for my dear 49 | もしも君が迷ったなら

もしも君が迷ったなら

思いついた言葉を詩に。思いついたストーリーを小説に。

莉緒が桐谷家に住むようになって半年が過ぎた。莉緒や母、明子はすっかり溶け込み、幸せな時間を過ごしていた。
最初は同居を渋っていた爽一郎の父、正樹も次第に莉緒たちに感化され、心を和らげていった。どうやら父は莉緒の作る和食がお気に入りらしく、週に一度は必ず作って欲しいと言うほどだった。


父の態度が和らいで爽一郎は安心した。だがもう一つ気がかりなことがあった。
「ただいまぁ。」
修二郎は大学から帰ってくると必ずリビングにやって来た。以前なら、自室に直行していたのに、だ。
「あ、おかえり。修ちゃん。」
莉緒の言葉に、たまたまその日、リビングで新聞を読んでいた爽一郎の眉がピクッと動く。
「お腹空いた~。何かない?」
「あるよ~。」
莉緒はキッチンの方に回り、今日焼いたパイを修二郎に見せた。
「わぁ。うまそー。莉緒ちゃんが焼いたん?」
「うん。焼きたてだから、まだ暖かいと思うよ。」
莉緒はパイを切り分けながら、答える。
「爽一郎さんも食べる?」
「あー、うん。」
莉緒に問われ、頷く。莉緒はそれを聞くと、切り分けたパイをお皿に盛った。そして紅茶を淹れ、リビングに持ってきた。
「いただきまーす。」
お腹が空いていた修二郎は、手づかみで頬張る。
「うまーーー。」
「よかった。」
一方、爽一郎は無言で食べる。
「兄貴、何か言えよ。」
修二郎に言われ、少しムッとしつつもそれを顔に出さないように莉緒に顔を向けた。
「おいしいよ。」
莉緒はその言葉に笑顔になった。


「修二郎。」
爽一郎は部屋に向かおうとした修二郎を廊下で呼び止めた。
「ん?何?」
「何で莉緒ちゃんに『修ちゃん』なんて呼ばせてんだ?」
そう問うと、修二郎はきょとんとした。
「何でって……。」
その瞬間、ピンッと来た。
「兄貴、ヤキモチ焼いてんの?」
顔がニヤニヤしていたので、爽一郎は一層ムッとした。
「そっ、んなことあるわけないだろっ。」
「ふーん。」
修二郎は意地悪く笑う。
「俺が『修ちゃん』って呼んでって言ったんだよ。修二郎なんて呼びにくいからね。呼び捨ては馴れ馴れし過ぎるかなぁと思ってさ。」
修二郎は兄に近寄り、耳元で囁いた。
「兄貴もそう言えばいいじゃん。あと莉緒ちゃんのこと呼び捨てにするとかさ。」
「そっ。」
何だか妙に照れる。
「婚約者なんだし、そうしたっておかしくないだろ?」
修二郎の言っていることは、どこも間違っていないと思うが、どうやって切り出すか、爽一郎は悩んだ。
「ま、がんば。」
修二郎は爽一郎の肩を叩くと、階段を上っていった。


リビングに戻ると、後片付けをしている莉緒が目に入った。
『兄貴もそう言えばいいじゃん。あと莉緒ちゃんのこと呼び捨てにするとかさ。』
修二郎の言葉が反芻し、何だか妙に意識してしまう。
突然こんなことを言うと莉緒に変に思われるだろうなと思いながらも、リビングのソファに座る。
そのうち莉緒は片付けを終え、リビングの方に呼びかけた。
「コーヒーでも淹れようか?」
「うん。」
莉緒はコーヒーメーカーに豆をセットした。そしてこちらに戻ってくる。
「あのさ。」
「ん?」
莉緒に見つめられ、爽一郎は言葉を飲み込みそうになる。大きな瞳に見つめられると、今でもドキドキしてしまう。
「俺のこと……呼び捨てでもいいよ?」
「え?何?急に。」
莉緒は突然の申し出に笑った。
「いや……『さん』付けって呼びにくいだろうなって思って。」
言葉を濁しながら言う。
「でも……『爽一郎さん』で慣れてるからなぁ……。」
莉緒が呟く。爽一郎は肩をすくめた。
「じゃあ……爽一郎さんも呼び捨てで呼んでくれるの?」
「え?もちろん。」
そんな切り返しをされるとは思わなかったので、一瞬間が開いてしまったが、頷く。
「じゃあ、お互い呼び捨てで……。」
照れているのか、莉緒は目を伏せながら答えた。
爽一郎は口の端が緩むのが、自分でも分かった。