今日は10か月ぶりに開催された坐禅会でした。
Sさんからの強い要望があり、人数限定で再開に至ったと、ろうしからお聞きしました。
今日、初めて参加のKさん男性。
頭髪(ピカピカ✨)は一見お坊さん風、とても真摯に参禅されてるように見受けられました。
例に依って「呼吸とは何ですか?」の質問。
洗礼は避けて通れませんのですね、誰しも。
答え方も誰しも通る道、同じような答え方をされます。
何度も何度も手を変え品を変えの質問責めに、諦めもせず、クサルこともなく、
粘り強く、たどたどしくも、一生懸命に向き合い、ご自分で答えにたどり着かれました。
「他人から教えてもらった答えは自分のものになりません」とろうし、とことん時間をかけて
答えに導いていかれました。
Kさんがついに「はーすー」と」息をされた時、なぜか感動して一瞬涙が出ました。
ろうしは「初めての方には皆さんに同じ質問をするのですよ、答えが直ぐでないから、ほかの方に迷惑では、などど全く考えなくて良いです。ほかの方々も同じ道を通ってこられました。
静かに聞いておられる時間は坐禅になってますから、気にされなくて大丈夫です。
過去にはこの質問に2時間を要した方もいらっしゃいましたから」
<以下は、今日のお話からメモです>
仏教とは縁とどう取り組むかということ。
マスクしてて息苦しいとかでも
生老病死・・ただ唯々諾々としていいのか?
縁とどう向き合うか、自分自身の事として、ひとつのきっかけが仏教。
喜怒哀楽も縁、どう取り組んでいくか、自分自身の事として。
坐禅のとっかかりとして。
普段は自分の思いに囚われている。
思いというのも縁、きちっと向き合う。
思い自身に囚われると、自分を見失ってしまう。
事実と思いの違いをつける。
思いを、事実、現実と勘違いしてたかも知れない。
事実に親しむのが坐禅。
自分の中ではっきりとみておく。
「呼吸とは何でしょう?」←説明することではない。
「事実に参ずる事ですよ」と聞いて、「そうするのかー」と思う事では無い!
「腑にに落とす」のは思いの世界!
「腑に落ちる、落ちない」以前の世界に親しむ。
じゃぁ呼吸って何でしょう?思いを使うとどうしても、窮する、ドン詰まる。
事実は安寧、行き詰る事が無い。
事実は行き詰らない。
事実→何かしなきゃと思いが浮かぶ癖がある。
親しむ→心は自分の出番がないとどうにかなりそうで、不安なんです。
そういった癖に惑わされないようにする。
放っとこうと→してる。
何もするまいと→してる。
ただ坐っとけば→檻を作って潜り込む。
考えまいと→考えてる。
事実に参ずるとは? 意味は?とどうしてもこういう事か!こういう風にして置けば良いのか、と腑に落とそうとする。
それは思いの癖。
パン!
思いの中で居心地の良いところを探すのでは無い。
思いを使って落としどころを見つけようとする、それが思いの癖。
そういうものを全く必要としないのが「事実」です。
どうしても最初は癖があるから、こうしたらいいのかな?あーするのがいいのかな?と思考は動こうとするが
全く必要が無い。
他人に答えを聞いても役に立たない。
どうしても心は見通しを立てたがる。上手くできてるのかな?とか
呼吸はいつだって、「今」の呼吸しかない。
今あるのものに参ずる→どういう事か。観察するのでは無い、観察するだけ作りごとの中に自分を置いている。
何もすまい・と自分自身にしかける癖がある。
「産まれたての赤ちゃんのように、ですか?」とKさん そのようにモデルや見通しを立てたがるのは思いの癖。
「今」の呼吸に丁寧に接していただく。
思いを立てる用が無い、それが事実の呼吸。
思いに迷ってる自分に気が付く。
「坐禅中に眠たくなるのは?」 それは思いの世界にいるから。
ろうしは坐禅中に眠くなるどころか、返って覚醒してくる、眠くなった事は一回もない、と。
自分の正体を明らかにするという強い覚悟で臨むと眠気など吹っ飛ぶ。
帰り道、遠賀川添いの畑一面のコスモスに思わず車を停めて写メした私たちでした。
そういえば今年は一回も行けてなかった、宗像大社、宮地嶽神社に参拝もできて、清々しい秋の一日でした。


