人によって見えている世界が違う。


妻の見えている世界、お父さんお母さんの見えている世界、友達の見えている世界、僕の見えている世界。100人の人がいれば、100通りの光景があると思う。どれが正しいとかはない。その光景はその人のバックグラウンドや価値観によるものだから、人に言われてかえられるものでもない。また、人の見えている光景を他の人が見る事も出来ない。


今回は、僕が見えている世界について考えるとともに、その見えているモノ・頭の中を書いていきたい。

これは、だからどうするといった結論は導き出せるものではないが、今後の思考の糧になるように記録しておくこととする。




起床。

「妻を起こさないように準備しなきゃ。」

駅までの道。

「空は暗いな」「今日は寒いな」「今日は人通りが少ないな」

電車の中。

「どこか席空かないかな」「この人たちはどこに住んでいるのだろう」「こんなに朝早く行って何をするのだろう」

会社への道。

「ファミマに行こうか、セブンに行こうかどっちにしよう」

会社にて。

「今日はどんな順番で仕事をしよう」「そろそろ妻が起きる頃かな」

昼休み。

「外に出ようかな、このまま中にいようかな」

午後。

「妻は今、何をしているのだろう」「残業にならないように仕事を終わらせなきゃ」「この作業はあとこれくらいで終わりそうだな」「今は機嫌が悪そうだから、相談しに行かない方が良いかな」

終業。

「妻に連絡しなきゃ」「何をしようかな」




思いつくままに、一日の中でいつも考えていることを簡単に書き出してみた。自分で振返ってみても、継続的な思考というよりも突発的な思考が多いように思う。他の人が日頃どのようなことを考えながら生活しているのかはわからないけれど、僕の頭の中ではだいたいこのような思考が毎日繰り返し行われている。この他にも、歩きながら考え事をしていることもあるが、あまりよく思い出せない。思い出せないと言うよりも、自分ではその記憶を自由自在に引き出せない感覚である。


その時思ったことやその時の感情は、自分の中の引出しに一旦しまわれる。その引出しを再び開けることは自分では難しく感じる。問題が複雑だったらさらに難しくなる。その引き出しが自分の中のどこにあるのかわからなくなってしまうからだ。それを思い出す作業は、例えるならば、濁って底の見えない池の中から狙った魚をすくうことのようである。捕まえようとしてやみくもに池に手を突っ込んでいる状態が、僕の中での思い出す作業である。その魚を捕まえる方法は他者からのアプローチであると思う。それにより、自分の中の引出しが見つかり、何を考えていたかを思い出し、話すことが出来る。今まで濁っていた池が澄んでいくような感覚だ。しかしながらその考えは、一旦考えたら引出しにしまわれていて熟考を重ねたものではないため、薄っぺらいものになってしまうのだと思う。また、他人に頼らないようにする方法を探すことが今後の課題であると考える。



僕の頭の中を色で表すと「透明」である。



少し語弊があるかもしれないが、もちろん何か考えていることがあるときは様々な色がつく。しかし無意識のうちに頭が「透明」に戻ろうとしてしまうような感じだ。それは、せっかく考えたことが、手をすり抜けるように逃げていくようである。

頭の中から思考が逃げていく感覚は、「回避」ということとおそらく関係があると思う。それのせいで、頭の中で煙のように消えてしまう。ただ、これらは無意識レベルの上で起こっている事であるので、自分では「今まさに起こっている」と気付くことは難しい。他者に指摘されて初めて気づくことが大多数を占めていることも自覚している。


頭の中の思考が逃げないようにするためには、意識的にそれを捕まえておく必要がある。具体的に言えば、誰にも邪魔されない空間で机に向かうことである。よって、そのような時間は自分自身の事を考える上でも一定の事柄を考える上でも重要であると思う。自分のペースでその時間を刻まなければ、意識が逸れてしまう。

※だからといって、これをすれば必ず何か素晴らしい考えが今の自分に浮かんでくるとは思っていない。これをすることにより、普段より「考える」という行為から自分自身が逃げないようにできるという意味である。



その時の感情を言葉にするときも同じような事が起こっている。感情を言葉にするときは頭の中のイメージを1回1回言葉に変換する。しかし頭の中の映像を言葉に変換しようとすると、カーテンがかかったかのようにその映像が見えなくなることがある。普段マイペースでやっているときはこのカーテンはかからないが、追い詰められた状況やプレッシャーのかかる状況に連動して、このカーテンがおりてくるように思う。

これが原因で、夫婦の関係においてぶつかった時のコミュニケーションが困難になっていると分析する。


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今、夫婦関係で壁にぶち当たっていることは、これらのことです。

現状をお話しますと、妻と一緒に過ごしていると、僕が妻の事を察せられないことへのイライラが出てしまい妻の身体や心に支障をきたすので、僕が自分の実家に帰り距離をとって過ごしています。

どうにか元に戻ろうと考えているのですが、なかなか上手くいきません。

妻の「察してほしい」という期待と、僕の上記のような「思考プロセス」は全く上手くかみ合わないからです。

妻は相当辛い思いをしていると思います。ただ、同じように僕も辛いです。「考えて」と言われても、この思考パターンであるために、上手く考えられずそれを責められるのが辛いです。


今2人でしようとしている事は、妻に会うときに僕の考えを綴った手紙を渡すという方法です。

2人で話しながらだとなかなか自分の思いを表現することは難しいですが、手紙という自分のペースで誰にも邪魔をされずに書くことのできるものは、自分には合っていると思います。

このブログ記事も、誰にも邪魔されずに書いているので書けるのです。

次回妻に渡す手紙の内容は、このブログに書いた内容です。それを読んで妻がどう感じるかはわかりませんが、少しでも僕の考えを伝えられたら良いなと思っています。



かなりの長文になってしまいましたが、ここまで読んで頂いてありがとうございました。









このブログをご覧になられている皆さま、お久しぶりです。


たくさんのコメントを頂きましてありがとうございました。

また、それにも関わらず返信ができなくて申し訳ございませんでした。


諸事情により更新の間が空いてしまいましたが、

またマイペースに更新していきたいと思います。


これからも引き続きよろしくお願い致します。



先週、愛着障害に詳しい先生のカウンセリングを受けました。



一回目だったので、僕がどういう傾向かはいわれず、僕が特徴や生育暦をひたすら話していました。

そのときに話した、僕の中で愛着障害の回避型と疑われる点について、ここにまとめたいと思います。


僕自身、「愛着障害~子供時代を引きずる人々~」という本を参考にしています。


また、最後には僕の思うところを書きたいと思いますので、ご意見・ご感想頂ければ幸いです。



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僕の家庭は、小学校5年生頃から両親が別居し、以降約10年間母親と住んでいました。

母方と父方の家族の仲も悪く、「あっちには情報を何も言うな」といった、本当に秘密の多い家族だったと思います。

ここでは詳しい生育歴は改めて他の機会にまとめて書くとして、省略します。



・ほどよい距離がとれない

親密な距離まで相手に近づくことを避けようとするため、対人関係が深まりにくい。



・「全か無か」になりやすい

全か無かの二分法的な認知に陥りやすく、好きと嫌いがはっきりしすぎて、嫌いな人にも良い点があるということを認められない。



・全体より部分にとらわれやすい

全体的な関係や視点ではなく、部分に分裂した関係や視点に陥りやすい。それは快不快の瞬間の関係に生きているということもできる。



・対人関係よりも、仕事や勉強や趣味に重きを置く

対人関係の煩わしさを避けるために、仕事や勉強に逃げ場所を求めいている面もある。だからといって、回避型の人が仕事に全身全霊で打ち込んでいるというわけではない。世間に向けて自立の体裁を整え、社会的な非難や家族からの要求を回避するために利用している面が強かったりする。



・自分の健康管理に無頓着な傾向が見られる

自分の症状やストレスについてあまり自覚がないので、病気が進んで初めて気がつくということになりがち。



・過去の傷つき体験を記憶から切り離し、蓋をすることで、心の安定を保っている

幼い頃の記憶が乏しく、ことに悲しい記憶や不安な記憶を思い出すのに時間がかかる。また、信頼したり尊敬できる存在や、それにまつわる出来事を思い出すことも困難である。



【回避型の特性と対人関係】



≪親密さよりも距離を求める≫

・親しい関係や情緒的な共有を心地よいとは感じず、むしろ重荷に感じやすい。

・回避型のコア・ウィッシュは”縛られないこと”。人に依存もしなければ、人から依存されることもなく、自立自存の状態を最良とみなす。

・葛藤を避けようとする。そのため、人とぶつかり合ったりする状況が苦手で、そうした状況に陥るくらいなら、自分から身を引くことで事態の収拾を図ろうとする。



≪何に対しても醒めている≫

・本気で熱くなるということが少ない。情緒的な強い感情を抑えるのが得意で、それにとらわれることもない。クールでドライな印象を与えることも多いが、そうすることで傷つくことから自分を守っているとも言える。

・感情的な反応の認知において鈍感な傾向がみられる。表情の読み取りが不正確である。



≪自己表現が苦手で、表情と感情が乖離する≫

・喜びや関心の表情が乏しい。

・表情が感情と食い違っていたりする。



≪面倒くさがり屋≫

・やらなければならないとわかっていても、厄介なことは後回しにし、お尻に火がつくまで放っておくということも多い。



【回避型の恋愛、愛情】



≪愛とはこだわらずに忘れ去るもの≫

・どろどろしたものを嫌う、淡白なところがあり、相手との絆を何としても守ろうとする意志や力に乏しい。



≪パートナーの痛みに無頓着≫

・たとえパートナーが苦しんでいても、そのことを自分の痛みのように共感することは難しい。

・あくまで他人事として、客観的にしか受け止められない。

・相手にも自分の痛みを分かち合ってほしいと願う人が、回避型の人と付き合えば、もどかしく、物足りない思いを味わうことになるだろう。



≪助けを求められることがストレスを生む≫

・回避型の人にとって、頼られることは面倒事であり、面倒事を持ち込まれることはストレスを生む。



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僕が望む結婚生活は”縛られないこと”。この一言に尽きると思います。


今までも誰かに指示されて無理やりやらされたりすることが大嫌いでした。

僕自身のこの特徴が分かってからも、定期的にカウンセリングには通っていましたが、「カウンセリングのペースが遅い。治す気あるの?」と言われると、やる気をなくしたりしました。それを察知されて、失望されることもあります。


「常に考えろ」とよく言われます。

全く考えないのは良くないと思いますが、僕もそれなりに考えています。

でもその上で言われるので、僕の思考までもが支配され縛られているような感覚で生活しなければなりません。


例えば、友達や自分の家族に会うときも、「コミュニケーションが取れるようになるために、深い話をしてきなよ」と毎回言われます。気分転換や楽しいひとときの為に友達と会うのに、どこか”やらされてる感”が出てきてしまい、全然その時間を楽しめないのが辛いです。

さらに、帰ったら何を話し、どう思ったか報告を求められます。

僕には僕の友達との付き合い方がある。そこにとやかく口を出されたくありません。


僕の考えは間違っているでしょうか?


確かに友達や家族とは、あまり深い話はしてきませんでした。

それは表面上の付き合いかもしれません。

でも僕の中ではそれが心地よく、安心でき信頼しあえる距離感なのです。


一人一人価値観が違うように、他人との距離感もそれと同じで違うと思います。

他人に言われて変わるようなものとも思えません。


話を「愛着障害」に戻しますが、

「愛着障害」は克服できると本には書いてありました。

生育過程で足りなかったものを補えばいいと。

仮にそれが出来たとしても、具体的に何が克服されるのでしょうか?


トラウマ等から解放されるということなのでしょうか?


価値観や距離感は、その人固有のものであると思うので、変えたくもないし、それを変えるために訓練をするのは、その人の今までの生き方を根底から覆す作業に思えて仕方ありません。


それをするくらいなら、少しでも自分の得意分野に目を向けてそこを努力して伸ばしていく。

価値観の違いは、お互いに認めあって折り合いをつける。


そこで価値観が合わなかったら、もうそれは仕方がない。

性格が合わなかったということです。


”価値観や距離感は、他人が干渉できる領域ではない。”


これが僕の考えです。



皆さまはどのように考えますか?


どんなことでも構いません。

幅広いご意見・ご感想をお待ちしていますm(_ _)m