フィリピンの、それも田舎の貧困地域で育った私は比較的自由な幼少期を過ごした方だと思う。泥遊びやおままごとは勿論、今の日本社会ではきっと「危ない」と止められるような木登りや火遊びもした。両親は大概の遊びはさせてくれたし、よっぽど危なくない限り止めたりしなかった。しかし、火遊びだけは、一度母に怒られて禁止されたことがある。

 「火遊び」と言っても、私にとってさほど危ない遊びではなかった。一緒に遊んでいたそのころの友達の家はガスの通っていない貧乏生活だったため、毎日ご飯を作る時の火おこしをしたりしていた。そのため、火の扱いがうまかった。そんな友達と一緒だったので火を使うのが怖いということはなかったし、せいぜいおままごと用だったため、使う火は小さかった。

                                                           

 火で遊ぶときは決まって友人と朝から家の裏にあるゴミ捨て場に出向き、新しいごみの中から比較的新しく、そしてきれいな空き缶を選び出していた。プラスチック製のおままごとの鍋では、火の上において料理ができないからだ。ゴミ捨て場、と言っても地面に深い穴を掘って、そこにゴミが捨ててあるという素朴な物だった。ごみ収集車が週に一回、不定期にしか村に訪れず、訪れても捨てるにはゴミを急な坂道を一つ降りて、ごみ収集車の来る大通りまでもっていかなければならないような環境だったので、我が家では家の裏にそのようなゴミ捨て場を設置し、定期的に焼くことで処理していたのだ。

 

 家の裏にある豚小屋のさらに裏に、フィリピン特有の、やわらかい箒の材料となる植物が繁茂している通称「ほうき林」の中に、そのゴミ捨て場がある。深く掘られた穴の中にゴミを捨てているのだから、落ちそうなものだが、じつは新しくゴミ捨て場が掘りなおされた数か月間以外は大概溢れるほどゴミがあったため、幸いにも落ちた経験はない。

 

 そこのゴミ捨て場では、運がいいと、錆一つない、きれいな空き缶に加え、ファストフード店で出てくるようなプラスチック製のスプーンやフォークも見つけることができた。村でも数少ない裕福な家庭だった私の家と、一緒の建物の一階に住んでいるご近所さんの二つの家庭からのゴミが捨ててあったため、時には他のゴミ捨て場ではなかなか見つからない少しゴージャスなものも見つけることができた。少し欠けた皿や、少しだけ曲がったスプーンなどが見つかったときは友人と二人で興奮して「もっとあるかも」と、一生懸命ゴミを掘り返したものだ。できるだけ穴にゴミをまとめようとしていた大人たちにしたらいい迷惑だったことだろう。しかし、今となっては威張れたことではないが、幼いころはそんな他よりいいゴミが落ちているゴミ捨て場を独占できることが少し自慢だった。

 

 綺麗な空き缶を見つけたら、大概家の裏の水道でそれを念入りに洗った。そう一人がしている間に、私か友人の中で手の空いた方が決まって大人たちの目を盗んで、一緒に家を共有し、一階に住んでいるご近所さんの野外キッチンの炭の袋から両手に持てるだけの、だが盗んだとわからない程度の、炭を盗む。そして、見つかる前に炭と空き缶をもって、そのころの遊び場だった、裏山の大きなマンゴの樹の下まで走っていた。

 

 遊び場だった大きな樹の下は地面を這う大きな根が張り巡らされていたが、一か所だけ驚くほど平らな場所があり、そこが私と友人の遊び場だった。その平らな空間の周りを這う根は子供にはちょうどいい椅子になったし、庭を負い隠すような大きな枝と葉は暑い日差しをちょうどいい具合に遮ってくれた。どんなに暑い日でもマンゴの樹の下は少し涼しかったし、風が吹くたびに揺れる木漏れ日は心地が良かった。

 少し山のほうに行くと、近所のおじちゃんが育てている芋もあったし、葉っぱがスープによく合う木もあった。おままごとにはちょうどいい採集場所になっていたと言えるだろう。子供が遊びに使うのはいかがなものか、ともいえるが、正直どちらも野生に近いものだったのでそれらは雑草に紛れるように大量に繁殖していて、それをおままごとに使うこと自体には罪悪感はなかった。

 

 その樹の下で、友人と、点火するために使う良く燃える落ち葉や枝、空き缶を火の上に固定するための大きな石などを集め、すべて用意ができたら私が家からこっそり盗ってきたマッチで火を点ける。いつも一本目ではなかなかうまく火が点かず、大概数本マッチを使ってやっと成功するものだったが、燃えはじめさえすれば、それまでなかなか燃えなかったのが嘘だと思わせるような勢いで火が点く。点火用の枯れ葉が無くなる前に追加で上に乗せ、そのうち枝に、そして最終的に炭に火に火が移るまでのプロセスがとても好きだった。なかなか火が点かない炭が赤くなっているのが確認できると、とても達成感を感じたのだ。

 

 火が点けば火を大きな石で囲んだだけの手作りコンロの上に、水の入った空き缶と、その日収穫した野菜などをゆがいた。野菜は勿論近くでとれる芋の蔓や、スープによく合う葉っぱだったが、時にはただの雑草も使った。ご飯はなかったので、そのころは砂を代用して、ご飯を炊くときのように水と炊いた。不思議なことに、ごはん替わりの砂は水が蒸発するまで炊くと砂の粒の間に空気が少し入るのか、スプーンでよそうときに本物ごはんのように「さくっ」という感触がした。初めて知ったときは友人と大いに興奮し、私はそれを家に持って帰り、母に見せたりもした。

 

 家から盗ってきた少量の塩で野菜を煮てみたり、お菓子を焼いてみたり、また別の日はただ延々とどの枯れ葉の種類がよく燃えるのかを研究したりした。火でできることは無限大にあって、とても楽しく、飽きなかった。日々使うことで火を点けるときのマッチの本数は減ったし、どうすれば効率的に火を継続させるかも時間がたつにすれ、わかってきた。しかし、いくら日常的に火を使っているからと言っても、事故は起きる。

 ある日、いつものように、友人とおままごと用の火を作り、遊んでいたら、少し火から目を離した隙に、火の近くに垂れていた私のスカートが燃えたのである。そのころの私は、木登りや泥遊びなどをしていたにも関わらず、風通しのいいルーズなワンピースやスカートをよく履いており、その日も例外ではなかったのだ。薄いスカート生地は思いのほか火移りがよく、とても焦ったのを覚えている。幸いにも、常日頃から火を使っている友人がすぐさまスカートの火をサンダルで踏みつけ、砂をかぶせることですぐに消してくれたが、私のスカートにはとても隠せない大きさの黒い焼き跡がついていた。

 しばらくは友人と二人で「怖かったね」と笑いあっていたが、いざ焼き跡を見たら、火の危険性について語って注意していた母の顔が浮かび、今度こそ本当に恐怖が沸いてきていた。母はそれこそ、火が服に燃え移ったときの危険性なども厳しく言っていて、私は「そんな間違えしないもん」と、根拠のない自信を持っていたのだ。焦った私は、ちょうど母が外出していたのをいいことに、家に帰り、違う服に着替え、すぐさまスカートはベッドの下に押し込んだ。その日は火遊びを止め、帰ってからも母に「なんで朝着てた服と違う服を着てるの?」と言われないかハラハラして過ごした。

 たが、母は意外にも朝着ていた服と違うものを私が着ていることに気づかず、スカートが一つ消えていることも聞いてこなかった。 次の日にはまた火遊びは再開し、気が付いたらスカートが燃えた事件など、忘却していた。だからこそ、その数週間後、母が部屋を大掃除できれいにしている時もいつものように私は友人と外で遊んでおり、母が怒りを含んだ声で名前を呼んできた時もいったいなんで怒っているのかわからなかった。正直、心当たりがありすぎたのだ。もしかして塩や油などを盗んでいたのが見つかったのだろうか、最近白く塗りなおした壁に泥団子を投げて汚くしてしまったのが知られたのだろうか、ついにマッチを定期的に盗んでいることに怒られるのだろうか、など、自分の行いを一生懸命考えながら母のもとに行った。

 しかし、不安になりながら母の前まで行き、差し出されたのは完全に存在を忘れていた少し燃えたスカートだった。そこからどの順序で怒られたかははっきり覚えていないが、火の扱いに関して、注意力の足りなさについてきっちりと怒られ、落ち込んだ記憶がある。安全に火を使えないならそもそも使っちゃダメ、と禁止も出され、その知らせを外で不安そうに待っていてくれた友人に言ってがっかりしあって、火遊びはあきらめよう、と反省した。

 

 次の日、またいつものようにおままごとを始めたが、火は使わなかった。だが、長い間本物の火を使っておままごとをしていた私達にとって、火のないおままごとは思いのほか退屈なものだった。細かくちぎった葉っぱは水に入れていても変化はしないし、炊いていない砂は水と分離して、ただのドロになって面白みがない。あまりに退屈なおままごとだったため、二人で何とかして火以外の方法で料理ができないか、と一生懸命考えた。その結果、ついに思いついたのは太陽の力で料理をすることだった。

 フィリピンの真夏の日差しは最強で、アスファルトの上なんかになれば気温が40度を超える。裏山で、比較的日陰が多く、涼しい場所でも、あまり植物が生えていない砂の上は足を焼くほど熱くなる。よく裸足で遊んでいた私も、炎天下の砂はどうしてもサンダルなしでは歩けなかった。それを利用して、熱い砂に野菜と水を入れたものを砂に半分埋めたら、ひょっとして煮込めるのではないか、と思ったのである。

 そうと決まれば行動は早かった。友人はすぐさ食べれる芋の蔓と、スープによく合う葉っぱを採ってきて、その間に私は家から一つまみの塩を持ってきた。朝ゴミ捨て場で拾ってきたきれいな空き缶に水を入れ、野菜を入れたらあとは太陽の下で煮るだけだった。幸いにもその日、ゴミ捨て場では珍しく大きめの空き缶が見つかったため、結構な量の野菜が入れることができた。

 

 私の想像では五分ほどで太陽の光線により缶の中の水は湧き始め、野菜が煮え始める予定だったのだが、それほどうまくいかなかった。しばらくは缶を置いてある場所に一番近い日陰で友人と共に見守っていたが、何度か確認したところ、大した変化が見れないことで見張るのに早々に飽きた。遊んでいる間に何度か確認すればいいと決め、数十分おきに確認することにした。

 最初のほうこそ、十分もしないうちに確認に行っていたが、「少し水があったかくなったかな」という変化しか感じられなかった。そのうち遊びに熱中し、数十分おきに確認することも忘れ、昼ごはんのために母から呼ばれ、昼飯を食べている時に「そういえば」と、友人が炎天下で料理中の野菜を思い出した。

 昼ご飯を急いで食べ、競うように友人と缶を置いていた砂場のところまで走ると、数時間前はまだ葉っぱがしっかりしていて水から突き出ていたのがずいぶんとへなっていて、見た目は十分湯がけているように見え、二人で喜んだ。風のせいか、水には埃みたいなものが少し浮いていたが、そんな些細なことなど特に気にしなかった。

 すぐさま熱い砂場から缶を移動させ、大きなマンゴの樹の下で試食会だ。ゴミ捨て場で捨ててあったスプーンをきれいに洗ったものを使い、缶の中にある芋の蔓を落とさないようにすくい出し、食べてみた。今となってはその味は思い出せないが、それまで食べた芋の蔓の中で一番おいしかったと思った記憶がある。それこそ、塩でしか味付けがされていないのでちゃんと味付けされた本格的な料理にかなうはずもないのだが、達成感とうまくいったという興奮でとてもおいしく感じたのである。

 

 あまりにうまくいったので、私は友人にも頼んで少しだけ缶に野菜を残してもらい、家まで持って帰って母にも分けた。今までも火を使って作った料理はいっぱいあったが、火を使っていることや、勝手に家から調味料やマッチを盗んで使っているという後ろめたさから母に持って帰ることはなかったのだ。だが、今回の料理は火を一切使っていないし、塩も後ろめたくなるほど使っていない。しかも、自分の画期的なアイディアによって料理された野菜なのだ。自慢がしたくてしょうがなかった。

 今更になって驚くが、私の母はゴミ捨て場から発掘してきた空き缶の中に入っている、埃が浮いている野菜を見て、特に怒ることもあきれることもなく褒めてくれて、食べるように私が勧めると一口食べて「こんなことよく思いついたな」と、関心するように言ってくれた。「おいしい」と、ほめてくれたのがうれしくて、料理過程を細かく説明していかに素晴らしいアイディアによって調理されたかを力説した覚えがある。母のリアクションを友人にも伝えて、二人でずいぶん盛り上がったものだ。

 

 それから一度だけその時のノリで同じように料理をしようとしたが、残念ながら湯がける前に日が沈み、うまくいかなかった。次の日もやろう!と誓ったが、次の日には興奮が冷めており、また炎天下の下でゆっくり料理する気にはならず、ちょうど母が留守だったのでハラハラしながらもまた火遊びをした。「お母さんが見ていなかったら大丈夫」と、隠れて火遊びをしばらくの間していたが、数日もすれば危機感は薄れ、いつの間にか前のように堂々と火遊びをするようになった。

 それから空き缶だけでなく、空き缶のふたの部分をフライパンのように使う技を覚え、奇跡的にゴミ捨て場で壊れたバーベキュー用のネットを見つけ、りょうりのアレンジはどんどん増えた。だが、今でも一番おいしいと思ったのは、やっぱりあの炎天下の下で煮た野菜だったと思う。今になって同じことをしてもきっとそのころのように心の底から「おいしい」とは言えないだろうとわかっているから、不思議なものだ。