ミコトは退院して、自宅療養に入った。
 ある日、ミコトからルネのスマホに、おでんが食べたいというメールが入ったので、ルネはおでんの材料を買って、ミコトのアパートに行った。
 呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは健二だった。
「あら」
「ああ、ルネさん。入って」
「うん」
 ROSYのメンバーが交代でミコトに付き添ってるって言ってたっけ。
 ルネは、ブーツを脱いで中に入った。
「ミコト、今眠ってるんだ」
「そう。――ミコトのリクエストで、おでん作ろうと思って材料買ってきたの。健二さんも食べるでしょ」
「そっか。それは嬉しいな」
 健二は、白い歯を見せて笑った。
 健二に続いて部屋に入ると、ミコトは万年床で、落ち着いた表情で眠っていた。
「ルネさん」
 健二は、声を改めた。
「今、ミコト落ち着いてるみたいだから。ちょっと、いいかな」
「うん……」


 部屋を出た健二は、アパートの階段に座った。
 ルネもそうした。
「ミコトはさ」
 健二は切り出した。
「ルネさんと同じなんだ」
「えっ?」
「ルネさんと同じ痛みを抱えてるんだ」
「うん」
 修吾に刺されたことを言っているのかとルネは思ったが。
「いや、刺されたことじゃなくて」
 健二の話はこうだった。
 二年前、ミコトは高校の同級生の女の子と恋に落ちた。
 その恋を、ミコトより少し年上の健二たちは、ほほえましく見守っていた。
 ところが。
 彼女が妊娠してしまった。
 ミコトは当然、自分が父親になるつもりで、彼女にプロポーズしようとした矢先だった。
 彼女は元カレに同意書を書いてもらい、中絶したばかりか、元カレとよりを戻してしまったのだ。
「――それ以来、ミコトは女の子とは距離を置くようになったんだ」
「……そんなことが……」
 それで、ミコトはルネを自分のものにしようとしないのか。
 あの時、ライブハウスで女の子に水をぶっかけられたのも、そういうことが原因だったのかもしれない。
「だからさ」
 健二は振り返り、ルネの方を向いた。
「なんて言うか、ルネさんなら、ミコトのことわかってもらえるのかなって思えたんだ。ルネさんは、今度のことがある前から、ミコトに『恋人になって』とか迫らなかっただろ」
「それは……」
 ルネだって、ミコトと恋人になれるものならなりたかった。
 だけど、そうなる術を知らなかっただけだ。
「ルネさんは、ミコトのことが好きなんだね」
 不意に健二に言われて、ルネは思わず顔を上げた。
「私……」
「時間はかかると思うけど、待っててくれないかな。ミコトだって脈ありだと俺は思うよ。ただ、そういうことがあったから、臆病になってるんだよ。ルネさんだってそうだろ?」
「ええ、まあ……」
「いつか、時間が解決するよ」
 その時、健二の携帯が鳴った。
「もしもし。――ああ、ミコト、起きたの? ごめんごめん、今、ルネさん来てるんだ。ルネさんおでん作ってくれるって言うから。楽しみにしてろ。――わかった。これから帰るよ」
 健二は電話を切った。
「じゃあ、行こうか」
 健二が立ち上がり、ルネもそれに続いた。


 その夜、ルネは一人、自分の部屋で電話を前に座っていた。
 田舎の両親に言わなければならない。
 修吾を訴えるためには、それをしなければならない。
 しかし、なかなか決心がつかず、何十分も電話の前に座っていた。
〈親に言えないようで、法廷に立てるの?〉
 ルネは自分に言い聞かせると、えい! と受話器を上げ、実家につながる短縮ダイヤルを押した。
 四回のコールサインの後。
「もしもし」
 母が出た。
「私、ルネ」
「ルネ、どうしたの? こんな時間に」
 母のその言葉に、ルネは、いつの間にか日付が変わっていたことに、初めて気づいた。
「お母さん。私ね……」
 なかなか言い出せないルネだった。
「私……」
「ルネ、何があったの」
 母の声に、ルネはつかえつかえ言った。
「私……男の人に……」
 これだけではわからないだろうと思ったルネだったが、その先がどうしても言えなかった。
 やがて、母の声が聞こえた。
「強引に、なの?」
 母の声は濡れていた。
 ルネはあわてて付け加えた。
「されたわけじゃないの。ちょうど友達が助けてくれて。でも、その時のこと思いだすと、怖くて……」
「ルネ……かわいそうに……」
 母のすすり泣きが聞こえた。
 ルネも、あの時の恐怖とショックがフラッシュバックして、涙がこみ上げてきた。
「大丈夫なの? 会社へは行けてるの?」
「……実は、ずっと休んでるの……」
「そんなことになってるのなら、どうして早く言ってくれなかったの」
「だって、言えばお父さんもお母さんも悲しむでしょ?」
「それにしたって……」
 しばらく、二人で泣いていたが。
 このまま泣き続けてもらちがあかない。ルネは本題に入った。
「それでね。その友達のお父さんが弁護士を立ててくれるって言うの。だから……」
「そう。じゃあ私たちも、ご挨拶に行かないとね」
「うん……」
「お父さんと相談して、まだ電話するね」
「うん、ありがとう」
 ルネは電話を切った。
 もっときちんと話さなければならないことはわかっていたけど、涙が止まらず、声にならなかった。
 こんなことじゃ、修吾と戦えない。
 いくら自分に言い聞かせてもだめだった。
 その夜、ルネは夜遅くまで泣き続けた。


 その二日後、ルネの両親は上京してきた。
 ミコトも外出できるようになっていたので、ミコトの両親と六人で、喫茶店に向かい合った。
 ミコトの父親が、ルネとミコトに起こったことを詳しく話した。
「ルネ、ごめんね」
 ルネの母は、ハンカチで目頭を押さえた。
「私たちがルネに結婚をせかしたりしたから、焦ってそんな人とお付き合いしちゃったのね」
「謝らないで。私だって、告白されて有頂天になっちゃったのよ」
 ルネは、気丈に笑顔を見せた。
 ルネの母は、ミコトの父の方を向いた。
「娘にこんなによくしていただいて、何てお礼を言っていいか……」
「大丈夫ですよ。今度のことは、私どもにおまかせ下さい」
「よろしくお願いします」
 ルネと両親は、頭を下げた。


 ミコトの家族と別れたルネたちは、ルネの両親が泊まるホテルの一室に場所を移した。
 二つのベッドの一つにルネ、もう一つに両親が向かい合って座る。
「ルネ」
 母が切り出す。
「家に帰ってきなさい。こんなことになってまで、一人で東京に置いておくのは、お母さん心配よ」
「そうだ」
 父も同調する。
 ルネは返事をしなかった。
 確かに、こんなことになってしまった以上、田舎に帰って、両親と暮らしたい気もする。
 でも、それをしてしまったら、ミコトに会えなくなる。
「何を迷うことがあるんだ」
 返事をしないルネに、父が追い打ちをかけたので、ルネは思い切って言った。
「私、ミコトと離れたくないの」
 両親は、顔を見合わせた。
 少しの沈黙の後、母が訊ねる。
「あの子のことが好きなの?」
 次は、もっと長い沈黙が部屋を包んだ。
 その間、ルネは考えた。
 修吾に乱暴されたばかりのルネが、ミコトを好きだなんて言ったら、両親はどう思うだろう。
 そればかり考えていたが、それでは埒があかないと思い、俯いたまま、こくりと頷いた。
「そう……」
 母の声が聞こえた。
「でも、よかった」
「えっ?」
「こういうことがあっても、ルネが男の人を好きになる気持ちを忘れなかったことがよ」
「……そうだな」
 父の声も聞こえる。
 ルネは顔を上げた。
 両親が、こんな親不孝な娘に向かって微笑みかけている。
 ルネは、涙が出そうになるのを懸命に堪えた。
「あ」
 ルネは涙を呑み込むと、あわてて付け加えた。
「ミコトとは、付き合ってるとかじゃないのよ。私が一方的に好きなの。ミコトは私のこと、友達くらいにしか思ってないのよ」
「それは、今はどっちでもいいことよ」
 母が答える。
「今は、好きだという気持ちを大切にしなさい」
「うん……」
 確かにそうだ。
 ミコトと恋に発展するよりも、ああいう目に遭ってなお、人を好きになれるということの方が大事なのかもしれない。
「さて」
 ルネは立ち上がった。
「私、帰るね」
 すると、父が財布から一万円札を出した。
「これで、タクシーに乗って帰りなさい。もう遅いから」
「やだ、いいのよ、自分で払うから」
「いいから」
 父は、お金をルネの手に握らせた。
「……ありがとう」
 ルネは今日ほど、両親のありがたみを感じたことはなかった。
 長い戦いになるだろう。
 それでも大丈夫。
 みんながついている。


 ミコトは怪我も完治した。
 そして、またあのライブハウスのステージに立つことになった。
 あのことがあって以来、ライブハウス側も、充分な警戒をしているので、大丈夫だろうと思っていた。
 いや、正確には、ルネは自分にそう言い聞かせていた。
 胸の奥によぎる不安を拭えずにはいた。

 そして。

 ライブを翌日に控えた日の夜。
 夕食を済ませ、食器を洗っていたルネに、健二から電話がかかってきて、ルネは健二の病院へ駆けつけた。
 今日、リハーサルをしていたミコトが、突然床に突っ伏して嘔吐したという。
 それを聞いたルネは、自分でも驚くほど冷静だった。
 ああ、やっぱり。そう思った。
 ルネがそうであるように、ミコトが心に受けた衝撃は、そんなにたやすく消えるものではなかったのだ。
 それはわかっていた。

 健二に指定された通用口に行くと、健二はもう待っていた。
「ごめん、こんな時間に」
 健二は謝った。
「いいのよ。それよりミコトは?」
「今点滴してる。明日もライブの前に点滴すれば大丈夫だって」
「そう」
 健二の後をついて病室に入ると、いつかと同じように、ROSYの他のメンバーが手前のベッドに座っていて、奥のベッドで、ミコトが点滴を受けていた。
「ルネ……」
 ミコトは意識があり、ルネを呼んだ。
「ミコト」
 ルネは、ミコトの枕元に歩み寄った。
「大丈夫?」
「うん。……あのさあ……」
 ミコトが、かすれた声を漏らす。
「……今夜、ルネのところに泊まっちゃだめかな……」
「えっ?」
 ルネは正直、戸惑った。
 ルネが戸惑うことを、ミコトはわかっていたようで、すぐ付け加えた。
「ルネが嫌がるようなことはしないから」
「……」
 ルネは少し考えた。
 今のルネは、男の人とは距離を置きたい。
 でも、ミコトなら。
 今の言葉に嘘はないなら。
「……わかったよ」
 ルネは、ミコトを安心させるように、笑みを見せた。
「こたつで寝るのでよければ、うちに泊まって」
「ありがとう」
 ミコトも笑みを見せた。


 点滴が終わると、ルネとミコトは連れだって病院を出た。
「シャワー借りていいかな。吐いた時に、変な汗かいちゃって」
「いいけど……うちに、男モノのシャンプーとかボディーソープがないな」
 そういうわけで、ミコトは途中でコンビニにより、シャンプーとボディーソープを買って行った。
 ルネのアパートに着いた時には、日付が変わっていた。
 明日の(もう今日だが)ライブに備えて、ミコトはゆっくり休まないといけない。二人は交代でシャワーを浴びると、少しお茶を飲んで話しただけで、すぐに灯りを消した。
 ミコトは、座布団を枕にして、こたつで眠っている。
 ベッドに入ったルネは、なかなか寝付けなかった。
 男の人を部屋に泊めるなんて、初めてなのだ。
 もしも、ミコトの気が変わったらどうしよう。
 そう思うと、とても眠れなかった。

 どのくらい時間がたっただろう。
「ルネ」
 暗闇の中で、声がした。
「寝ちゃった?」
 ルネは一瞬、眠ったふりをして返事をしないでおこうと思ったが。
「起きてるよ」
 良心の呵責からか、返事をしてしまった。
 目を開けると、薄明かりの中で、ミコトが半身を起こしていた。
 ルネもそうした。
「眠れないの?」
 ルネの問いに、ミコトのシルエットが頷く。
 そして、ミコトの言いにくそうな声が聞こえた。
「……ベッドへ行っていい?」
「えっ?」
〈来た!〉
 ルネは身を固くした。
「あ、いや」
 ミコトの声が続く。
「約束する。ルネが嫌がることは絶対にしないから。ルネが隣で寝てくれるだけで、安心して眠れるような気がするんだ」
「……」
「……それとも、それも嫌なのかな……」
「う、ううん」
 ルネは、思わず答えてしまった。
「……本当に……」
 ルネは、念を押した。
「本当に、私が嫌がることはしない?」
「しない」
「わかった」
 ルネは微笑むと――暗がりのなかで、ルネの笑顔がミコトに見えたかどうかはわからないが――枕をずらして、ミコトのスペースを作った。
「いいんだね」
「うん」
 ミコトは枕代わりの座布団を持って、おずおずとベッドに入った。
 二人は、ベッドに横たわった。
 あおむけになっていたルネの腕を、ミコトがつかむ。
 ルネの肩に、ミコトが額を寄せる。
「……眠るまで、こうしてていい?」
「いいよ」
 ルネは、体をミコトの方に向け、そっとミコトを抱き寄せ、髪にくちづけた。
 自分から誰かにキスをしたのは、初めてだった。
 そして、そんな行動に出た自分に、ルネ自身驚いていた。
 何となく、急にそうしてあげたくなったのだ。
 ただ、それは、恋人同士の甘い行為ではなく、小さな子供を寝かしつけるような感覚だった。
 それからルネは、ミコトの髪を撫で続けた。
 そのリズムに引き込まれるように、ミコトはすぐに寝息を立て始めた。
 ルネはやっと安心して、目を閉じた。
 本当は、よかったんだ。
 ミコトの言うところの「ルネが嫌がること」をされても、相手がミコトなら大丈夫のような気もしていた。
 ――でも。
 こうしてミコトと寄り添っていると、不思議なほど心が落ち着く。
 一人で眠るより、心地いいかもしれない。
 そうして、ルネもいつしか眠りに吸い込まれた。


 翌日、健二に言われた通り、ミコトはもう一度点滴を受けた。
 昨日から、すっかり落ち着いている様子だし、大丈夫だろう。ルネは思った。
「ルネさん、少し時間ずらして会場に行ってくれる?」
 ミコトに付き添っていたルネに、健二が言う。
「ファンの子に見つかると、面倒なことになるから」
「そうね」
 何だか、芸能人の恋みたいだ。
 ルネは、すこしくすぐったく感じた。

 点滴が終わり、会場に向かうミコトに、
「ミコト」
 ルネは、小さくガッツポーズを見せた。
「しっかりね」
「うん」
 ミコトは微笑んで、Vサインを見せた。
 メンバーと一緒に会場に向かうミコトの後ろ姿を見ながら、ルネはふと思った。
 いつか、ミコトと並んで会場に入ることができるだろうか。
 ルネもミコトも、今の心と体に受けた傷跡が薄れる頃。
 二人が、本当の意味で心を開くことができる頃。
 ミコトたちがエレベーターの中に消えた後も、ルネはいつまでもそこに立ち尽くしていた。