今回は「人の思考手法」について考察します。
① 演繹法(ディダクション);規則「AならばBであり、BならばCである。」が正しければ、「AならばCである」が成立しますが、各要素[A][B][C]の定義が確立(固定化)されている必要が有ります。
例えば、「米は食料品であり、食料品はスーパーで売っている。」ならば「米はスーパーで売っている」が正しいように思えますが、「人の食料ではない米(動物の餌など)」や「米を売っていないスーパー」「米が品切れ中」の可能性も有り、事実が固定化されていません。
また、「Bの結果としてAが出来た」としても、AがB以外から出来る場合も有り、自然界では良く見られる「AならばBであるが、例外もある」場合は、「A=B」が常識だとしても、間違いである可能性は残されていて「科学」の対象になります。
当然ですが、「(正しいとされる)規則」を独裁者や民主主義(絶対多数も含む)で決める場合は「科学的」とは言えず、人類は多くの間違いを経験してきました。
② 帰納法(インダクション);「AならばBである確率が高い」は自然現象を良く説明していますが、「常識」の部類であり「科学」とは言えません。
「帰納法」は社会生活には必須のアイテムで、「思い込み」も多いのですが、個人で利用する場合は、統計的に処理(自然淘汰)されるので然ほど問題にはなりません。但し、為政者が利用すると「人工(人口)淘汰」に繋がる恐れがあります。
卑近な例では、「ワクチン接種とマスク着用で、感染症を防ぐ確率が高くなる。」は常識と言われるだけあって、何れも「科学的証拠」は存在しません。寧ろ現実を①の「演繹法」で言うと、
「感染予防対策を徹底した国は混乱が長引いた。」「混乱が長引く国は政治が未熟。」から、
「感染予防対策を徹底する国の政治は未熟。」
が成立し、これが正しいかどうかは科学的に証明でき・・・そうですww
③ 逆行推論法(アブダクション);観察された事実(と思われる)集合を対象に、その成立過程を考察し最良の結論(前提の規則)を得る手法。集合体の個別の事象に対する説明は充足していても、全体を推論した場合には、その「説明の正しさ」から導かれる結論は保証(一般化)されません。当然、「合成の誤謬」もあり得ます。
例えば、太った人の食生活を観察すると大概はカロリーの取過ぎなのですが、大食いギャル曽根の例があるように、大食いだから太るとは限りません。だからと言って、「事実を精査した結果、食べ過ぎても太るとは限らない」は、結論にはなりません。「例外の科学的根拠」を示す必要があります。
事故や故障の原因を調査する時には、当然ですが「逆行推論法」が有意です。「結果」が起こる前に何が起きたかを調査して、経験則で分かっている事象をその「原因」とします。但し、「その原因」によって必ず「その結果」が起こる保証は有りません。
例えば、マスク着用者が増えた原因を調査すると、「風邪の流行」「花粉の大量発生」などが過去の経験から分かりますが、最近の例では「マスクの着用は政府によるお願い」だったり「他人に対する思いやり」「仲間外れにされるのが嫌だ」などがあり、科学的ではないので「逆行推論法」が成立しない場合もあります。
それどころか、「政府の命令」でもないのにマスク着用者が増えているのは「感染症が大流行しているから」と「演繹法」で解釈されて「エピデミック(パンデミックの地方版)」に繋がる可能性すらあります。
「逆行推論法」を正しく利用するには、「間違った人為の介入(政治など)」を排除する必要が有ります。共産主義革命は「逆行推論法」を(逆)利用した結果なのですが、「例外」を強調する、現在で言う「Woke;(例外的な)目覚めた人」にありがちな「PoliticalCorrectness;(例外的な)政治的正しさ」を多用した事から、革命には成功してもその結果は悲劇です。
・マスク着用とワクチン接種で、感染症を抑えることが出来る。
・労働者階級が国を統治すれば、平和で平等な社会が生まれる。
などは、科学的に何の根拠もない「うわさ話」なので、結果として混乱を招いただけです。
「人為」と書いて「偽」と読むww