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どっかの大学生のブログ

3月30日付で「どこにでもいそうな浪人生のブログ」から改名しました
ここはどこにでもいそうな大学生の他愛もないブログです
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地球に最も近い恒星は太陽であり、8光分離れている。私たちがもし同じ方向に進み続けるとしたら・・・例えば、次にくるのは、私たちからX光年のステラ星だ。そしてその後はどうか。私たちの前には常に別の恒星があるのだろうか、私たちがどんなに遠くに行ったとしても。あるいは、恒星が寿命を終え、私たちの前に何もないのなら―宇宙のゴミあるいは光でさえ無いのなら―宇宙そのものは私たちの前で依然として広がるのだろうか。無限や無限大についての問いがある。2000年以上前に、ある男性、エレアのゼノンが暮らしていて、無限や無限小について別の問いを投げかけた。ゼノンの問いは、地球から外に関心を寄せたことではなく、私たちの周りの物の内側に関心を寄せたことから起こっている。

エレアのゼノンは約2500年前にイタリアで生まれた。彼は有名な講師パルメニデスのお気に入りの生徒で、ゼノンが約40歳の時に一緒にアテネ(現在のギリシアの首都)に行った。プラトンは自信の対話編「パルメニデス」で彼らの訪問について記した。彼は私たちに、ゼノンは背が高く上品だと教えてくれる。

さて、ここで足の速い走者と遅い走者の間で競走が行われると仮定してください。その競走は、偉大な英雄アキレスと、平凡なカメの間で行われると仮定しましょう。これはあまり公平な競走には思えないので、カメに先発権を与えましょう。2キロメートルの競走で、カメにはアキレスの1キロメートル前方でスタートさせてあげましょう。それでもなお、カメは非常に遅く、アキレスは強くて健康で、カメを素早く追い越し競走に勝つことに疑いは無い。仮定しましょう、アキレスは、1キロメートルを5分でたやすく走ることができ、一方で、同じ時間に、カメは全速力で走ったとしても10メートルしか「走る」ことができない、と。

ゼノンはここで私たちに問う。アキレスがカメを追い越す前に、彼はまずカメのスタート地点に到達する必要があるというのは事実ではないか。確かに、それは事実だと、私たちは認めなければならない。そしてアキレスがカメのスタート地点に到達して、見上げると、彼はカメが少し移動したのに気付かないだろうか。

もちろん、それも事実だ。実際、アキレスが自分とカメのスタート地点の間の1キロメートルを進むのに5分かかり、そしてカメができる限り速く走っているのなら、アキレスは自分の10メートル前方にカメを見つけるだろう。

それでは、仮定しましょう、アキレスがカメの元々のスタート地点にいて、カメは苦しみにあえぎながら、アキレスの10メートル先にいる、と。ゼノンは再び問う。アキレスは自分がカメを追い越す前にカメの新たな位置に到達する必要がないだろうか。私たちは同意しなければならない。そして彼がその位置に到達してすぐに顔を上げると、再びカメがいくらか先にいるのに気付かないだろうか。もちろんその通りだ。そして彼がその地点に到達するとき、カメは再び進んでいないだろうか。

実際、彼がカメを追い越す前に、アキレスはカメが去っていった無限の天に到達しなければならないように思える、そしてこのことは彼がカメを決して追い越せないことを意味する。彼はこれらの連続した点にだんだん短い時間で到達し、カメは狩れとの距離がだんだんと縮んでいくだろう。しかし、彼がどれだけ近づいていくかに関わらず、彼はのろま―しかし無敵の―カメを追い越す前に常に到達しなければならないもう1つの点がある。

多くの思想家はこの有名なパラドックスの何がおかしいか言及しようとした。アリストテレスは、私たちは地球にも天国にも本当に無限は無いと言えば矛盾から抜け出せるのだと信じていた。しかし―私たちが見ているように―アキレスのパラドックスはゼノンの議論全体の一部にすぎない。

私たちがアキレスとカメの距離が無限に分割できないと言うことによってパラドックスから抜け出せると仮定しよう。アキレスがカメを追い越す前に到達しなければならない点が有限個しかないのなら、彼は―私たちがわかっているように―結局カメを追い越す。そのことは問題を解決しないだろうか。

競走におけるどの瞬間にも、アキレスとカメの間には有限個の点しかないのであれば、その点は有限の大きさでなければならなかった。例えば、もしたった1ミリメートルの中に100万もの点があるのなら、それぞれの点は、1ミリメートル長の100万分の1になるだろう。そして思い出してほしい、私たちは空間が無限に分割できないと仮定している。つまりいったんできるだけ小さな点に私たちが到達したら、これらはそれ以上分割できない。

そこでゼノンは私たちに、矢が的に向かって飛んでいるのを想像するよう頼んでいる。彼は訪ねる、的に矢が到達するために、矢が放たれた弓と的の間の全ての地点を矢が通過しなければならないというのは事実ではないか、と。確かに、それは事実に思える。そしてこれらの点の数は有限か。同感である。ここで、これらの点の一つを想像して、より想像しやすくするために、それが直径1ミリメートルの円だと仮定しよう。もちろん、確かにその地点はこれよりもずっと小さく靴箱のような形をしているが、直径1ミリメートルの円は想像しやすい。

少し前に、私たちは矢が的に到達するためにこの小さな円形の空間を通過しなければならないことに同意した。しかしどのようにすればそれが可能なのか。何かがある空間を通過するとき、それはまず始めにその空間の端近くにあるに違いなく、それから真ん中を通り、さらにその空間の向こう側までたどり着く。しかし矢が飛んでいる点はできるだけ小さな点であることになっている。端近く、真ん中、向こう側のように、それらはさらに小さくすることはできない。だから私たちは矢がこれらのできるだけ小さな点を通過すると言うことはできない。そしてその場合には、私たちはどうしたら矢が的に到達することができるのかわからない。

要するに、アキレスのパラドックスは空間が無限個に分けられないことを示しているように思われる。なぜなら、もし分けることができるのなら、アキレスは決してカメに追いつかないからだ。しかし矢のパラドックスは空間が有限個にも分けられないことを示しているようにも思われる。なぜなら、もしその場合には矢は決して的に到達しないからだ。だから空間は無限個の点でも有限個の点でも構成できない。しかしこれは空間が扱いの困難な概念であることを意味し、そしてそれは真実のように思われるが、それは間違いなく錯覚の一種である。

伝説によると、ゼノンは様々な対象についてのパラドックスを40個以上発見した。彼は自身の教師パルメニデスの世界観を支持したがっていた。パルメニデスは、私たちが自分たちの周りで見ているように思われる変化や動きは、本当は錯覚なのである、と述べた。パルメニデスによれば、真実はただ一つで、不変である。生きながらえてきたパラドックスの持つ力と相変わらずの難しさを考えると、もしかするとゼノンのパラドックスの大部分は長い歳月の彼方に消えてしまった方がましなのかもしれない。
私は裕福な家庭に生まれた。私には才能があり、そして一生懸命に働き、賢い人やよい人からの尊敬を得ることができて、私は幸せだった。実際、私の最も悪い短所は、一種の性急に楽しみを求めたがる心だけであり、普通以上に生真面目で威厳があるように思われるため、それを隠した。私は自分の人生に高い望みを持ち、自分の無害な娯楽を隠し、そして自分の性質のそんな一面を恥じた。

私はしばしば自分のこの2重の性質について考えた。一方では、よいことをして、知識を進歩させ、苦痛や悲しみを取り除くことを強く望んだ。もう一方では、慎みを忘れて自らを喜ばせることを強く望んだ。私がそれについて考えれば考えるほど、この人類の2重の性質が私には宗教の根底、そして精神的苦痛の大きな原因に思えた。

私の科学的な研究は私をゆっくりと、等しい、破壊的な、人間は本当に一人ではなく、本当に二人である、この二人は絶えず戦闘状態にあるのだから―という真実に導いていった。私には他の科学者がきたる時代にもっと気付くとわかっている。ひょっとすると彼らは人類が、ただ二つではなく、たくさんの対立する人格によって構成されていると気付くだろう。しかし私自身の研究、私自身の性質は、自分は二人の人間であり、一人ではないと私に証明した。私は人生のあらゆる部分でこの二重性を目にし、私自身の片方の面を「本当は私ではない」として拒絶することはできないのだと悟った。私は彼らの両方であり、両方とも「私」であった。

少年であったにもかかわらず、私の調査が人格の分裂という可能性に私を導く前、私は喜びをもって、最愛の空想として、分裂するこれらの二つの要素について考えるようになった。私は考えた、もし不誠実な片割れが、道徳的な片割れの野望や後悔から解放されて、自分の思い通りに動けたら、それは素晴らしいことだろう、と。そして良心的な片割れが、よいことをして、下等の片割れに惑わされず、向上の道を行くことができれば、それもまた素晴らしい。私は考えた、人類の災いの元は、正反対のものと結びつけることである、と。離れることができればいいのだが。

私が言ったように、これらの考えは、私自身の性質を理解することから来た。しかし私が調査を続けていくうちに、研究所からこれらの考えへ新たな光が投げられた。私たちが歩くのに使い頑丈だと思っている体が、実際は、霧と同様に永続的でない、ということを明らかにするため、私の医療の仕事が始まった。

私は風がカーテンを揺らすように体を揺らす力を持つ、とある薬を発見した。

しかし私には自分の話のこの科学的な面についてもう述べない強力な二つの理由がある。一つ目は、私は私たちの性質の二つの面が分けられないということを学び―そしてその結果、ひどい目に遭った。私たちがそれらを分けようとするとき、それらの間の闘争は新たな形で、かつてよりさらにひどくなって再び起こる。二つ目は、私の発見は不完全であるがゆえに悲劇的な結果を招いた。それから私はこう言うだけだ、努力に費やした長い年月の後、私は自分の体を変質させることのできる化学薬品を作り、それに私の心の下等な要素の顔と形を与えた、と。

私はこの「薬」を飲む勇気を出す前に、長い間ためらっていた。私にはそんな強力な影響を持つ薬品が極端に危険であるに違いないだとわかっていた。しかし素晴らしい発見の誘惑は私にとって強く、そしてある呪われた夜、私は化学薬品の混合物を作り、フラスコの中で成分が沸騰して煙を一緒に出しているのを見て、とっさに勇気がわいて、それを飲み干した。最初、私はひどい苦痛を感じた。骨がきしり、死にそうなまでの吐き気、そして言葉で表せないような精神的な恐怖だ。しかし突然、これらの激しい痛みが消え始め、私は長い病気から回復したかのように感じた。私は言い表せないほど新鮮で心地よい何かを感じた。私はより若く、より明るく、元気や活力で満たされているように思えた。イメージの流れが私の精神に入り込んできて、私は義務など無いように感じた。私にはすぐに、自分がより悪い、私が夢に描いていたものよりも10倍は悪いとわかり―そしてこの考えはワインのように私を喜ばせた。私はこれらの新しい感覚を楽しみながら、両手を伸ばし、そして突然、この素晴らしく新しい自分自身の体がかつてのものより小さいと気がついた。

そのとき、研究所には鏡が無かった。私が変貌を見ることができるように、私が書いているように私のそばにいる一人が、引き込まれた。

希望と勝利に満ちあふれていたので、私は、自分の新しい形で、寝室の鏡へ向かうことを決めた。私は廊下をゆっくり通った。見知らぬ人が私自身の家にいて、私の部屋に来ているのだ。そして初めて、エドワード=ハイドの外見を見た。
ヘンリー=ジキルより小さく、やせ細っていて、若い。ひょっとするとこれは私の人生が十中八九努力、善良、自制の人生だったからだ。ハイドはより少ない仕事しか与えられていなかった。ヘンリー=ジキルの面前で善良が輝いたのと同じくらい明確に、邪悪がエドワード=ハイドの目鼻立ちに押されていた。姿にも、体の状態にも、邪悪な何かがあった。しかし、私が鏡でその醜い姿を見たとき、私は全く嫌悪を感じなかった。歓迎の飛躍を感じた。これも、私自身なのだ。それは自然で人間であると思えた。それは私が自分のものだと呼ぶ事に慣れた分かれた顔とは違い、活力とひたむきさで満ちていた。

しかし、実験の後半はまだ行われていなかった。私は急いで研究所へ戻り、再び薬を調合し、飲んだ。再び私は同じ変質の痛みを感じ、私のもとに再びヘンリー=ジキルの体、顔、性格がやってきた。

これは致命的な私の人生の岐路だった。私の新たな力は抗しがたかった。私はエドワード=ハイドという形を取り、家を出て夜の闇へと繰り出し、自分の望むどんなことでも、世間体のための自制なしにすることができた。私はただ研究所へ帰り、変質しなければならなかった、そしてハイドが何をしようとも、彼はいなくなってしまい私は再びジキルとなるだろう。誰がその著名な医者を疑うだろうか。誰が彼と怪物のようなハイドを同一視するだろうか。時間が過ぎるにつれて、私でさえ、ジキルとして、ハイドのしたことは覚えているが、自分自身を非難はしなかった。それはハイドであり、ハイドだけであり、彼は罪を犯したのだ。私が再びジキルになったとき、私は以前と同様であった。時々私はハイドによって行われた邪悪なことを帳消しにするため、急いで出て行った。しかし変質したい衝動はいつも強力すぎて抵抗できなかった。これが私の奴隷の境遇の始まりだった。
人間の顔は非常に柔軟だ。また、人間は、歩くのに用いない二つの肢―腕―を持つ。だから、時代の初期から、おそらく人間は、しかめっ面をしたり指や手で身振りをしたりすることによって互いに意思を伝え合ってきた。話すということもすぐに重要になった。

これらのコミュニケーションの方法は、関係する人々が互いにかなり近い距離にいる時にだけ作用できた。また、受け取られた情報を保存することもできなかった。しかし、これらの両方の問題は書くことの発達によって解決された。
最初にされた書くことは、おそらく粘土板の一連の刻み目であった。書くことで、メッセージはある場所から他の場所に送られ、保存できた。事実として、4,5千年前に作られたメッセージのいくつかは今日依然として博物館に私たちと共にある。

人々が互いに話したり書いたりする様になる前に、音や記号が意味することについての取り決めがなければならない。英語を話す人々は'dog'という言葉に意味されるものを決めたが、フランス語を話す人々は同じものを'chien'と呼ぶ。もっとも、それはあまりによく知られていて私たちはそれを暗号と思いさえしないが、全てのコミュニケーションは決められた暗号を用いる。

世界中の他の言語体系がそうであるように、私たちの言語体系自体が暗号である。どんな暗号も、それを理解していることになっている人々が暗号の秘密を知っているならば、情報を伝え合うことに使うことが可能となる。


用意された情報

本は情報を蓄える。全ての最も大きな情報の蓄えのいくつかは、大英図書館や米国議会図書館のような国の図書館である。しかし、もちろん、これらの情報はあなたが外に出さない限り無駄である。本の目録は助けとなるが、あなたが目録を使う様になる前には、正しい本を見つけなければならない。

図書館では、本は分類システムに従って整列される。それらは普通文字と数字の特別な略号を与えられている。

その略号は本の主題に依存する。本を分類することはいつも思っているほど簡単というわけではない。例えば、鳥がどのように歌うかについての本は「鳥」、「音楽」、あるいは「音」のどれに分類されるべきなのか?
コンピューターカタログの大きな利点の一つは、同じ本が多くの項に分類できることだ。全ての本が何度も出版されなければならないのなら、古い形式のカードの目録はとても膨大になり手に負えなくなるだろう。
分類することは全ての問題を解決するわけではない。本が図書館の間違った区画に戻されているのなら、それは見つけることがほとんど困難になる。

デジタル革命

今日、コンピューターは、言葉や画像を含むあらゆる種類の情報を扱うが、それらは最初、数の計算をとても早く行えるように発達してきた。
コンピューターは普通の十進法の数よりも二進法の数とともに働く。二進法の数え方では、0と1の2つの数字しかない。例えば、1,2,3,4,5という数は二進法では1,10,11,100,101と書かれる。電子工学では、二進法の利点は、0と1がオンかオフのどちらかである回路によって表すことが可能であるということだ。だから、何百万もの小さな回路の載ったマイクロチップはたくさんの数を蓄えて扱うことができる。二進法のシステムを使って、数はなおも、他の方法―例えば、磁力を帯びているか帯びていないかであるカセットテープの部分部分のような、あるいは紙の上の白か黒である縞のような―で表すことができる。

デジタルかアナログか?

全ての測定値や記録がデジタル(数)の形を取っているわけではない。例えば、多くの時計は二つの回転する針の位置によって時間を示す。このような表示はアナログ表示と呼ばれる。その値は詳細な数によってではなく、連続して表示が変わるものによって表現される。スピードメーターの目盛りはアナログである。ダイアグラムで示される音波の線のようなグラフの線もまたそうである。

コンピューターは、始めにデジタル信号に変換されているのなら、アナログの情報を扱うことができる。例えば、音波はコンパクトディスク(CD)にデジタル方式で記録することが可能なアナログの情報を伝える。CDプレイヤーでは、プロセッサーと呼ばれる小さなコンピューターがディスクからデジタル信号を取ってきて、スピーカーに必要なアナログの形に変える。
しかし、なぜデジタル信号はアナログより好まれているのか?その二つを比較する便利な方法は、周りの雑音のせいでひどく粗末な電話で伝えられているメッセージについて考えることだ。そのメッセージが話し言葉として送られているのならば、言葉を識別するのは難しいだろう。しかし、そのメッセージがモールス信号の形で、トンとツーで送られているのなら、より一層通じやすい。話し言葉はアナログ信号に等しく、モールス信号はデジタル信号に等しい。
レコード(LP)はアナログの記録物だ。LP上の溝は音波を送る波打つへりを持つ。レコードの主な問題は表面のゴミや傷が針を跳ねさせて望まない雑音を出すことだ。
記録が、CD上のように、デジタルであるなら、ゴミの小さなしみが今もなお間違った数を拾わせてしまうかもしれないが、プロセッサーはこのようなどんな突然の変化を無視するよう決めることが可能だ。さらなるCDの利点は、摩耗を引き起こす針がないことだ。二進法の形では、情報は、表面の微細な一連の凹凸としてディスクに記録される。これらはバーコードリーダーのように、レーザー光線によって読み込まれる。
ほとんどの電話システムは、今日デジタル方式で動作している。いったん音の情報がデジタルの形式に変われば、それはワイヤーに沿った電気のパルス、あるいは光ファイバーに沿った光のパルスの連続として送ることが可能だ。そのうえ、時折人工衛星経由で、より長い距離にわたって、ラジオの波長や極超短波の通信が用いられる。ファックスを利用して、電話機によって画像を送ることができる。その画像は細長い一コマ一コマでスキャンされ、その情報は一連のデジタル信号として送られる。

受信するためのファックスは、これらを、何千もの小さな点で構成されたデジタル画像に変える。
かつて百聞は一見に如かずと言われたが、これはもう真実ではない。デジタル処理によって、画像は完全に変わることができる。しかめっ面をする人に微笑みを与えることができ、色を変えることができ、そしてある人の顔が別の人の顔と合わさったり別の体につけたりすることができる。これら全ては、誰かが変化が起こったことに気付くかずに行うことができる。

ディスク上の本

本にある言葉や画像はCD上にデジタル形式で保存することができる。後にそれらはコンピューターで検索し表示することができる。あなたは同様に動画や音を手に入れることさえできる。そのシステムの一つの利点は、保存可能な大きな情報量だ。例えば、一つのCDには、ある本に含まれる全ての言葉や画像が、この本のように入る。そしてまだ、さらに本20冊分は割けるスペースがある。

本は便利で使いやすい。あなたは本に載っているものを見る前に、高価な装置を買う必要はない。しかしコンピューターがCDから取ってくる情報は、検索でき、並べ替えでき、より分けることができ、そして限りなく多様な方法で表示できる。唯一の制限はあなたの想像力だ!

情報技術はとても早く発達してきているので、今日の子供たちが成人するときまでには、私たちはおそらく残存するあらゆる技術的問題を解決するだろう。私たちは人間の歴史のどの時代よりも自由に意思を伝え合っているだろう。唯一の疑問は、私たちが本当にこの恵みに感謝して、私たちのコミュニケーションの方法と同じくらいに、私たちの心と精神を開かれた状態に保つのかどうかである。