1967年に生まれた。その前は母の胎内にいたのだろう。その前は何処にいたのか。何処かにいたのか。そもそもいなかったのか。いつか脳の機能の不可逆的停止による、人の決めた臨終のそのあと、また生まれる前の状況に戻るのだろうか。宗教をまるで信じないわけではない。輪廻をことさら否定しようとも思わない。ただ50代に入って、祖父母や曽祖父、曾祖母、高祖父、高祖母が気になりだした。未婚で子供もいない。ただ両親の血を半分引いている、親戚が居る。長く勤めたことがない。それが原因だとは断言できないが精神障害がある、

 

 言い訳を考えているわけではない。裁く権利は、啓示宗教のその宗教の信者にとっての神だけ、と思っている。日本の刑事司法を信頼しきっているということはない。冤罪は確実に存在すると思っている。裁くことはできないとしても、憎むことはできる、許さないという選択はありうる、例え、実行しないとしても。へたれではあるが、憎まれていないとも思っていない。

 

 コロナ以前から外出を控えるようになった。交通費が嵩む、相互理解は喜びではなく、人間関係というものがもつ、多少のネガティブな、そして必須の気遣いだと思う。ただし必ずしもそれは成功しない。必ずしも成功すると限らないなら、バカバカしくてやっていられるか!、というレベルに既に達している人もいるだろう。ただ、いい友人もいた。完全に絶望するだけの理由はそこにはない、

 

 二十歳を過ぎても四人の祖父母は元気でいてくれた。人を憎み運命を恨み、神を呪うなどという物騒なことも、結構よく結構長く考えていたが、両親を育てた祖父母がとても懐かしい。日本人は遠くの血縁より近くの他人との関係を大事にすると聞いたことがある、大阪と岩手は遠かった。何人かの叔父や叔母に迷惑をかけ、しかもそのあとも相談にのってくれさえした。

 

 ただしどうしても許せない人間は他人にも血縁にも存在する。今、この瞬間にも何人か数えることができる、その中には故人さえいる。そしてそれが業の深いことなら地獄に落ちてもいいと、これはやや無責任にそうも考えてもいる、それはあのよもこのよも地獄のようなものだとおもっているからだろうか、

 

 それでも祖父母を思い出すと、心が安らぐ。写真をノートにはりつけて眺めている。もっと会いに行ければ、と後悔する。東北の気仙は明治、昭和戦前、昭和戦後、今回の東北大震災にみまわれた。祖父母の中で最後に逝った母方の祖母は東北大震災の前の年に亡くなった。震災の年、その祖母の息子で母の弟にあたる叔父が被災して゚亡くなった。叔父は母親(祖母)に息子が先に逝く不幸をしなかった。気難しい人で何度か遊びに行っていいかと電話で話した。そんなある日、若い女の子が電話にでた。叔父の娘さん。従姉妹だった。従姉妹とはなしをしたのは今のところ、それが最初で最後だ。明るい声だった。

 

 東北太平洋岸沿岸部には、明治以降にも、明治、昭和戦前、昭和戦後のチリ地震津波、91年をあわせると4度も被災している。母方の祖父、父方の曽祖父は漁師だった。海は海山物の宝庫。近海漁業専門だったらしいが、幼い頃に母方の祖父に漁に連れて行ってもらったことをよく覚えている。黒く日焼けした明るくて茶目っ気のある人柄は、アニメの宝島に出てくるシルバーのようだった。かっこよかった。祖父の父親は村の村長をしていた。神経をすり減らすようなことも多かったのではないだろうか。父方の祖父も簡単には触れられないような苦労をしたと、父から聞いた。父方の祖父は晩年、半年、病院で寝たきりだった。

 

 今年9月がおわれば、私が生まれた時の父方の祖父の年齢まで、一年をきる。宗教にはネガティブな関心もポジティブな関心もある。『天地の辻』という中上健次関係のサイトがあった。可能なら、そのような『天地の辻』のような場所にいってみたい。父方の祖父の名前は健吉、母方の祖父の名前は次郎、健次という名前は両親がつけてくれた。母方の祖父は長男でもないのに健次はおかしいと思ったのだろう、筆まめな祖父のはがきの私の名前は健治だった。とうとう最後まで、じいちゃんの名前から一字もらえたことがどれだけ嬉しかったかをさえ、伝えることができなかった。

 

 津波の間に戦争のあった時代の日本の東北に生まれ、それぞれ漁師と大工だった母方の祖父と父方の祖父のことを思い出すと心がやすらぐようになった。両親が健在のうちにもっとはなしをきかせて欲しい。苦しい人生だったかもしれないけれど、かっこいいじいちゃん達だった。

 

※随時、推敲して書き直す予定。