この日、私は夕方から彼氏のM君とデートへ。
このころの私は2016年11月末に以前の仕事を辞め
それまでやっていたせどりを本業化しようとしていた。
ただ、かなりのぐうたら生活で
昼ぐらいまで寝てはそれから仕事。
そして、デートと
かなり羽を伸ばしていた。
もちろん、お母さんの抗がん剤などの病院も
ついて行ったりはしていたのだが
今考えてもぐうたらしていた思う。
料理も家事もすべて母に甘えていた。
そんな中、数日前に母方の祖母が亡くなり
お母さんと一緒にお葬式に行き
やっと落ち着いたころである。
母がその日の昼過ぎぐらいから
「なんか、調子悪い。」
と、言っていた。
ん?
と、思ったが
夕方には「早めに寝たい」と言い出した。
ちょっと心配になり
その日のデートは取りやめようかと
お母さんには提案したが
「せっかくの楽しみなのだから行ってきなさい。
お葬式とかで最近会えてなかったでしょ」
と心遣いをもらったので
お言葉に甘えていかせてもらうことにした。
そして、彼氏とあってから1時間ほど
あの男から電話があった。
電話の内容は
お母さんに亡くなった祖母が乗り移ったようだ。
と、まぁ
なんともスピリチュアルな訳の分からない電話。
とにかく、家に戻ることにした。
話によると、
脱衣所から出てこないらしい。
声をかけると「大丈夫」と答えるそうだが
とにかく出てこないらしい。
ってことで、私が脱衣所に突入。
そこに広がっていたのは…
血の海。
その中に座り込むお母さん。
口からは血がぼとぼとと出ており、
それが床に垂れていく。
そして、首と目が一方方向を向いたまま少々痙攣。
ジーっと座っている。
それを見た瞬間私は叫んだ。
「救急車!!」
しかし、あの男は立ちすくんだまま。
一刻も早く呼ぶ必要があったので
私が電話をした。
電話をしながら
私は母に自分が来ていたコートをかける。
脱衣所の冷たい床に長いこと座っていたのだ。
触るとびっくりするほど体が冷たくなっていた。
「毛布!!」と叫んで指示を出しても
あの男は動かない。
ただ、私は母の状態を救急車が来るまでの間に
少しぐらいは検討をつけときたかった。
ので、まずは声をかけるけど、
まったく反応がない。
でも、口からは血が出ている。
口から血が出ている以外は
脳を疑った。
脳出血や脳梗塞など。
しかし、口からの血が判断つかなかった。
それまで、乳がんから転移した肺がんの治療をしていたが
それくらいしか思いつかない。
なぜ、口からこんなに血が出ているのか。
と、思っていたら母が
「なんで、ねーちゃんいるの?」って…
でも、首と目は戻ってないけど…
って言ったと思ったら
また、意識がなくなって…
頭だから確実に動かさないほうが良い。と思っていたら
救急隊員が到着。
ストレッチャーで母が運ばれるとき
やっと、口から血以外のものが出てきた。
そしたら、「なんか楽になった」って。
ちょっと、安心したのを覚えているが…
その夜は病院にお母さんを看てもらって
本当は付き添っときたかったのに
帰れと言われたのでしょうがいないから帰ることに。
そして、後日…
医者から言われたこと。
今回は脳腫瘍からくる脳の浮腫が原因であったとのこと。
とりあえず、放射線治療をするがこれは一時的なものであること。
今までは延命治療であった。とのこと。
私はこれまで延命と言っても
20年でも30年でも生きればよいとぐらい思っていた。
しかし、これからは体に負担になる治療はしない。
ってか、治療は基本的にしない。
出てきた症状にだけ対処する。とのこと。
余命は持って1年だろうと。
そのことを伝えられた私は
医者にかなり噛みついた。
体の負担にならない治療はほかにないものかと?
そのような治療があればやりたい。
医者は言い切った。
「ない。」と。
過去の私に言おう。
実はこの時点で多少はあった。
少なくとも長崎でできたかは不明だが
それでも、あったのだ。
ほかの分子標的剤だってあったし、
治験だってあったし、
免疫療法だってやっていなかったのだから。
しかし、この時の私は知らない。
もっと勉強が必要だったと後悔が先に立って止まない。
そして、行き着いたのが食事療法である。
私がお母さんを守らなきゃ。
医者はお母さんを守ってくれない。
お母さんが本当に死んじゃう。
それがやっとわかった。
遅すぎるぐらいだった。
それから、死に物狂いで食事療法の勉強を始めた。
これが、
お母さんと本気でガンに立ち向かった1年の始まりである。