チャイムが鳴った。
学生たちは、ほっとしたように鉛筆を置いた。
卒業試験ともなれば、普通の大学ならぴりぴりするところだが、ここ川本女子短大は、試験さえ受ければ卒業できるので、気楽なものである。
「圭子」
教室を出た中原圭子に、友人の夏木葉子が声をかける。
「今日でしばらく会えないし、お昼食べて帰ろ」
「そうね」
圭子と葉子は、購買に向かった。
購買で買ってきたパンを教室で食べながら、葉子が訊ねてくる。
「彼氏とは順調?」
その言葉に、圭子は、食べていたパンを詰まらせそうになり、あわててコーヒー牛乳を飲んだ。
今、その話はされたくない。
そこに、他の友人たちが何人かやってくる。
「圭子、もうすぐバレンタインだね」
みんなが口々に言う。
「彼とアツイ時間を過ごすんでしょ? うらやましいなぁ」
「もうプレゼント買ったの?」
「何買った?」
「ホテルで過ごすとか?」
圭子は何も答えずに、俯いていた。
「圭子?」
そんな圭子の様子に、葉子が怪訝そうな顔をする。
圭子は俯いたまま、曖昧な笑みを浮かべて言った。
「……別れようと思ってるの……」
一瞬の沈黙のあと。
「え~、なんでなんで~」
みんなが騒ぎ出す。葉子だけは神妙な表情をしていたが。
圭子はそれに答えずに、食べかけのパンをカバンに入れると、足早に教室を出た。
圭子は、合コンで知り合った、榎本章という二十三歳のサラリーマンと付き合っていた。
二年の短大生活の中で、ただ一度の合コンだった。
圭子はおとなしく、口数も少ないため、合コン好きの人たちからは敬遠されていた。
だけど、その日は、どうしても頭数が足りないと言うことで、圭子に声がかかったのだった。
合コンの席でも、圭子はソフトドリンクだけを飲んで、黙ったままだった。そこが章の目に、お嬢様っぽく映ったようだった。
圭子も、周りの友達はみんな彼氏がいるのに、自分だけいないというのが体裁が悪く、ここで彼氏が見つかればと内心思っていた。
そして、二人の交際が始まった。
最初のうちは、まあまあ楽しかった。
週末に映画やカラオケに行ったり、ドライブを楽しんでいた。
そんな時、章が圭子と一緒に一泊旅行したいと言ってきた。
圭子は戸惑った。
一泊旅行ということは、章と「深い関係」になるということなのだろうか。
二十歳を過ぎてこんなことを言うのはおかしいとは思ったが、圭子はまだ章とそういう風にはなりたくなかった。
でも、どう断ったらいいだろう。
圭子は仕方なく、章にメールした。
〈二人だけで旅行に行くことを、両親が反対しています〉
もちろんこれは言い訳だ。両親には章のことを話してさえいない。
だけど、ほかに言い訳が思いつかなかった。
ほどなく、章から返信が来た。
〈じゃあ、僕達の仲を両親に認めてもらえるようにがんばろう!〉
違う! 圭子は心で叫んだ。
圭子は、章と深く付き合うのが嫌なのだ。
この時点ですれ違いを感じた圭子は、迫っているバレンタインに、章と会わないことにした。
ところが。
それからしばらくして、また章からメールが来た。
〈旅行は無理でも、バレンタインは会えるよね〉
圭子はこのメールを不愉快に感じた。
男の方からバレンタインに会いたいなんて、催促しているようなものではないか。
圭子は言い訳を絞りに絞って、考え出した。
〈バレンタインはSNSのオフ会があるから会えません。ごめんなさい〉
バレンタインに会わないと言ったのだ。
どんなに鈍感な人でも、自分が嫌われていることに気付くだろう。圭子はそう思っていた。
ところが、バレンタインの翌日のメールは。
〈今度いつ会える?〉
章は気付いていないのだろうか。自分が避けられていることに。
すっかり疲れてしまった圭子は、章にメールした。
〈私達、少し距離を置いた方がいいんじゃないかしら〉
ややあって、章から電話がかかってきた。
「どうして急にそんなこと言うの?」
圭子は、何をどう言っていいかわからず、黙っていた。
すると。
「俺達のこと、両親が反対してるから?」
章の声が聞こえた。
「圭子ちゃん、もう二十歳なんだよ。親に言われてどうこうよりも、自分のことは自分で責任取る年じゃないの?」
「そうじゃないの」
圭子はやっとの思いで、それだけ答えた。
「じゃあ、何?」
どうしよう。正直に言ったら章を傷つけてしまうだろう。
「ごめんなさい」
圭子はそれだけ言って、一方的に電話を切り、携帯の電源を切った。
それから圭子は、章の電話番号とアドレスは着信拒否した。
章もあきらめたのか、最近は何も言ってこない。
本当に圭子とコンタクトを取りたいなら、PCからメールするとか、公衆電話から電話をかけるとか、方法はいくらでも思いつくだろうに。
このまま自然消滅になるだろう。圭子は思っていた。
かなり一方的でずるい別れ方だったかも知れない。
でも、初めて男の人と付き合ったのだ。
だから別れも初めて。
こんなものだろう。
*
杉本千晴は、まずは右目から、ゆっくりコンタクトレンズを入れた。
そして左目。
少しごろごろする。
千晴は、小学校高学年の時から、ずっと眼鏡をかけていた。そして、髪型もあの頃から変わっていなかった。二十二歳になった今も三つ編みヘア。
それに、スマホも持っていなかった。ガラケーの方が手になじんで好きだった。
「もう社会人になるんだから、三つ編みやめたら?」
「コンタクトにすればいいのに」
「就活するのに、スマホじゃなきゃ困るよ」
大学の友人に言われるたびに、千晴は腹が立っていた。
髪が三つ編みだと、就職できないというのか。
眼鏡をかけていて、何が悪いのか。
ガラケーは、使い勝手がいいのに。
――だけど。
情報処理の会社、システムコムにプログラマーとしての就職が決まって、新入社員の顔合わせがあった日だった。
千晴は、会場となる会議室の入り口で、気後れしていた。
女の子たちはみんなお化粧をしていて、派手にならない程度に、気品のあるネックレスやピアスをしていた。そして、一様にスマホを手にして、早速ラインとやらをしていた。
千晴はいつもの三つ編みヘアに眼鏡。化粧もしていない。ピアスホールも開けていない。
だから、さすがに自分が場違いのような気がしていた。
その時。
「こんにちは」
千晴の背後から、一人の男性が声をかける。
「あ、こんにちは」
反射的に返事をした千晴だったが、そこに立っていたのは、千晴と同じ新入社員とおぼしき青年だった。
「入らないの?」
彼は、人なつっこい笑顔で千晴に話しかける。
「あ、いえ、今入ろうと」
千晴は、あわてて中に入った。
「杉本さん、だったよね」
「はい……あの」
「あれ、忘れちゃったの?」
二人は、成り行きで同じ机に着いた。
「安藤です。安藤隆です。よろしく」
「あ、よろしくお願いします」
隆に導かれるように、千晴の中で、緊張が解けていった――。
初めてのコンタクトで何度もまばたきしながら、千晴は思っていた。
千晴はあの時、隆に恋をしたのだ。
だから、コンタクトにしようと思ったのだ。
髪も、もう三つ編みではない。ゆるくウェーブがかかったロングヘアになっている。
イメチェンした千晴を、隆が少しでもきれいだと思ってくれたら――。
三月の、春分の日の翌日から、千晴たち新入社員の入社前研修が始まる。
コンタクトにウェーブの髪。
千晴は緊張した面持ちで電車に乗り、浜松町にあるその会社に向かった。
すると。
千晴の前でスイカをタッチしている女性の後ろ姿に、見覚えがあった。
「――圭子さん?」
千晴がおそるおそる呼ぶと、彼女は振り向いた。
「中原圭子さんだよね?」
「……?」
圭子は少し考えて。
「……千晴さん?」
「うん!」
「うわぁ、久しぶり!」
「ホントね!」
彼女は、同じシステムコムの総務に入社する、中原圭子だった。短大卒だから、千晴より二つ年下だ。
あの顔合わせの日、スマホを持っていなかった女子は、千晴と圭子だけだった。だから、二人だけでメアドを交換した。
歩きながら、圭子が話しかけてくる。
「千晴さん、コンタクトにしたの?」
「うん」
「髪型も大人っぽくていい感じ」
「ありがとう」
千晴は少しうれしくなった。
「でも、よかった」
圭子が言う。
「一人で会社まで行くのは不安だったから。途中で千晴さんに会って」
「そうね、私も」
会社に着いた。
受付の女性に案内されて、千晴と圭子は、顔合わせの時と同じ会議室に入った。
千晴はすぐ、隆を探した。
隆は、他の男子社員二人と談笑していた。確か、茶髪の方が岡林瞬で、赤いネクタイの方が広瀬健人。
その健人が、千晴に気付く。
「もしかして……杉本さん?」
驚いている健人に、千晴はこくりと頷いた。
「イメチェン? きれいきれい」
「ありがとう」
「そうね、その方がいいみたい」
千晴が苦手と感じた女子社員の北沢由季も、抑揚のない声で言った。他の人たちも頷く。
「よかったね、千晴さん!」
千晴の横で圭子が言うが、千晴はそっと隆の様子を見た。
隆も千晴を見てはいたが、何も言ってくれない。
千晴には、それが少し淋しかった。
*
総務に配属になった圭子は一人、他のみんなとは違う研修を受けた。
一日の研修が終わり、ロッカー室に入ると、同じ新入社員の北沢由季がいた。
「あ、お疲れ様」
由季が先に声をかけた。
「お疲れ様」
圭子も返事をした。
「どう? 総務の研修」
「覚えることがたくさんあって、大変」
「こっちもよ」
そんな他愛もない話をしながら着替えを済ませ、一緒にロッカー室を出た。
「ねえねえ」
由季は、声を改めた。
「中原さんって、彼氏いるの?」
「えっ……」
圭子は言葉に詰まった。
章とはあのまま、宙ぶらりんなのだ。
戸惑う圭子に、由季は突っ込みを入れる。
「あ、いるんだ」
「いや、なんて言うか、微妙」
「隠さない、隠さない」
そんなことを言いながら、二人で会社の玄関を出た。
圭子はこのまま、由季と一緒に帰るのだと思ったが。
「じゃ、お疲れ様でした」
由季はそう言って一人歩いて行くと、少し前を歩いている山岸千佳に追いつき、一緒に歩き始めた。
由季のこの行動は、圭子を傷つけた。
そりゃ、章のことを根掘り葉掘り訊かれるのは望むところではないけど、圭子だって由季や千佳と同期なのだから、一緒に帰ってくれてもいいのに。
二人は圭子の少し先を、ぶらぶら歩いている。
圭子は一人。
まずい。
このままだと、追いついてしまう。
追いついた時、どんな顔で追い越せばいいのか。
それとも、合流して一緒に歩いた方がいいのか。
でも、由季はある意味圭子を拒絶した。
そうしたら、やっぱり追いつかないようにゆっくり歩くか、どこかのコンビニで時間をつぶした方がいいのか。
そんなことを考えながら歩いていると。
「中原さん」
圭子を呼ぶ男性の声がした。
振り返ると、同期の男子社員の安藤隆だった。
広瀬健人と、岡林瞬もいる。
ぺこりと会釈する圭子に、隆が言う。
「一緒に帰ろう」
「え……ええ」
高校も短大も女子ばかりの圭子だった。章以外の男の人と並んで歩くのは、なんだか照れくさい。
「健人、瞬。彼女が期待の新人、総務の中原さんだよ」
隆が屈託ない笑顔で言う。
「知ってるよ」
健人が返すが、瞬は黙って頭を下げただけだった。
交差点を曲がると、由季と千佳は車道の向こう側、圭子たちはこちら側になった。
そのため、みんなは由季たちに気付かず、二人を追い越した。
圭子はほっとした。
「どう? 総務の研修大変?」
隆が由季と同じことを訊ねてきたが、由季よりもあったかい感じがしたのは気のせいだろうか。
「ええ、まあ」
圭子は頷いた。
「でも、プログラマーの研修も大変みたいですね」
「まあね」
隆は苦笑した後で。
「同期なんだから、敬語なんか使わなくていいよ」
「……うん」
隆に言われて、圭子はほっこりとした気分になった。
そうして、四人で駅まで歩いて言った。
後ろを歩いている由季と千佳の視線には気付かなかった。