翌日。
 仕事を終えたルネがライブハウスに行くと、ミコトはもう来ていた。
「こんばんは」
 ミコトは、屈託ない笑顔をルネに向けた。
「こんばんは」
 ルネもそうして、ミコトの向かい側に着いた。
「何でも好きなもの注文して下さい。ハンカチのお礼に、今日はおごりますよ」
「いいですよ。大したことじゃなかったんだから」
「いえ、本当に」
「そうですか? じゃあ……」
 テーブルの上には、グラスに入ったビールと、簡単なおつまみが乗っていた。
「……私もビールにしようかな」
「そうしましょう。すみませーん、ビールもう一つお願いします!」
 ほどなく、ルネのビールが運ばれてきた。
「それじゃ、乾杯しましょう」
 二人はグラスを合わせた。
 なんだか夢みたいだ。
 こうして、ミコトと向かい合ってビールを飲むなんて。
「あ、そうだ」
 ミコトは、横にあった紙袋をルネに差し出した。
「ハンカチ、ありがとうございました」
「いえ」
 ルネは、紙袋を受け取った。
 中には、きちんとアイロンをかけたハンカチが入っていた。
「確かに」
 ああ、だめだ。ルネは思った。
 こうしてミコトを前にすると、あの、ライブの時に感じた、指先まで水が満ちていくような感覚がもどってくる。
 よく、息もできないほど好きとかいう唄があるけど、それって本当なんだと思った。
 ミコトの前に座っていると、息をするのも大儀だ。
 こんなにも、こんなにもミコトをが好きなのだ。
 その時、ルネのスマホが着信を告げた。
 見慣れない番号だ。
「ちょっとごめんなさい」
 ルネは席を外すと、電話に出た。
「もしもし?」
「ルネちゃん?」
 修吾の声だった。
「イエデンからかけてるんだけど」
 ルネは何も言わずに電話を切ると、スマホの電源も切った。
 ミコトとの時間を邪魔してほしくない。
「ごめんなさい」
 ルネは笑顔を繕ったが、その裏の動揺を、ミコトは見事に読み取った。
「もしかして、昨日泣いてたことと、今の電話と関係あるの?」
「えっ……」
 不意を突かれたルネは、正直に話してしまった。ごまかすことすらできない不器用な女なのだ、ルネは。
「実は、彼氏と別れようと思ってるの」
「そう」
 ミコトは、難しい顔をした。
「俺に言われる筋合いないって思われるかもしれないけど、そういうことなら、避けてないで、きちんと言った方がいいと思うよ」
「ええ、そうなんだけど……」
 まさか、この年になって、初めての彼氏だからどう切り出していいかわからないなんて言えない。
「まあ、俺もみっともないところ見られちゃったけど」
 ミコトは、困ったように笑みを見せた。
「やめよう、こんな話」
「ええ」
 ミコトの心遣いが、ルネには嬉しかった。


 そして、ビールを飲み、料理を進めていると、ミコトが唐突に言った。
「何だか、ルネさんと話してると、気分が軽くなる」
「えっ?」
 ミコトの突然の発言に、ルネは激しく動揺した。
 それって、どういう意味なんだろう。
「よかったら、また会ってくれるかな」
「……」
 ルネが答えられないでいると。
「あ、いや、付き合うとかじゃなくて。なんて言うか、友達になってほしい、なんて変かな」
「ううん」
「俺も、しばらく恋愛は勘弁してって感じだから」
 ミコトは苦笑した。
「ルネって呼んでもいいかな。俺のこともミコトって呼んで」
「ええ」
 思わずうなずいてしまったルネは、はたと気づいて訊いた。
「ミコト君」
「ミコトって呼んでってば」
「ミコト、何歳?」
「十九」
 じゅうく。
 その数字に、ルネは一瞬眩暈を覚えた。
「私、二十六なんだけど」
「えっ?」
 ミコトは、目を丸くした。
 ルネは続けた。
「さっき言ったこと、撤回してくれてもいいんだよ」
「撤回なんかしないよ。二十二くらいだと思ってたから、ちょっとびっくりしただけ。恋人になるわけじゃないんだから、年なんて問題にしないよ」
「そう、ならいいんだけど」
〈恋人になるわけじゃないんだから〉
 その言葉は、少しルネを淋しくさせたが、仕方ないといえば仕方ない。
「来週ライブやるんでしょ。チケット買ったよ」
「本当に」
 ミコトは、嬉しそうに目を輝かせた。
「ありがとう。じゃあライブの後会えないかな。ライブの感想聞きたい」
「わかった」
 ビールと料理も尽きたので、二人は次の約束をして、店を出た。


 帰宅したルネは、スマホの電源を入れた。
 案の定、修吾から留守電が入っている。
「何か、急に避けられるようになっちゃったけど、俺、何か悪いことしたかな」
 ルネは決心して、修吾に電話をかけた。
 ミコトが言ったからだろう。
 修吾に別れを告げようとしたのだ。
「もしもし、ルネちゃん?」
 修吾の声が聞こえる。
「こんばんは」
 ルネは、神妙な声であいさつした。
「俺が何か気に障ることしたなら、はっきり言ってくれないかな。謝るから」
「修吾さん」
 ルネは、息を吸って続けた。
「ごめんなさい。私、やっぱり修吾さんとは付き合えない」
 修吾の返事は聞こえない。
 どれくらいの沈黙が流れただろう。
「俺の何が不満なの」
 修吾の震える声が聞こえた。
 ルネは、用意しておいたセリフを言った。
「不満じゃないの。修吾さんと付き合っててメリットになることが何もないの。修吾さんといると疲れるの」
「疲れさせないようにするから、考えなおしてくれないかな」
「だめよ」
 ルネは、もう一つ用意してあったセリフを言うことにした。これは、修吾が納得してくれなかった時に、最後の切り札として言うつもりの言葉だった。
「それに私、他に好きな人ができたの」
 もちろん、ミコトのことだった。
 ルネは、ミコトに恋愛感情を持っているのだ。
 ミコトにとってルネがただの友達でも、ルネは違う。
 ――再び、沈黙が流れた。
 さっきより、もっともっと長い沈黙だった。
「もしもし、聞いてる?」
 沈黙に耐えかねてルネが言うと。修吾の低い声が聞こえてきた。
「ルネちゃん、二股かけてたの?」
「そうじゃないの。修吾さんと付き合い始めてから、その人のこと好きになったの。ごめんなさい。さよなら」
 ルネは一方的に電話を切った。
 ずるいかもしれないけど、男と付き合う術も知らないルネが、別れる術など知るはずがなかった。


 次のROSYのライブも、また素敵だった。
 ステージに立つミコトって、どうしてあんなに神秘的なんだろう。
 ライブの後、ルネは指定されたファミレスで、ミコトを待っていた。
 ドリンクバーのジンジャーエールは、ただの甘い炭酸水だった。
 どこかの居酒屋で飲んだのは、きちんと生姜の味がしたのに。
 そんなことを考えていると。
「ごめん、ごめん。待った?」
 ルネの前に、サングラスをしたミコトが現れた。
 Tシャツとジーンズに着替えているが、ライブの名残か、それともここまで急いで来たからか、頬が上気している。
「いいのよ、おひとり様は慣れてるから」
 ルネがそう言えば、ミコトは安心したように、ルネの向かい側に座って、サングラスを外した。
「ファンの子たちに捕まっちゃってね。なかなか店出られなくて。あ、晩飯は?」
「まだだけど」
「じゃ、ここで食べよう」
 ミコトは、ファミレス定番の大きなメニューを広げた。
「ねえ」
 ルネもメニューを選びながら、ミコトに訊いた。
「今日のライブって、何回目?」
「さあ、数えてないから……」
「いつも緊張するの?」
 今日のライブのオープニングもまた、ミコトの手は震えていたのだ。
「そりゃ、いつも緊張するよ。あ、俺、これにしよ」
 ミコトは、和風ハンバーグを指した。
「じゃ、私もそれにする」
 ルネは本当はパスタが食べたい気もしたが、パスタは修吾を思い出させる。
「だって、俺がなんでマイク持たないで、スタンドマイクで歌ってるか知ってる?」
「ううん」
「手汗がすごくて、最初のライブで滑って落っことしちゃったんだ」
「ふふ」
 ミコトといると、楽しい。
 そして、ルネは思う。
 やっぱりこの人が好きだ。
 恋人になれなくてもいい。この人のそばにいたい。
 こうして二人の時を過ごしたい。
「今日は私がおごるよ」
「え~。いいよ。俺が」
「じゃあ、この次おごって。今日は素敵なステージを見せてもらったお礼」
 ルネが言えば、ミコトは照れ臭そうに笑った。
「ありがとう」
 二人は、笑みを交わした。


 それから、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬の足音が聞こえてくる頃には、二人は頻繁に会うようになっていた。
 ミコトは、あのパスタ屋でアルバイトしながらバンド活動をしているので忙しく、なかなか時間が作れなかったが、月に二、三回はルネと食事してくれた。
 夏が終わり、秋が来るころには、お互いの家に行き来するようになった。
 と言っても、ルネが作った食事を二人で食べるだけで、それ以上のことも、それ以下のこともなかった。
 二人は、「いいお友達」のラインを壊さずにいたのだった。
 ミコトと出会うまで、料理もろくすっぽ知らなかったルネだが、今はかなりのレパートリーができた。
 今日も、アルバイトが終わったら、ミコトはここに来る。
 そろそろ来る頃だ。
 ルネはわくわくしながら、グラタンをオーブンに入れた。
 その時、呼び鈴が鳴った。
 ミコトだ。
「はーい」
 ルネは玄関に駆け寄り、思いきりドアを開けた。
 そして。
 次の瞬間、ルネの表情が凍りついた。
 ――そこには、修吾が立っていた。
〈しまった〉
 なんて不用心だったんだろう。
 ミコトと信じて疑わなかったから、ドアチェーンを開けて、鍵を開けてしまった。
 何のためののぞき窓だったんだろう。
 考える間もなく、修吾は後ろ手でドアを閉めた。
「……何するのよ」
 ルネの声が震えた。
「ねえルネちゃん」
 修吾が、一歩ずつ迫ってくる。
 それに呼応するように、ルネは一歩ずつ下がった。
「俺、ルネちゃんがいないとだめなんだよ。考えなおしてくれないかな」
「今さら何言ってるのよ」
「俺の何が気に入らないっていうの?」
 ルネは足を止めた。
 これ以上下がると、部屋に入ってしまう。
 部屋にはベッドがある。
 ベッドを見たら、修吾はきっと――。
「何で俺じゃだめなんだよ!」
 修吾はそう叫ぶと、両手でルネの肩を掴み、部屋に押し込んだ。
「いやっ!」
 抵抗するも空しく、ルネはベッドに押し倒された。
 修吾がのしかかってくる。
 チュニックの中に手を入れられる。
「いやーっ!」
 ルネが叫ぶも、修吾はルネのレギンスと下着を剥ぎ取った。
 もうだめだ、ルネが思った時。
「やめろ!」
 声がした方を見ると、ミコトが来ていた。
「ミコト! 助けて!」
 ミコトは、修吾に飛びかかった。
 修吾がそちらに気を取られている間に、ルネは修吾を押しのけた。
 ミコトと修吾は、同時にベッドから落ちた。
「ミコト!」
 ルネは、ミコトに駆け寄った。
「大丈夫?」
「俺は大丈夫、ルネは?」
「私も……」
 二人がお互いの無事を確かめ合う間もなく。
「このやろう……」
 修吾が起き上がる。
 ミコトは、ルネの盾になるように、ルネの前で両手を広げた。
 その時、オーブンが鳴った。
 グラタンが焼けたのだ。
 その音に、修吾は急に気分が萎えたようだった。
「そうか。二人で飯食う予定だったのか」
 修吾は、一人で喋り続けた。
「ルネちゃん、俺に飯作ってくれたなんて、一度もなかったね」
 修吾は、それだけ吐き捨てると、部屋を出ていった。