空間の詩学
ガストン・バシュラール
岩村行雄訳
より冒頭抜粋引用。
このようなコトがまるで永遠のようにとくとくと書き連ねてあり、でもこの冒頭だけで全てが把握できるような気がしてくるので、冒頭の数頁からなかなか進まない。
もう二十年も開いては数頁読み、蛍光ペンで理解しやすいように印をつけ、赤ペンで更にラインを引く。
そして暫くそれさえ忘れ去り、何年か過ぎる。また思いつけては開き、また冒頭から読み、数頁で終わる。
同じ冒頭をもう二十年近くも繰り返し繰り返し読んでいるだけ。
たまに頁を何枚も飛んで読んだりもする。
大体言いたいことは冒頭と同じような気がしてくる。
詩の哲学が存在するならば、それは内在する知識は通用しない。何にも縛られない自由で単純で素朴で瞬間的に潜在意識に眠る魂の呼び起こすようなイメージであるということ。
私にはなかなかそれができない。
つい答えのようなものを求めようとするから。
まさに陽水さんの「少年時代」が、きわめられた詩学の理想のように思えて、今一番の学びがそこにあります。
続く
今、たまたま開いた頁197〜199に、
植物学者の夢想、ミニアチュールの世界があり、詳細な花の内部の仕組みの記述について触れ、花の細部の仕組みに、ひとの夫婦や子供、或いは居心地の良い住まいやハンモックが見え調和のとれた形状から住まいの快適さを推論することに触れていた。
「ミニアチュールの中にはいりこみ、そしてたちまちイメージが膨らみ、成長し、逃走し始めた。大きなものが小さなものから出ていく。一切の大小の拘束からの開放によるものであり、これこそ想像力の作用の特注にほかならない」とある。
『キリスト教植物学辞典』の「つるにちにちそう」の項には「読者よ、つるにちにちそうをもっと仔細に研究されよ、そうすればいかに細部がその対象を大きくするかが明らかになろう」とある。この拡大鏡を手にしたひとは、重要な二行のことばのうちを表現している。かれらは我々を客観性の知覚点に導き、ひとの目に止まらぬ細部を受容し、これを支配すべき瞬間に導くのだ。
とある。
たまたま何年も撮り続けた日々草とその蜜標について。
無意識に触れていた小さな小さな植物について。私は無意識にその小さな植物から大きなものが見える拡大鏡を手にしていたのだと思うと、何ものかに導かれるものはあったのかも知れないと想った。
そこに意識は存在してなくて、ふいにしゃがみ込む。本当にそこに在り、目に触れて心が無為に動き、小さな小さな花に這いつくばるほど夢中で写真を撮る。確かにそこから膨らむイメージは、小さな小さな花から大きなものが出ていくイメージがします。
素晴らしい花の姿や形状や細部に渡る完成されたその仕組みには、人には想像すらできない神の計画であり創造物であろうと感じることは常々描いてきて、自然の仕組みに人は学ぶべきことが沢山あろうということを感じて止まず、それは猫の生き方にも在り、私はこの小さな生き物に実に沢山のことを教えられた。
旧ブログのほとんどが猫との生活から生まれた温かくて優しい愛情からだったようにも思う。
日々草について、色々描いてきましたが、観た姿が単純で精密で緻密でありながら、世界のいきとし生けるもの全ての営みとサイクルの中に、正しく綺麗に見事に収まっている感じがして止まない。
中心に色を染め、蜜の在り処をミツバチに知らせる。ミツバチは確かにその蜜標を狙って蜜を吸い、花粉を身に着け、行くべき場所に行くのだから。
人が、今つまらないいざこざやつまらない井戸端な話に終始するよりも、遥かに重大な仕事を成しているのだと想うと、小さな可愛い日々草から確かに雄大なものが出ていく。
たまたま。私は無意識にそうしていた。
こうして、今日たまたま無為に動いて、久し振りにまた本を開き、そのことに無心に入り込み、我を忘れて触れると不思議なことが起こる。
そういう心理状態の時にはいつも不思議なことが起こり、素晴らしい瞬間に出会えたりする。
私はそれを何か大きなものによる導きと思ったりする。
何が現実かということは様々だと思うし、安心でき居心地の良い家庭さえ在れば他に何も要らないと思っても、人間の物質的快楽的欲望の際限はきっと止めどないものだと思うから、必ず何かしら常に不満が湧くような気がする。
でもこうして何かしら内側から表現しようとする欲望については、目の前の現実の世界の中に在ってもそこにないから。例えば山頭火のように貧しくても足るのだろうと思う。
続く
太宰の生前の失敗は、プライドと快楽への欲望であったかも知れない。
売れたい。賞が欲しい。売れない。賞も取れない。俺の何が悪いのか、誰の何とかはつまらない、何故これだけ描いて俺は売れないのか、描こうとしても描けない、また描いては駄目になる。
常にそういう欲望が渦巻いて、常に満たされない何かしらの不満や自己嫌悪に満ち溢れていたのではないかと思うし、私は思春期にそのことに救われてきて、駄目でいいんだと思えて、生き方が楽になれた。
生意気かも知れないけれど、逆に太宰没後今現在に太宰の存在感や感性や才能は、そういった満たされない何かしら、人間誰しもが持つ欲望や不満や苦悩が正直に記されている人生辞書のようなものとして開花しているのではないかなとも思う。プライドは高くても誇大していなくて、自分のプライドとそれに伴わない詳細な駄目人間として正直だと思う。
命ほとばしり、命を削るようにして描いているのが伝わる。目に触れて感じる全てを詳細にパノラマに出し切るイメージがする。何故太宰は芥川賞が取れなかったか。私は世間の嫉妬ではないかとすら思う。
こんなに正直な作家はいないと思う。何故そこまで駄目になろうとするのかと思うほど。
空間の詩学
ガストン・バシュラール
287頁〜289頁
ミシュレとリルケの比較
ミシュレ
ほとんど完全な球形の島は、たしかに活撥な集中の神々しい崇高な頂点 である。これ以上高度の統一をみることはできぬし、想像することすらもできない。極度の集中、それは島のそれぞれの大きな力となるが、しかしその過激な個性とその孤独と、その社会的弱点を含んでいる。
これをバシュラールは「何の脈略もない瞑想の水位に達している」とある
リルケの詩
……………
それにもかかわらずまるい鳥の叫び声は
それをうんだ この瞬間に
枯れた森の空のように ひろびろとやすらう
一切のものが 従順に この叫び声の中に滑り込み
風景全体が 音もなく その中によこたえているようだ
「このイメージの宇宙性をうけいれられるものにとっては、リルケの詩にあらわれた鳥の本質的な中心イメージは、ミシュレの文章と同一のイメージであることがわかる」とあり、
私には、本人にしか深層にある意味や感受性は理解できないというイメージ。
それが詩学というものであろうというイメージ。
そこには何の一般的に通じる答えはないし、その必要もなく、むしろ社会的な答えを持っては成り立たない瞑想の水位というものを言っているのだろうというイメージ。
仮に常にこのような感受性を目の当たりにして訴える恋人が居たなら私は狂人となるに違いないとなる。
たから私は、表現をしない時は、ほとんど馬鹿であり、無知であり、空っぽに近い。
しかも表現の集中は30分しか保たないから、小説を描く時に、途切れ途切れ休み休みに一日集中する以外、一日にひとつ表現するとしたら、一日のうち23時間30分は馬鹿であろうということ。
そうでないと心身も保たないし、完全に狂ってしまうだろうという領域。それがバシュラールの言うところの詩学というイメージ。
リルケにしても、どんな著名な詩人にしても、大体そうなんじゃないかなと思う。アインシュタインが子供のような馬鹿な真似をするように。
でないとゴッホのように耳を切り落とし、太宰のように薬に溺れて入水したくなってしまう。
空っぽにしないと新しいイメージが湧かないというのもあり。でも空っぽにして表現したものを忘れるのではなく、何もしなくても自然に脳や引き出しの何処かにきちんと収められ記憶として積み重なっている。「一旦全て忘れる」に近いけれど、決して忘れてはいず、紐解くように随所でまた蘇る。温めて眠らせておくという感じ。
20代の頃に描いたものが、ふと鮮明に蘇る時さえある。
だから2007年ネットでブログやTwitterやFacebookなど始めて今まで、あらゆる所のいつの何処の何から誰が片っ端侵害しているか、一瞬ひと目ですぐ解る。記憶の引き出しが一斉にパタパタパタパタと次々開いて示してくれる。それを検索にかければ、毎日毎日その膨大大量の一致の答えが全て出てくる。
その記憶を辿ることにもの凄く集中して、頭の中に一気に記憶が溢れ出すので、一回の侵害が120を超える全文一致侵害など有り得ないことが起こると脳が破裂しそうにパンパンになり、脳の混乱が大きくて一切何らイメージなどできなくなる。それも狙いのひとつであろうと、一連を視ていて皆に通じる。
また丁寧に侵害を保全しなければ、相手は知名度を利用してばらまいているので、全ての記憶が消えて障害を起こしそうにパニックになる。それも目的のひとつだと明らかに判る。知名度を悪用して、また本当に縦横無尽に大量なりすましまで使ってばら撒きまくる理由はなんですか?分かりきったこと。個性を全て奪いばら撒き個性でなくして記憶にパニックを起こさせて何もできなくさせること以外にない。薬害何処異常怨念による。それしか有り得ない。
余談が入りましたが(爆)。
今日少しお勉強をしたので
明日それがどのように反映されるか
またひとつ描いてみようと思います。
楽しみ。
お休みなのでまた三口飲み(°∀°)b
こめかみ脈打ち
目が座り少しくらくら
気持ちいい(笑)
癖になったらどうしよう。
おやすみなさい☆
明日また素敵な一日に
なりますように。
HAPPY!
春風
ただのお勉強です。
意味よく判ってないので。
詩学まで
思考を縛る
哲学になってしまうから。
それさえなくさなきゃならない
という詩学な訳だから。
ただ知ったことで
知らないことよりは
イメージの幅は広がる気もする。
言葉の量は思考の幅で
イメージの量は表現の深さだと思ってる。
辞書を読んだり
猫を眺めたり
空の日毎の時毎の
千変万化を仰いだり
季節の移ろいを感じたり
花を愛で慈しんだり
自然を感じたり
そういう学び。
1/7 20:34 追記
日が一番短い冬至から5日目の夕陽。
後は少しずつ伸びていくだけ。
久し振りに僅かに間に合った日。
もう落ちかけて
微かに滲んで溶けて
青から橙へゆっくりと
色の層を作り
やがて空は紺碧に染まる。
1712271715
最近は丁度この方向に
黒い雲が覆っていることが多く、
もうこの日から一日一日
また日は伸びている筈だから
綺麗な落ちかけの色に
間に合ってはいる筈なんですが。
なかなか逢えずにいて、
少し寂しい。
また。
画像が途切れていたので
追記しました。
今日は18:30には帰宅。
最短帰宅です。
近年の自分から信じられない。
旧ブログの頃のずっと以前は
毎日急ぎ足で帰っていたのが
あまりに色々あり過ぎてから
どんどん足が重くなり
寄り道したり
写真を撮ったり
気持ちを切り替えるまで
のろのろとして
つい遅い帰宅になって。
今日はもう買い物も最短で済ませ
また以前のように
急ぎ足で帰る自分が嬉しかったり、
にゃんずが三匹揃って
いつになく歓喜してくれて
嬉しかったり。
真面目。
どうぞぬくぬく温かくされて
素敵な夜を☆