国際会議において、日本人には意見がなく主張しないとよく言われるが、本当であろうか。日本人が留学等で海外へ行き、アメリカ人のような多国籍なメンバーで自由に議論をした際、最後に至るまで発言しないことがしばしばある。
多くの日本人が同じ問題に面する。そういった場合、原因は語学力の欠如や、国際標準形態への適応能力が未熟であるなど、自らを悲観することが多い。
しかしこれは大きな間違えである。根本的な原因は日本の議論の形態とアメリカの形態が異なることである。更に言えば、議論の効率性、発言機会の公平性を考えれば、場合によってはむしろ日本の議論形態こそ国際標準として採用すべきという考えもある。
日本の議論の形態は、議題・論理展開の一貫性、発言機会の平等性を重視し、実に効率的に出来ている。これは日本人の初等教育が生かされているからである。日本の初等教育、小学校において、議論をしたり意見交換したりする際、発言する場合には手を挙げて発言許可を得て、発言者は聞き手が静かになり聞く準備ができて初めて発言することが出来る。聞き手は発言者がしゃべっている間は、静かに聞くことに集中しなければならない。これらのことが出来ていない場合は、教員は注意するだろう。日本人は初等教育が充実しており、この効率的な形態は日常にまでいきわたる。それほど正式な議論の場でなくても、集団で話している際、「ちょっといいですか?」、「言ってもいいですか?」と反射的に全体に対して発言許可を得てから発言する場合さえある。また、積極的に意見を言う人もれば、一通り人の意見を聞き終えた後に発言したい人もいる。そのため、ある議題についてまだ意見を述べていない人がいる場合、その人が積極的に発言機会を得ようとしていないにもかかわらず、あえて他の人がその人に何か言いたいことはないかと問い、しゃべってもらうこともある。
しかし、アメリカでの自由議論形態は異なる。毎回全体に発言許可を得る必要はなく、思いついたことを思いついた時に発言する場合が多い。時には、人がしゃべっているときに、最後までしゃべり終えていないにもかかわらず妨害してまで発言することもある。積極的にしゃべった人が発言でき、そうでない人は最後まで発言しないことは普通である。思いついたことをその都度言い放つだけなので、議題・論理に一貫性がなく、議論は散漫となる可能性がある。
これらの日米の自由議論形態の違いによりある現象が生じる。発言許可を反射的に求める日本人は、暴走するアメリカ人を前に発言機会は得ることが出来ず、散漫とした議論を理解しようと必死に聞くだけになることがある。
その他に、表現方法にも決定的に日米の違いがある。日本の他者協調型と、アメリカの自己主張型である。ある議題に対する答えとして、自然科学分野の一部のようにある問題に対して唯一絶対の正解がある場合があるのと対照的に、人の価値観の多様性、多様な観点があるために、あらゆる考え方が可能であり唯一絶対の正解がない場合がある。
日本においては、議論する際は相手と協調して話すことに努力する必要がある。もし正解のない議題に対して話している際、相手とは相反する意見を持っている場合はよく起こる。その時、相反する考えを述べる表現には細心の注意が必要である。相反する意見を直接的・明解に述べると、敵意を持って相手の価値観・観点を否定しているように聞こえ、相手に不快感を与えて人間関係に深刻な悪影響を与える可能性があるためである。そのため、相反する意見を述べる際は、表現方法を変え婉曲的であったり、当たり障りのない程度のみしか述べない人が多い。中には、自分の本来持っていた意見を隠蔽し、完全に相手に同調してしまうことさえある。
アメリカではむしろ、相反する意見を述べると賞賛されることがある。正解のない議題に対して様々な考え方があっていいし、色々な価値観・観点からの意見を共有することは興味深く、視野が広がるからである。そもそも議論する目的自身が多面的思考力を高めるためであるので、違った価値観・観点からの意見は、新鮮で興味深く、新しい発想・発見を生み出す潜在性があり貴重なのである。
これら日米の違いにより、アメリカ人から「日本人は曖昧で言いたいことが分からない」、「人の意見に同調しかせず、自分の意見を持っていない」とよく言われる。アメリカ人にしてみれば、多様な考えを共有する場で自分の思いつかないような発想を求めているときに、よく分からなかったり、同調されて自分にとって革新的でない発言では興味が沸かない。
公的な場での質疑応答にも違いがでる。よく、講義や説明会において質疑応答の場で、日本人からの質問は少なく、アメリカ人からは多いことがある。日本人は全体の利益を重視する。そのため、質疑応答の場では質問者が背負う責任は重い。参加者全員の貴重な時間を使って質問をするので、質問内容は本質を得た非常に有意義なもので、参加者の大多数にとって有益でなければならない。そのため、質問の内容が全体に有益かどうかが明白でない場合や、個人にしか関係のない可能性のある質問は、集会が終わってから個人的に質問することが多い。そのため、実はその質問が非常に参加者全体に重要であることが後から分かり、集会終了後参加者が退出準備をしている中、緊急に重要な情報がアナウンスされることがしばしばある。
対照的にアメリカ人は何でも質問する傾向がある。自分にしか当てはまらない質問や、時には単に聞き逃しただけで、配布資料にしっかりと明記されているにもかかわらず聞くこともいとわない人がいる。
これらのことは私の主観で真偽のほどは明らかではないし、ひとくくりに日本人・アメリカ人と一般化することもできないが、簡便化のためにこのように表現してきた。
そんな中、私自身興味深い体験をした。私はアメリカ人を含めた討論に初めて参加した際、ほとんど意見は述べられなかった。その体験が悔しく、アメリカ留学も含めて徹底的に意見を述べられるように努力した。人がしゃべっているのを妨害しても罪悪感を感じないよう矯正し発言機会を奪取し、攻撃的なくらい自己主張を強くして自分の意見を主張できるようにした。自分で言うのはおこがましいが、アメリカ留学中は自由討論を満喫して、面白いやつだと賞賛されるにまでに至った。
留学から帰り、日本人同士で自由討論した際、深刻な問題が生じた。日本人からは、過激な表現で文句ばかり放つ厄介な人物。人の意見を聞かない自己中心的な人物であると評されたのである。これらは全て事実であり、私のような姿勢で人と議論するのは日本社会では不適切である。
しかしこれは、私が日本人で、日本語を使用して議論していたから、他の日本人が純粋に評価することが出来たのではないだろうか。もし私がアメリカ人で、英語で議論していた場合、このように評価できただろうか。おそらく、これがアメリカ文化なのであろうと個人の人間性の品位評価までには至らない人が多いのではないだろうか。
私は、友達が出来ないということを人に相談したことがある。その原因には何が考えられるのかを聞くと、「人の言っていることを最後まで聞かないのはまずい」という助言をいただいた。実は、これは私が初めてアメリカ人と自由議論をした際、アメリカ人に対して言ってやりたかったセリフだった。私はその議論中、なかなか発言できない中、頑張ってせっかく喋れたと思ったら、話の途中でアメリカ人に妨害されて最後まで言えず、ものすごい不快感を覚えた。時が流れ、現在自分が人に対して不快感をばらまいている状況に気付いた。
このような国別の違いがある中、我々はどのようにすればいいのであろうか。一つの主張として、「日本人は、始終意見を言わずに、他者の散漫とした発言を収集・整理して最後にまとめるまとめ係になればいい。そうすれば聞き上手だと評価される」というものがある。この議題に対して正解はないので、私はこの考え方が間違いだとは主張しないし、むしろ尊重している。しかし、私の意見としては、日本人にも意見があり、他の国の人に知ってもらうのもいいだろうと思う。その際に立ちはばかるのは、日本人の初等教育による反射である。この反射を矯正しないことには、日本人が発言することは難しい。
しかし、国際標準の自由議論形態とはいったい何だろうか。アメリカ人の形態が基準となるのであろうか。また、現在の国際自由議論形態は合理的なのであろうか。
私は、日本人の発言機会均等性を重視する形態は合理的で、この形態も国際標準のなかの1つとすべきだと思う。そのために、日本人の自由討論形態と、それによって得られる効率性・合理性を世界に発信すべきである。そして日本の形態で議論中に暴走するアメリカ人がいた場合、勇気をもって、
「今は私が話しているので最後まで聞いてほしい」
「待ってください。これについてはまだ彼女の意見を聞いていない。もし彼女に何かあるのであれば、彼女の意見を聞いてみましょう。」
と議論を主導すべきだと思う。
一方、表現方法については日本人側が海外に合わせる必要があるかもしれない。日本人の相手に相反する意見を述べる際の曖昧表現や本来の意見の隠蔽と同調姿勢は、場合によっては不適切なことがあるので注意が必要である。
以上がとりあえず今思いついたことを羅列してみました。忙しい中、散漫とした文章で申し訳ない。時間があれば推敲します。できればこの記事を英語でも書いて、日本人と交流のあるアメリカ人にも読んでもらって、彼らがどう感じるのかについても議論していく予定です。時間があるかは分からないが。
