ほんとうの愛は、人を縛らない

 

 

 あるとき、ある女性がいいました。

 

 

 

信じられる愛とは、飼っている犬の愛だけですと。

 

 

 

続いて、このように説明しました。

 

 

 

「私の犬は、いつだって心からうれしそうに私を迎えてくれるし、さわればよろこびます。

 

 

 

腹を立てることもないし、必要とするときそばにいてくれます。

 

 

 

どんなときでも、私のことを思ってくれているんです」

 

 

 

 これはどう考えても問題発言です。

 

 

 

彼女のそばにいた人間が、彼女に愛をはっきりとわかるようにあたえそこなったのでしょう。

 

 

 

 

 人間同士の関係では、そのような犬がえがき出すような無条件な愛は、ほとんど見られません。

 

 

 

そのため私たちはしょっちゅう不安にかられもします。

 

 

 

「身近にいる人たちに、ほんとうに愛されているのでしょうか」と考えたりしてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 愛は、それ自体、つかみどころがない複雑で個人的な感情、と言えます。

 

 

 

ですが、たしかにそうだけれど、言葉は愛しあうふたりに必要なのではありませんか?

 

 

 

愛の表現は、ひとりひとりまったくちがいます。

 

 

 

ちがうからこそ、愛は人生のなかでいちばん強い力をもち、いつまでも滅びることがないのです。

 

 

 

 愛は、人生と同じように広範囲だから、こういうものだといい切ってしまおうとすると、どうしても無理が生じてきます。

 

 

 

 とはいっても、愛が語れませんかというと、そのようなことはありません。

 

 

 

語っているうちに、愛の輪郭が少しずつ見えてきます。

 

 

 

 

 どうすれば、ほんとうに愛されていることがわかるのでしょうか?

 

 

ひとりひとりがそれぞれの関係で感じとるしかありません。

 

 

 

断っておきますが、愛されているとき、手応えのようなものはあります。

 

 

 

相手は、私たちがありのままの自分であることをよろこびます。

 

 

 

相手と同じであることを、期待しません。

 

 

 

私たちが自分なりの考えをもち、夢をもち、個性をみがきながら、未来にむかって成長していくことをよろこびます。

 

 

 

人に依存せず、自由であることを願います。

 

 

 

相手に従ったり、不安を抱いたりすることを望みません。

 

 

 

そういう人は、自分をすっきりと生きさせてくれます。

 

 

 

その人はまるで、危険に挑戦するかのように、私たちを励ましてくれます。

 

 

 

私たちがそばにいてほしいと思うとき、苦痛をやわらげないまでも、ちゃんといてくれます。

 

 

 

 また、すすむべき道をあれこれと考えるのにも力をかしてくれるでしょう。

 

 

 

そして、成功すればともによろこび、失敗すればなぐさめてくれるでしょう。

 

 

 

そのような人というのは、恋人だけに限らないで友だちにもいるでしょう。

 

 

 

そうです、いつも誠実で、不完全な私たちをそのまま受けいれてくれる人です。

 

 

 

支えてもくれるし、いつもそばにいてくれます。

 

 

 

 私は、恋というのは成長しながら、からだを合わせていくものだと思います。

 

 

 

恋は一方の人間の考え方や要求だけで左右されるものではないと思います。

 

 

 

どんな愛情にも、最低ふたりがかかわっているわけです。

 

 

 

だから愛の表現は、人間が信じることのできる基本的なものです。

 

 

 

いつでも自由に愛が表現できれば、ふたりの関係はさらに強くなり、さらに内容の充実したものになるでしょう。