Makerにとって良い商品とは、どちらだろうか?
人の釣れない方はどんなに良い(魚の釣れる)製品であっても、購買意欲をそそらない製品は、商品とはならない。
逆に、このルアーでは魚が絶対釣れないと思われる製品でも、購買意欲をそそる製品は、良い商品になる。
それは、魚が釣れなくても、それを使って満足感が得られれば良いのである。
沢山釣りたいのであれば、わざわざルアーを使わずにライブベイトを使えばよい。
本物(えさ)より、騙すのが難しくなるおもちゃ(ルアー)を使って、釣りをするところにゲーム性が構築される。
その行為自体を否定することは出来ない。
しかし、世論の中に“沢山の人が使う(売れてる)から優れた製品”と、した情報に変換して巡回させる行為は、正しい方向とは言えない。
なぜなら、その製品が本来、魚を釣るための道具として紹介されているからである。
また、実際の釣りに使うことがなくても、ディスプレーとしたり、ステイタス シンボルの様な所持することに、優越感を感じさせるモノであれば良い商品となりうる。
これも前者の考え方と全く同様に、個人の考え方を強制できない。
しかし、販売に当たって、用途の明確化やカテゴライズを行わなくては、本来の目的を追求し、開発/製造を行っているMakerがその煽りを喰らい、方向転換せざる終えない終末を迎える。
勿論、魚が沢山釣れるから、沢山売れる(人が釣れる)、最高の満足感をもたらすのであれば優れた商品になるが、多くの場合、市場原理とはその形態を取らさせてくれない。
ここが難しくもあり、間違った方向への原動力にもなる。
商品開発には、縛りが必ずある。
利益を導かない枠外は、除外される。
ただし、この枠内・外のLineは実態のない、言わば感覚的な情報からのLineである。
過去のヒット商品の中を探せば、枠外と感じる部分も多い。
しかし、優れた製品が情報網に乗ることが出来ず、消え去っていった事実はいくらでもある。
では、コーヒー界だったらどうだろうか?
手間を掛けずに、美味しいコーヒーが飲みたいのであれば“プロ”のところで飲めば良いのではないだろうか。
家でわざわざ淹れることはない。
家事の合間にコーヒーを淹れて飲みたい!それも出来るだけ簡単に!美味しく!
ないはずの出来事も言語に変換してしまうと、現実に存在する錯覚に陥る。
ルアーの話に戻せば、釣れないルアーを使って満足感を得られれば良い。と、同様に考えるなら、不味いコーヒーを飲んで満足感を得ていれば話は簡単。
現実に、多くの人はこの事実に自覚を持たずに陥れられている。
しかし、一生懸命になって自分で淹れたコーヒーを、不味いと感じている人も実際は多い。
また、趣味には多大な時間を時間と費やしても、いとわない事である。
コーヒーを淹れることは、削除したい苦痛であろうか。
コーヒーを味わう行為は、口の近くに運んだときから始まり、飲み干したときに終えるのだろうか?
では、旅行へ行くとき、現地に着いた時点から離れるまでに喜びがあって、それ以外は苦痛な作業と感じているのだろうか。
ほとんどの人が、準備の段階から楽しさを感じ、また、帰ってからのDate処理にも、良い思い出に心を弾ませた経験があることだろう。
なぜ、コーヒーの抽出に苦痛を感じさせるのだろうか?
“費用対効果”自身が費やした労力=費用換算と、効果=テイストに不一致がそう感じさせている部分ではないか。
“費用対効果”に見合ったもしくは、それ以上のテイストを得ることが、常に出来るとしたら、“自身で淹れる”という行為自体にもっと楽しさを感じられるはずである。
それには、間違っている情報の修正をHard&Softの両面から、再構築する必要性を感じる。