戦車第2師団の皆さんは、太平洋各地でかくも勇敢に戦われました!頭が下がる思いであります!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

戦車第2師団は満州で編成され、
 
4個戦車連隊・1個機動歩兵連隊・
 
1個機動砲兵連隊などで構成されました。
 
 
 
参考画像ですよ
 
 
 
1944年、マリアナでの敗北を受けて
 
次の決戦場はフィリピンであると予想できました。
 
そこで比島方面へは、
 
戦車第二師団を始め多くの部隊
 
配備されることになりました。
 
戦車第二師団だけをとっても、
 
三戦車連隊を投入してるのですから、
 
意気込みはすごいものがありました。
 
(戦車第11連隊は、千島方面に抽出されましたが)
 
 
敵は1月9日朝、
 
ルソン島リンガエン湾へ上がってきます。
 
例によっておびただしい量の
 
艦砲と航空支援を受け、
 
日本軍は破壊し尽くされたかに見えましたが、
 
どっこい大半は健在でした。
 
 
 
せや!これは参考画像やで!!
 
 
 
序盤こそ日頃の訓練の賜物を大いに発揮し、
 
敵を押し返しましたが、圧倒的な物量と兵力をもって
 
攻撃してくる敵に対し、友軍の戦線は次第に
 
線から点へと分断され、
 
最強の機動力を誇る戦車大隊も、
 
制空権無き戦いでは苦戦を強いられ、
 
次第に消耗していきます。
 
 
 
そやさかい、さっきから参考画像やってゆうとるやんけ!
 
 
 
北部へ後退した友軍は
 
ジャングルを利用し遊撃戦を展開。
 
特にサラクサク峠では熾烈を極め、
 
敵の出血を大いに強要しました。
 
ここサラクサク峠には戦車第10連隊も展開。
 
 
 
 
サラクサク峠付近に残るM4中戦車
 
 
 
と言っても、戦車第10連隊の一部は
 
輸送船で移動中敵潜の雷撃を受け、
 
輸送中の戦車全てを失いながら
 
実に敢闘しております。
 
 
 
 
 
 
独立戦車第3中隊などは、
 
輸送船団でパラオに向かう途中、
 
やはり敵潜の雷撃を受け
 
戦車全車と兵員の多くを海没してしまい、
 
生存者はサイパンに上陸後、
 
ほぼ玉砕しています。
 
 
 
この新砲塔チハは、
独立戦車第3中隊の車輌とちゃいまっせ!
 
 
 
戦車第27連隊は
 
沖縄第32軍第24師団に転属
 
32軍はこれまでの各地の
 
戦いのような水際戦を取らず、
 
奥地に引き込み殲滅を図る作戦を採用したため、
 
戦車隊は首里防衛線に展開。
 
5月4日・5日の総攻撃の際、戦車第27連隊は
 
残念ながら全滅に近い損害を出してしまいます。
 
 
 
 
 
 
石嶺高地の戦闘では、
 
戦車を伴う強力な敵の攻撃を
 
再三はねのけたが、
 
5月18日頃には西部130高地
 
(チョコレートドロップ)を敵に奪われ
 
戦車連隊の戦力は4分の1と
 
なってしまいました。

 

 
 
 
西部130高地
 
 
 
M4中戦車との戦力差は歴然でした。 
 
M4の主砲が75ミリであるのに対し、
 
日本軍軽戦車は37ミリ、
 
中戦車は47ミリでしょ。 
 
装甲厚は、M4の砲塔前面が
 
120ミリであるのに対し、
 
日本軍軽戦車は12ミリ、
 
中戦車でも25ミリで、
 
例え命中弾であっても正面からの
 
撃破は実に困難でした。
 
 
 
 
 
 
沖縄の地形をよく把握し、
 
その有効な配置に関しては申し分はないものの
 
いかんせん支援射撃の兵力の差が
 
勝敗を分けたと言えます。
 
しかしそんな極めて困難な中、
 
ホンマによく戦ってくれました。
 
 
 
 
 
 
アリューシャンのアッツ・キスカ島を
 
奪われた日本軍は、北方からの
 
脅威を払拭できずにいました。
 
1944年3月に編成された第5方面軍に、
 
戦車第2師団から戦車第11連隊が転属になり、
 
千島列島のほぼ最北端の占守島に配備されます。
 
 
占守島はカムチャツカ半島に近い割には
 
守備隊はソ連を脅威とは感じておらず、
 
あくまで対米戦が想定での
 
基地作りが進められていきます。
 
 
 
 
しかし米軍からの攻撃もなく終戦の日を迎えます。
 
 
 
第5方面軍から武装解除の指令を受け、
 
その準備中の18日未明
 
突然ソ連軍先遣隊が上陸してきました。
 
 
 
 
第5方面軍からは
 
「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」
 
「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、
 
自衛のための戦闘は妨げず」
 
との命令を受けてたので直ちに反撃を開始。
 
 
 
 
 
 
ただソ連軍は重火器を陸揚げできずにいたので、
 
第91師団は直ちに反撃を開始。
 
戦車第11連隊も速やかに国端方面に進出。
 
ソ連軍を海岸線近くまで後退させたが、
 
対戦車火器により27両が擱座させられました。
 
しかし歩兵第73旅団主力が
 
ソ連軍を海に蹴落とすところまで
 
追い込みながら
 
あと一歩のところで停船命令が届き、
 
自衛戦に切り替えます。
 
しかしソ連は停戦時間を無視し攻撃を続けます。
 
また停戦交渉に赴いた軍使を
 
捕虜として拘束してしまいます。
 
このように
 
「ソ連は薄汚い狐のような存在だ」と
 
かつて生存者は感想を述べてました。
 
 
 
 
 
 
今回もさらっと通りましたが、戦車第2師団はこのように
 
太平洋各地の主戦場で、重要戦闘を担ってきました。
 

 

 
 
 
 
火力の差をものともせず、
 
果敢に攻め奮戦した将兵に今更ではありますが、
 
深謝するとともに心よりご冥福を祈らずにはいられません。
 
 
 
 
 
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