2005年に放送の、ルパング島から30年振りに帰還した小野田實朗さん・生き抜く・戸井十月のインタビューを偶然みた。途中からだったけど、録画した。理由はあった。最終的に救出のきっかけになった、鈴木紀夫さんが、あのあと、急に追放された真相が昔から気になっていたから。しかし、そんな事を吹き飛ばすほど、内容が濃密だった。<ずばり、小野田さんは銃で人を殺しましたか?>など、番組の根幹をなす重要な質問がいくつもある。人生の機微と幸せ観の狭間にある心の有り様が与えられた条件下でどんなふうに変化するのか?帰還して、たった1年後にはブラジルに脱出した理由が本当によくわかった。純粋な野生児?魂に一点の曇りがない。戸井さんは、この企画を自分で考え、アポなし体当たりで小野田さんを訪ね、信頼を築き、3年後に番組のプロデュースにこじつけた。「ジャングルをかけ巡るとき、歌を唄った事があるか?」の問いに、「 雨の寒い夜は敵もいないので戦歌を唄った。懐メロは寒い時には唄えない」・・爆笑。久しぶりに心の収穫があった。幸せ・・・。鈴木紀夫さんは自分で研究?する事に・・生きる元気が湧いてくる。
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針尾 2011年3月6日 今年も3月6日。今日は、昼から、ホームページの教室。やっぱり、若者は呑み込みが恐ろしく早いので、すご~く楽。ホームページができた瞬間は、教えている方も、一緒になって喜べるのが楽しい・・。この感動を早くたくさんの人に伝えなければ・。時間が過ぎるのはこんなにも早いもの?加速度的・・昨日 チューリップの姫野さんから電話「明日マリンメッセ で コンサートよ、知っとった?」「一人の部屋・やるよ」ふわ~っ・相当久しぶりやね~「一人の部屋」・・・残念ながら行けませんでした。売れないあの頃・・脳裏に浮かぶ渋谷ジャンジャン・銀座地下サテライト・新宿ルイード・・それはそうと、先日から、NEWZEALANDの地震で凄く懸念する事がある。ヤバい国でおきてしまったなあ~・・。NZには、Easy going と言う「常套句?」がある。極端に言うと、大丈夫・大騒ぎするな・どうにかなる・やっちまえ・しょうがないじゃん・まあまあ・簡単簡単・・適当・ 等、どっかの国の、ケンチャンナキーとか、アスタマニアーナ・・かな? 「人命救助前提の捜索の終結宣言」や、日本人の行方不明者の殆どが埋もれているビルをやっと昨日3分間だけ家族に見せた・・など、普通の日本人感情からは理解できないと思える事が多々ある。但し、間違っていると言う意味ではない。終結宣言は日本人向きには、あいまいにする方があっている。実は、私が一番心配していたのは、たとえば、崩壊した建物の捜索が始まった2日後のニュース映像で、手もつけられていない、捜索順番待ちの崩壊建物らしい・・が、いくつも目についた。今回、日本政府の公式援助隊も手続きの関係で、いきなり捜索作業に就けなかった。日本の県単位の消防関係の援助隊は、未だに市内中心部に入れずに、住宅街の土砂除去などに携わっているし、日本のボランティア医師の団体10数名が、日本の医師免許を見せても、それは、日本の資格だから・・と、けが人の応急措置にも参加させてもらえない・・と昨夜のニュース番組で日本人医師が、呆れ口調で嘆いていた。やっぱりね・・そうやろそうやろ・・本当にため息だ。その「ニュージーランド不文律」と言うやつ。家族による遺体確認拒否、これらについては、また後日・。私の感想を言うと市内中心部に報道関係者も立ち入り禁止にしているのは、確実に情報操作。遺体が埋まっている瓦礫を重機で除去しなければならない場合等、捜索状況にケチをつけられたくない狙いがある。ニュージーランドと関わりをもった人なら私のこの感想、背景、ピーンとくる事でしょう。鳥肌がたってくる。「驚きの現地リポート」してこようかな・・これから後、意外な事実が続々発覚すると思う。とにかく、生命の時間との闘いに、捜索順番待ちの崩壊建物・・などあってはならないのに・・・。昨夜は、2005
*1985年11月 ドナルド・」キーンさんと2人 車で3箔4日のツアーをしました。初日は、西南女学院の文化祭講演~夜 今はなき法華倶楽部小倉(後に「紫川」)で講演と川口エリサさんのバイオリン演奏・阿蘇~別府~松山(俳句の全国大会)・のコース。高森の牧場でキーンさんが、西鶴 にまつわる商道徳について私の為に解説して下さっていると、背後に 牛の集団が押し寄せて、あっと言う間に取り囲まれてしまいました。あら~先生すいませ~ん・・大変な事になった・・と思った時、キーンさんが、「悪意はなさそうですよ・・」爆笑・・。そう言えば、高森で泊ったペンション山林舎(小倉の方が建てられた0967-62-3008)は、今年25周年を迎えた。是非 お勧めしたいお宿です。そのツアーで残念だったのは、キーンさんと三島由紀夫との交流が深かった事を知らなかった事です。三島が無名の頃からキーンさんがコーディネーターとなって、三島と、作品のセールスの為にアメリカ中を奔走した事を、数年前の 回顧録(読売新聞連載)で知り、「三島に関する聞きたい事、たくさんあったのに・・・」


