　本能寺の変の顛末を明智光秀を主人公に描いた表題作他三編が収録された著者初期短編集。四編に共通しているのは史実を元にしていること。しかし教科書にも必ず載る、日本人なら大概知っているメジャーどころを題材とした表題作は別として、『上意改まる』『二人の失踪人』は郷土史という極めてマイナーな記録が元ネタとなっている。更に最後の一編『幻にあらず』は著者の故郷である米沢藩の逼迫した台所事情とその再建がテーマ。これも又、郷土史を元にしたニ編ほどではないが、テーマ自体を紹介すれば地味な印象が先立つ。読み始める前にざっとあらすじを拾って一番興味を惹かれたのは馴染み深い題材の表題作。明智光秀が主人公の大河ドラマの記憶も新しく、親しみが増していたので尚更だ。しかし読後、個人的好みで順位つけてみれば、『幻にあらず』『上意改まる』『二人の失踪人』、そして一番期待していた『逆軍の旗』が意外や最下位となった。
　もちろん著者は藤沢周平。『逆賊の旗』も悪くはなかった。しかし期待値が高すぎたか、読後の印象は若干肩透かし。謀叛を決起するべきか否か、迷い葛藤する明智光秀の心理は伝わってきたが、生硬すぎて物語の広がりが乏しい印象は否めない。暗さを伴う藤沢周平初期の硬質な文章には、誰もが知るメジャーな華やぎより、寧ろ郷土史のような題材の方が似合う印象を受けた。ひっそり記録に刻まれて忘れられていた人たち。そこに血肉と息づかいを再び与える手腕は見事。罪なき若き武士の非業の死に至る顛末が描かれた『上意改まる』などは特に、抑制された文体が、修羅場の凄惨さに却って凄みを与えていた。
　更には『幻にあらず』。これに関しては文句なしの読み応え。関ヶ原の合戦で西軍に付いて会津120万石から30万石に減封された米沢藩。ここまでは僕も上杉景勝と直江兼続の麗しい主従関係も含めて、割とよく知った内容。しかし本書に取り上げられたその後の米沢藩の歴史は詳しくなかったので、藩の取り潰し直前まで瀕した台所事情や、そこからの再建の取り組み、それに絡んだ血腥さも伴う政治的駆け引きと権力闘争はスリリングかつ興味深かった。藩の取りつぶしも目の前に迫った台所事情に目を背け、頑なに伝統や格式に拘る保守派と改革派との軋轢。どちらに理があるかは一目瞭然だ。しかし藤沢周平が流石なのは頑迷な保守派らへの一定の理解も披露していることだ。

藩土を幕府に返そうとしたほどの藩である。このまま無事に持って行けるような生やさしい情勢ではなかった。思い切った改革に、一縷の望みがある。そういう藩だった。改革に反対する重臣たちにはそれが見えていないようだった。それは不思議なことだったが、あるいは彼らにもそれが見えていて、このままでは亡びるかも知れないと思いながら、なお目前の、あるいは従来の暮らしや、しきたりを変改されるのを恐れているのかも知れなかった。それを一概に怠惰と決めつけるわけにはいかない。彼らにとっては、そういう暮らしぶり、慣習が生きる証となっているとも考えられた。
　
　他藩から招かれて米沢藩の主君となろうとしている若き治憲に、藤沢周平は自分の認識をそう代弁させている。長年の慣習に染まり、そこから身動き出来なくなった人間の愚かさ弱さ。多かれ少なかれ人間が性根に持つ駄目さ加減を藤沢周平は決して断罪しない。一定の理解で許そうとする。どちらかと言うと僕も生活習慣や暮らしぶりを変えるストレス、あるいは変えられる不安に萎縮する卑小な心根の持ち主なので、治憲の鷹揚な認識に救われた気持ちを覚える。藤沢周平の世界に惹かれる魅力の一つだ。
　更に本作は最後も味わい深く余韻が残る。
　若き日は藩の建て直しに人を殺めることも辞さぬ覚悟で情熱を燃やし、更に治憲という理想の主君を招いたことで、益々政治家としての才腕を奮っていた当綱。しかし遅々と進まぬ改革に倦み疲れ、やがて志を失って遊興に耽るようになる。忠義者の家老のそんな老いらくの心境を思いやりつつ、それを乗り越えてゆこうとする治憲という若き主君。人はいつしか駄目になるという切ない真理に、それでもその真理を乗り越えてゆこうとする若き意志が交錯する。多層的な良い終わり方だった。
　やがて名君として歴史に名を残すことになる若き治憲に、この言葉を送りたい。

自分のためでなく人々のために働く人は、いたずらに急がない。なぜなら、人々が良きことを受け入れるには、多くの時間が必要なことを知っているから。(『ガンディー魂の言葉』)

　治憲の意志を端的に表現した言葉だ。

藤沢周平『逆軍の旗』