があるそうです。)

太田道灌(1432-1486)は、上杉家の宰相太田道真の子として生まれ、室町・戦国時代に上杉持朝・定正に仕え、家宰としての幾多の合戦を生き抜いた知将です。

粉骨砕身の活躍したにもかかわらず、主君扇谷上杉定正が山内上杉の策略にのって、糟屋(伊勢原市)屋敷に道灌を招き謀殺してしまったんですね。

道灌は寄居の鉢形城主・長尾景春の乱でも大活躍してます。
いずれ長尾景春を取り上げた時に書き込みたいと思います。

道灌は父道真とともに江戸城・河越城・岩附城を築いたことでも名高いですね。
(岩付城については成田氏の築城という説がある。)

イメージ 8

イメージ 11
龍穏寺には道真・道灌親子の五輪塔があります。

イメージ 5


「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」

この歌は太田道灌が詠んだものではなく、兼明親王という人が詠んだもので、
平安時代の勅撰和歌集である後拾遺集に収録されています。 


 太田道灌がこの歌と出会うのは、狩に出たおりに雨に会い、農家で蓑を借りようとした際、 農家の娘が八重山吹の枝をもって断ったが、太田道灌には何のことやら分からず憤慨していたところ、中村治部少輔重頼という家臣が、
この歌の存在を太田道灌に教えた・・ ということになっています。

ゆかしかりしかどさんからお借りしたイラスト


太田資正(1522-1591)は、太田道灌のひ孫にあたります。
兄の資時と川越夜戦前後に対立し、兄が急死すると岩付城主となった。

1564年、資正と二男政景が岩付城を留守にしたとき、嫡男の氏資が城を占拠し、父と弟を追放した。これは後北条氏が岩付領を支配下に置くために兄弟の不仲を利用したとも言われている。

イメージ 6
(私じゃないですよ)
岩槻城址にも山吹の花が沢山咲いてました。

岩付城を追われた資正はのち、常陸の佐竹義重の客将として片野城主(石岡市)となった。かねて同盟関係のあった上杉謙信、武田信玄、織田信長、徳川家康らとも結びつきを強め岩付城復帰をひたすら願いながら片野城で70才の生涯をとじた。

太田氏資(??-1568)は、父と弟を追放し、1564年岩付城主となった。
北条氏康の娘と結婚し、初め資房と名乗っていたが「氏康」の氏を与えられ、氏資と改名した。1567年上総国で里見義堯・義弘らとの合戦で討死した。
この時氏資は25才で残された女子が北条氏政の二男氏房と結婚した。
結局、岩付城は後北条氏の手に落ちた。

資料・中世武蔵人物列伝



そして時代は流れ、
後北条氏も秀吉につぶされ
「真田丸」の時をすぎ
徳川の時代になるんですね。


以上

お付き合いありがとうございました。

(^_^)/~