愛されること | ココロハレルヤ

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日々ふと感じたこと、思ったこと、考えたことを心のままに書いてみたいと思います

わたしは


愛されてる


って

ずっと思ってきた







わたしは
子供の頃
自分の中で 
わたしは女の子
とか
男の子である
という
男女の境がなくて

ただ
母と似た感じ
というより
父と似た感じ
思っていた


興味が向くものも
男の子の好むようなものが多かった


小学生になり
男女の区別を
周りからたくさんされるようになり
制服がスカートであったり

成長するにつれ
体の変化も出てきて
わたしは
女の子なのか?
と意識が芽生えだしてからは
男の子になりたいと
思い始めた



わたしには
この世には生まれなかった
兄がいたそうだ

子供の頃
母から聞いて
不思議な感じがした

それ
わたしじゃないかって








母は
男の子を
わたしがお腹にいるときに望んだらしい

ほんの少しだけ

そうは言っても
父も母も
男女関係なく
生まれたことを
喜んでくれた

わたしが
スカートを好まなくて
喧嘩をしたこともあったけど
基本的に
わたしの好きなように
させてくれた

女の子としての
意識が芽生えてから
男の子になりたいと
思うようになったのは

それは
女の子であることが
嫌なわけではなくて
自分が
愛される
守られる
立場であることが
しっくりこなかったのだ


大人になって
周りに合わせて
女性らしい服装を着ることも
女性らしく振る舞うことも
嬉しいとは思わなかったけれど
苦ではなかった

愛するひとと巡りあって
結婚することもでき
子供も授かることができた

だけど
そんな中でも

愛したい

愛そう

守りたい

という思いの中で
過ごしてきた



女性なのか
男性なのか

そんな風に
悩んだことはないけれど

愛されるより
愛したい

守られるより
守りたい

このもどかしさを
ずっと
感じて生きてきた

いわゆる
愛されること
守られることを
拒んできたのだ


最近

もしも
兄になったかもしれないひとの魂が
わたしだったとしたら

わたしは
男の子に生まれるのをやめて

女の子として生まれることを
選んだのかもしれないな

と思うようになった


本来
女性って
愛されることや守り大切にされる存在で

それを受け取り喜ぶことが
愛することだ
ということを
学ぶために
在るんじゃないかな


愛したいが強かったわたしは
男の子として生まれるより
女の子として生まれたほうが
そのことを学べると
思って
わたしは
女の子として
生まれてきたのかもしれないな

なんだか
思ってしまったのだ






愛されること

甘えること

大切に扱われること




女の子たちは
そうされることで
自他を輝かせてゆけるようになるのだろう

愛されること=愛すること

甘えること=自立すること

大切に扱われること=大切にすること








ひとはみな同じだけれど
性別の違いでも
いろんな切り口の学びがあるのかもしれないな
多種多様の性別
多種多様の学び




男の子になりたかったのは
愛したかったからなんだ


女の子で生まれて
愛されてきて
それがすでに
愛する
ということだったんだな
気がついて

本当に
良かったと思う




愛することも
愛されることも
どちらが欠けても
成り立たない








こうして
ここにあること

それだけで
愛されていて
愛していること

心から
幸せだと思う