幼い時分、夏休みに飛行機に乗り

親の故郷の九州に数ヶ月帰省するというのが

毎年の恒例行事だった。

 

夏が終わり実家に帰ると

玄関や廊下が歪んで見える現象が毎回起こる。

嫌な感じはしない。ただ、歪んで見えた。

 

二三日するとまた実家が当たり前になるので

あの不思議な感覚は何だったのだろうと

最近になってふと気になった。

 

 

 

「街が小さく、違って見えた」

 

 

 

でもあの映画の比喩とは違う何かだ。

 

 

「そんな感覚なかった?」

 

ずいぶん漠とした表現でそんな話を数人にしてみると

 

『あったあった。懐かしい』という共感があれば

 

『子供の頃のことなんて覚えてない』なんて意見もあった。

 

 

 

家が小さくは見えなかった。だが何かが違う。

 

それはやはり自分の変化なのだけれど

変化というほどたいそれた変化はしていないわけだ。

 

たった1ヵ月そこら、宿題を頭の片隅に置きながら

じりじりと鳴る日差しに肌を焦がしていたにすぎない。

 

分岐点になる衝撃的な出来事があったわけでもない。

 

 

 

このことをぼんやりと考えていて、起きた事象より

その後"再び実家に馴染んだ"というところが気になり始めた。

 

 

要は、俺は元に戻ったわけだ。
透明な夏休みを
通過して、肌の色も戻った。

 

 

 

変化したことというのは、きっとこうだ。

 

扉の大きさや洗面台の高さ、便座の冷たさや木造やコンクリートの香り。

 

実家という籠で生活している時に

籠がどんな竹のしなりをして、どのような構造かなんて

考えもしない。なぜなら籠は体の一部のようなものだからだ。

 

壊れて初めてドアノブや風呂のタイルや壁紙の詳細を知る。

 

洗濯物と文庫本の合わさった匂い

姿見の縁に溜まった埃

シャワーヘッドの形

机の傷つき具合

洗面場の蛇口

冷蔵庫の幅

秒針の音

 

 

 

 

歪んで見えたのは、元から歪んでいたものを認識していなかった。

 

こう言い換えることができないだろうか。

 

 

 

大人になり認識がしっかりとしたからその時の感覚が

消えてしまったのだろうか?

 

初めて泊まるホテルや旅館が歪んで見えることはない。

 

感性が鈍くなったからだろか?

 

 

 

 

玄関や廊下の歪みは、自分の癖を外からみたから起きた現象だ。

 

 

癖 癖 癖

 

 

 

夏休みを通過したことにより

一時的に無意識や癖を可視化していたのだ。

 

 

そして夏休みは透明に、なかったものになる。

 

 

癖を忘れ、再び癖になる。無意識になる。

 

 

 

 

 

大人になってからもこの感覚は残っている

 

自転車に乗れるようになった時に体感した。

 

コードを認識してスケールにそってギターを弾く。

 

ファインダーを覗きながらシャッタースピードとISOを指先で変える。

 

 

 

 

自分が普段当たり前に行っていることは

一歩離れるだけで変なのだ。

 

何故ならそこには癖があるから。

 

誰にも習わないペンの握り方。

 

直らない箸の持ち方。

 

声の大きさ。

 

 

 

 

 

歪みは今後も新しいテクノロジーや機械を触る度に

発生してくるのかもしれない。

 

 

ただそこには自分を外から見られる機会が設けられている。

 

無意識の"それ"を手にとることができる。

 

 

透明な夏休みに色をつけることができる。

 

そしてそうすべきだと思う。

 

 

そうすれば目に入る全てがフォトジェニックになる。