ポピュリズムと「民意」の政治学 | 地球日記

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ポピュリズムと「民意」の政治学(木下ちがや)

 

3・11以後の社会運動は、久しく忘れられていたデモを突破口にして民衆自身が民主主義の機会、器を作り出すポピュリズムであると喝破し、戦後民主主義の破壊に力を注ぐ新自由主義ポピュリズムや排外主義ポピュリズムとの差異を明確にする。そして、脱原発デモを軸にしたポピュリズムが民意となって、東電に象徴される戦後の日本を規範してきた日本型企業社会に対峙しせめぎ合っている様を描きだす。しかし、そこでは3・11以前の「日常感覚」や「常識」の残照が、3・11以後の社会運動を今だ規範していることも明らかにされる。

『いま、運動に参加する若者が共有する内的衝動に、原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の発見)に加え、今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。』

これは本書に引用された一学生の論考だ。このような現状維持に汲々とする、小賢い若年寄のような諦念の処世術たる保守性が保守性のまま社会運動の現場で推移したならば、

『この〈常識〉そのものの組み換えなき「社会民主主義」あるいは「福祉国家」は、一時的な「ばらまき」による弥縫以上の何をももたらさず、結局のところ、より洗練された新自由主義と、この常識から噴き出る同質的/排外主義的保守主義による統治に道を譲ることになるだろう。』

というところに落ち着つき、せいぜい若手スター活動家の選挙運動(就活?)に収斂するか、おしゃれな装いと国益をまとった愛国青年運動に回収されるかだろう。本文中では、保守性とともに併存する「新たな社会関係を構築」する衝動に方向転換の期待を滲ませ、後編にそれがどういうことかを説明する。

社会運動が持つ保守性に拍車をかけるのが、一見民衆の味方のような顔をして近づく、新自由主義に違和感を抱き自分たちの立場が恵まれていた平成昭和の過去に回帰しようとする旧来の権威とその追従者である。彼等は自らを「リベラル」と称する。

『左翼の「神学」は、大学を中心とした知識階級層のみと需給関係を結ぶことになった』

という民衆性を欠いたアメリカンリベラルの「表象批判」運動が企業のコマーシャルに包摂されたように、日本の旧来の権威は、護憲という表象でリベラルを装い路上や論壇で空文句を垂れるが、その実態は、憲法の理念を民衆の生活や知の現場で実現しようという気概も行動も無いまま、企業や国家と結託して逆に弾圧する側に回るか見て見ないふりをする。そうやって、過去に得られた自分たちの既得権益を守ろうとする保身の徒に過ぎないのである。排外主義が一定の民衆性を持つのも、このようなリベラルの欺瞞性を突いているからだ。

 

『強力な資本蓄積により出現した「豊かな社会」に支えられた、この〈同質イデオロギー〉は、その土台が崩れるなかでいまや収縮しつつある。しかしそれでも新自由主義改革による〈社会〉の分裂に対する一定の「違和感」を政治的に表明するだけの力はまだ有している。ただ、このイデオロギーの中から新自由主義に対する本格的抵抗力や、社会的公正と連帯を希求する論理と力を引き出すことはできない。というのも、この〈常識〉は、今後せりあがってくるであろう異質な「階級」や「エスニシティ」に対しても―ましてやそれが権利、自由、公正を掲げて闘うならばなおさら―「違和感」を表明するだろうからである。』

という指摘は、慧眼である。リベラルに帯同し運動の先頭に立つ「知的不安定層」は、リベラルに握られたままの知や労働を生み出す社会構造を変えない限り、知的安定層になれないことを認識しなければならない。

こうして本書は前編に当たる1章から9章までのⅠで、新自由主義のもとで左右の保守勢力が結託して作りだした悪循環と行き詰りに至る2001年から今日までの歴史を打ち破り、グローバルな連帯を実現するという「新たな社会関係を構築」に向けた課題を見据える。そして10章以降をⅡで区切って、3・11以前の旧社会の母斑を引きずり苦闘しつつも、世界的接合と雑種混合性を持つ社会運動の中に芽生えた「新しいアナーキズム」に焦点を当てる。

「①方法が目的と強調してなければならない②権威主義的な方法によって自由を獲得することはできない。③できうる限り、自分の友人や同志との中で、自らが目指す社会を具現化せねばならない。これは要するに、目的意識かつ合意形成の集団形成の技法である。」

という、「新しいアナーキズム」の実践の蓄積を母体とした共同意識と文化の組成に変革の可能性を見出すのである。この、「新しいアナーキズム」の担い手が数をなして現れるかは、それが労働と家族の現場での実践に耐えうるかによって決まる。まずは、野党共闘という崩れ去った権威に依存した尻押し運動を踏み台にし、自律した運動体を現象させることができるかどうかでテストされるだろう。

3・11以後の社会運動が何なのか、どこへ向かうのかを突き詰め、3・11以後の時間軸が持つ歴史的意味と3・11以後の時代感覚に言葉が与えられる。