こんにちは 今日は56歳の時に脳出血で入院した時のお話します。今現在では、66歳になる僕ですが、時々スケートボードも乗ってます。

 過去に、55歳の冬になりますか、警備員の時に朝の出がけに携帯電話の充電コンセントを抜くことが出来なくなっていました。朝一の出発報告をするために、コンセントから携帯を引き抜いて電話をいれました。出発報告を受けた隊員に、携帯電話の電源コードの抜き方が分からなくなったと付け加えると、「椿さん、それ脳やられてますよ」と一言。とにかく、まず上番先へ向かい、交代の隊員が行くまで警備をして、交代後病院へ向かってください。指示を受け、その旨を、銀行の他の朝番の方々に異常個所を報告して、交代の隊員の上番を待ち交代しました。その後、支社長が僕の行く方向から、やって来て手を振り「椿君、脳なら東京女子医大が良いので、一緒に行こう」と同行してくれました。

 

 

 東京女子医大で検査を受け、「今なら、発見が早いので治りますよ」と結果報告を受け、但し東京女子医大は満床状態なので、東京女子医大の先生が出向している、板橋中央総合病院へ救急搬送しますとのこと、支社長と僕は救急車へ乗り込み板橋中央総合病院へ向かった。すべての検査が終わり、高血圧による脳血管の毛細管からの出血と診断された。しばらく、ベッドで眠り、ふと気づくと傍らに従兄が座っていた。僕は、言葉を即座に伝えることが、容易にできない状態になっていたが、上半身を起こそうとすると従兄は、「布団をかぶっていろ」と言った。従兄は、一級建築士でNTT系の設計会社に勤めていた。僕は、内心(言葉は急に出ないが頭の中では文型を形成していた)よく渋谷から来てくれたなと思いながら布団をかぶっていた。従兄は、しばらく座っていてから、一言言って帰って行った。それから、治療をしながら、毎日見舞いに来てくれる人が絶えずに、応対しているうちに少しずつ言葉も出るようになっていた。僕は、この時通信制の大阪芸術大学芸術学部建築学科で学びながら、警備業務で生計を立てていたので、こんなことになったら死にたくなるだろうと思ったこともあったが、看護士さんに時節柄クリスマスカードを貰ったりして、人に迷惑がかからないように生きて行こうと結論を出した。この時に、主治医から「椿さんは、幾つぐらいまで生きていたいと考えているか」を聞かれ、75歳くらいと答えると「75歳くらいなら、今癌だと言われても生きられますよ」と言われました。