ひとは、敢えて不毛の道を選択しなければならないことがある。


その道の行きつく場所に、何の意味もなくても、
それでもそこへ向けて進みださなければならない時がある。

おそらく、それが今。


たった独りでも、伴う人もいなくても。

身震いするほどの孤独感。
砂を噛むような思い。

踏破できても、道半ばで斃れても、

いずれにせよそこには一点の喜びもない。


しかし、誰にも救いは求めまい。

これが自分の運命と甘受するのみ。

人生の歯車のほんの小さな狂いが招いた、恐ろしい罠。


一言だけ言うとすれば、

「運命よ、なぜにおまえはかくも非情なのか」


非情の長い長い一人旅は、始まったばかり。

2012年夏の 悲愴な決意。



針亜連の「浪漫」は、本稿を以て、

ひとまず無期限休刊します。

私は心に大きな痛手を負い、「浪漫」を見失ってしまいました。

そして、これから、一点の「浪漫」もない不毛の道を歩まざるを得なくなりました。

そんな人間が、「浪漫」と題するブログを書き綴ることなど、今はできません。

事情は尋ねないでください。

誰にも言えない心の痛手は、大なり小なり、どなたにもあると思います。

どうか黙って見守ってください。


アメブロは退会扱いにせず、

これまで書き綴った記事はそのまま残しておきます。

拙い記事ばかりでしたが時々思い出して、

わずかなお慰みにでもしていただければ幸いです。


読者各位のこれまでのありあまるご愛顧、ご叱正、温かい励ましに

心から感謝いたします。

ご愛読、本当にありがとうございました。


針亜連 敬白

小学生の頃の恩師が、
神戸から遊びにきてくださった。
私が無理を言ってお越しいただいたのである。

この先生のことは、
以前に記事にしたことがある。
(先生の好きだった歌)

もうすでに定年退職なさっているが、
とてもお元気で、
毎日のトレーニングを欠かさないらしく、
少し髪が薄くなられた以外は、
若かりし頃と全く変わっていらっしゃらなかった。

過去記事をお読みいただいた方は、
ご存知のように、
実は数年前、
一度お会いしたことがある。
その時は、健康を害されていて、
先生はやつれて見えた。
本当は、誰とも会いたくないほどに、
状態が良くなかったとのことだが、
わざわざ、私のために無理をなさっていたようだ。
ということで、先回お会いした時は、
あまりゆっくりお話もできなかったが、
今は健康を取り戻され、
我が家に二泊され、
酒を酌み交わしながら、
いろんな話をした。

ここであまり詳しくは言わないが、
教員としての職業生活は、
どちらかというと不遇だったようだ。
体調を壊し、早期退職されたことからも、
つきのなさは窺える。
生徒から見れば、熱血漢でとても素敵な先生だったのだが。

私の小学三年の頃の担任だった。
中学から赴任してこられた男の先生。
私は、一年二年の頃は、
学業も振るわず、担任からも冷たくされ、
三月生まれで当時は体が小柄でだったせいもあり、よくいじめられた。
そのため、
学校へ行くのが苦痛で仕方がなかった。
そんな私を、ずいぶんと可愛がってくれ、よく褒めてくださった。
私は、褒められるのがうれしくて、
学業にも精を出すようになり、
学ぶことの喜びを知るようになった。

先生との楽しかった一年間、
あっと言う間だった。

私は、四年生修了時に、
他校へ転校することになり、
大好きだったその先生とは
そこでお別れとなった。
当時の私はまだ年端もいかない子供、
気恥ずかしさもあり、
あんなに大好きでお世話になっていたにもかかわらず、
何の挨拶もせず、先生と別れてしまった。

以来、長い歳月の流れの中、
私はすっかりその先生のことは、
忘れてしまっていたが、
記憶から消えてしまっていたわけではなく、
ずっと、心の襞の中に、
その思い出は埋没してしまっていた。

数年前の夏、
今はなきRADIO-iから、
「心に残る先生」という話題で
放送が流れてきた時、
30年以上の時を超え、
ふと大好きだったその先生を思い出し、
何のお礼も挨拶もせずに
お別れしてしまったことを悔いた。

そして、
いろいろ手を尽くして先生のその後の消息を調べ、
前述の通り、数年前にご挨拶にいったのである。
しかしその時は、
先生の健康状態は非常に悪く、
とてもまともにご挨拶などできる状態ではなかった。
それでも、その再会以来、
毎年の賀状交換をするようにはなった。
かなり健康状態がよくなったようにお見受けしたので、
先生の大好きだったドラゴンズの試合にお誘いすることを口実に、
名古屋へご招待したのである。
神戸生まれ神戸育ちなのに、
なぜかドラゴンズ。
7月28日のデイゲームを観戦した。
対スワローズ戦。
残念だが勝てるゲームを落とし、
引き分けだった。
それでも先生は、
初めての名古屋、初めてのドーム球場の観戦を、
楽しんでくださった。

試合終了後、
居酒屋へ行き、
今回来てくださったことへのお礼、
そして、
大昔に黙って去って行ったことへのお詫びを告げた。
私にとっての37年越しの宿題である。
やっとやり終えた。

そのあと、
自宅近くのスナックで、
先生の大好きだった歌、
当時の人気番組、Gメン75の主題歌、
「面影」を一緒に歌った。
私は感極まって、
もう少しで涙しそうになった。

翌朝、名古屋駅までお見送りした。
近鉄で神戸に帰られる先生、
何度も、ありがとう、ありがとうと
仰いながら、
笑顔で帰って行かれた。
コンコースの人波に消えてゆく先生の後ろ姿に、
私は深々と一礼した。

先生、
どうもありがとうございました。
どうかいつまでもお元気で。

その人の決断を、心から尊重するのなら、

今、「戻ってこい」と発言するのは、軽率でしかない。


決断の背景にあったその人の真意、そしてその重み、

それはその人にしかわからない。

しかし、それについて何の忖度もせずに、他者が自己の気持ちばかりを主張するのは、

少なくとも成熟した者の態度ではない。

決断の真意を理解してやろうと努める、その後の姿を黙って見守ってやる、

真の支援者ならこうありたい。

「ガキみたいにガタガタ言うな!」


…あるサイトへの書き込みを見て感じたこと。

有り余る時間を持て余すほどの優雅な休暇を楽しんでいる。

本を読んだり、思索に耽ったりするのには格好の機会。


そんな中、「失敗」について考えてみた。

神ならぬ身の人間、誰しも多かれ少なかれ失敗はある。

失敗自体は悪ではないと私は考える。

そこから何を学ぶか、そして失敗の傷口をいかに最小限に食い止めるか、

こういうことをしっかり考える過程で、人は成長するものである。


しかし、絶対にやってはいけない失敗がある。

それはなにか?

致命傷を負うほどの大失敗である。


「致命傷」の具体例の例示は、読者各位に委ねるが、

ここでの定義は抽象的に

「得意分野で失敗してしまったケース」としておく。

これをやってしまうと、事後収拾に大変な労力を費やすことを余儀なくされる。



以下は、実際に私の身の回りで起こったケースである。


私の近くに、グルメを気取った、ある輩がいる。

「自称グルメ」としておく。

常に美食を追い求め、

いわく「どの店の何がうまい」の類の知識の蓄積は、かなりのものであった。


どんな世界でもそうだが、自らを「通」をもって任ずるなら、

技術や知識だけでなく、マナーを弁えておくべきと私は考える。

マナーとは何か?

人に不快感を抱かせず、うまく折り合う技術のことである。


ではグルメが持ち合わせるべきマナーとは何か?

傍目に見苦しさを感じさせる食べ方をしない、

同行したメンバーとの間で明朗会計にする、

このあたりはわかりやすい点だが、

他にも、気が付きにくい点として、

「特性をわかったうえでその店を活用する」ということがある。


わかりにくいと思うので、具体的に述べる。

訳あって故郷へ帰ることになった、ある仲間の送別会をやることになった。

私は、「自称グルメ」の男にある店を紹介され、送別会の幹事を務めた。

その「自称グルメ」も出席者の一人だった。


恐ろしく段取りの悪い店であった。

オーダーしてから注文の品が出てくるまでの所要時間が異常に長い。

最初のうちは、出席者はみな、おとなしく待っていたが、

段どりの悪さゆえ、何を注文しても長時間待たされる。
最初に注文したビールが、生ぬるくなって実際に出てきたのは、実に30分後だった。

その後の料理も、すべて冷めている。

冷めた料理を出されると、たとえそれがどれほど高い技術で調理されたものであっても、

不愉快なものである。

さすがに、我慢を重ねていた出席者も皆かなり怒り出し、主賓も困惑の表情。

せっかくの送別会はぶち壊しになった。


私は、「自称グルメ」男に詰問した。

「これはどういうことだ?あなたは自信をもってこの店を強く薦めたではないか?

それも、幹事の私をさしおいて、出席者に自ら店のPRをして回っていただろ?」


それに対する返答。

「実をいうと、段取りの悪いのが玉に傷」


私は声を荒げた。

「ふざけるな!それならそれで早くそれを言え。

何が『実をいうと』だ!最も大切なポイントではないか!

段取りの悪い店ならそれ相応の活用の仕方があったのに、

それを黙っていたから、主賓以下、あなた以外の全員のこれほどまでの不興を買い、

せっかくの送別会はぶち壊しになった。

あなたもグルメを気取るのなら、

『段取りが悪い店』という特徴をちゃんと明らかにしたうえで皆に紹介しろよ!」


「自称グルメ」は一人一人に謝罪して回った。

そんな中で、ある出席者から出たコメント。


「あんたは、何をやらせてもいい加減だが、
唯一、食べ物関係だけはまともかと思っていた。

ほとんど唯一の取り柄でこの体たらくでは、あんた、どうしようもないね。」


非常に厳しいコメントだが、
これが、「致命傷の失敗」の例である。


不案内な分野での失敗は、大目に見てもらえることもある。

しかし、

「ほとんど唯一の・・・」というあまりに辛辣な言い方は置いておいて、

いやしくも自他ともに「得意分野」と考えている領域で失敗すると、

その人の全信用は失墜し、すべての能力が疑問視されてしまう、これが世間なのである。

果たして、この「自称グルメ」男は、その後誰からも相手にされなくなり、孤立した。

もっとも本人は、全然懲りていないようで、

周囲を顧みず、相変わらずその後もいい加減な言動を繰り返している。

処置なしである。

「懲りないこと」も一種の才能、と考えれば、この男なりに精一杯世間を泳いでいるとも言えるが・・・


「得意分野」では、往々にしてハイパフォーマンスを求められる。

そして、ここでの失策は、大きな痛手になる。

だからこそ、「得意分野こそ慎重に」対応しなければならないのである。


今回の休暇では、
読書のための時間を結構とることができた。

和洋中(料理ではありません)、古典に現代、

バックギャモンやチェスなどゲーム戦術研究書、

漫画にエッセイ、ジャズ本、酒のうんちく本などなど、

そのジャンルは多岐にわたる。

本棚の奥から出てきたのがこれ。
少年幻燈館 (ビッグコミックススペシャル)/勝川 克志
¥900
Amazon.co.jp

ある友人が譲ってくれたもの。

訳あって、もうその友とは二度と会うことができないが、

とても郷愁をくすぐられる本である。


短い付き合いだったが、その友との交流は楽しかった。
別に喧嘩別れしたわけではないが、
いわゆる「大人の事情」で、もう会うことができない。

つまらない浮世のしがらみなど抜きにして、また会えればいいのだが、

残念ながらそれはできない。

せめてこの本で、その友とのわずかな思い出を反芻するのがせいぜい。


心ならずも終わらせないといけなくなる付き合いというのが、

大人になると出てくる。

世知辛いことである。

しかし、だからこそ、そんな「人間関係の有限性」をよくわきまえて、

せめて別れ際は、さわやかにしたいものである。
でないと、大切な思い出にまで泥を塗ることになる。


どうしてるのかなぁ。

ずっと前に購入しながら、読む機会がなく、
いわゆる「つん読」状態になっていた。


嫌われ松子の一生 (上) (幻冬舎文庫)/山田 宗樹
¥600
Amazon.co.jp

嫌われ松子の一生 (下) (幻冬舎文庫)/山田 宗樹
¥630
Amazon.co.jp

昨夜、6時間かけて一気に読破した。
見なかったが、映画とドラマがあったことは知っていたので、大体の筋書きは知っていた。
しかし、この物語は、やはり本で読むことを薦めたい。
結構、性的な意味でいやらしい描写が多い。
映像は見ていないのであくまで推測だが、
おそらく映像では、そのあたりがうまく描写しきれていないのではと感じた。

主人公の川尻松子は、もともと器用なタイプで、
何をやらせてもハイレベルにこなす。
しかしながら、いかんせん、その行動に大局観がないのである。
だから、くだらない災いや罠に簡単に嵌められてしまう。
また、脇が甘いところがあるから、ろくでもない男がすぐに蠅のようにたかってくる。

そんなハエ男たちに巻き込まれる形で、次から次へと、松子には災いがふりかかる。
かなり悲惨なエピソードのオンパレードだが、

なぜか、このストーリー全体にどことなくコミカルな雰囲気が漂う。


評価の分かれる作品かもしれない。
松子のような女性をかわいいと思えるかどうか、
それがこの作品の評価の分かれ目であろう。


愚かで、かわいい女。
川尻松子。

行业限批(hangyexianpi)



中国の国家環境保護総局が制定した行政処罰措置の1つ。

環境容量の総量を超過する汚染物排出を行なった企業に対し、

資源循環型のプロジェクトを除くすべてのプロジェクトについて、

一切の認可申請を認めないという制度。

汚染物排出の完全な是正が行なわれるまでこのペナルティーは継続する。


環境容量:環境が水循環・生物循環によって浄化できる汚染の許容量

今日は朝から、この曲が頭の中を駆け巡っていた。明日から9連休


Connie Francis 「VACATION

スランプか?
時間をかけて練習したことが、
全然レッスンで出せなかった。

もとより、自分の才能のなさは自覚している。
だからこそ、練習だけは他人に引けを取らないように努めてきたつもり。

まだまだ甘いのだろう。
奢らず、腐らず、進んでゆくのみ。
何かを成し遂げるのに、
待ち受けているのは平坦な道ばかりではない。
先日のダイヤモンドトレールと同じ。
黙々と難所と戦わなければならない場面もある。

こんなことでは引き下がらない。
どんなにダサくても、断固進む。


iPhoneからの投稿

和衷共济(hezhonggongji) 


(意味)心を一つにして、困難に立ち向かう


要人のスピーチではしばしば登場する、一つの決まり文句。


中国語にはこのようなパターン化された決まり文句がよくあるので、

そのパターンに乗っかってしゃべっていれば、一応もっともらしく聞こえるので便利。

スピーチが苦手でも、それなりにかっこが付くのが中国語の長所。

また、やみくもにボキャブラリーを増やすよりは、

要人のスピーチで引用された四字語を丹念に拾ってゆくことを学習の指針のひとつとすれば、

効率的に中国語を学習することができる。