翌週の土曜日のランチに、ルネは修吾に連れられて、銀座のレストランに行った。
「ルネちゃんってさあ」
 パスタをフォークで巻きながら、修吾は訊ねてきた。
「今まで何人の男と付き合ってきたの?」
「えっ?」
 ルネは戸惑った。
 彼氏いない歴二十六年なんて言ったら、引くだろうか。
 そんなルネに、修吾は追い討ちをかける。
「まさか、俺が初めてってわけじゃないでしょ?」
「う、うん」
 売り言葉に買い言葉で、ルネは返事をしてしまった。
 修吾は口に運んだパスタを呑み込むと、身を乗り出してきた。
「で、何人?」
「ひ、一人よ、一人」
 ルネは嘘を言ってしまった。
「え、一人しかいないの?」
 それでも修吾にはカルチャーショックだったようだ。
「じゃあ、その人と俺、どっちがいい?」
「そりゃあ修吾さんよ」
 ルネは作り笑いした。
 それを聞くと、修吾は安心したように笑みを見せた。
「俺も、前の彼女よりルネちゃんの方が安心するな」
「そう?」
 その時、ウェイターがお冷のお代りを注ぎに来た。
「あ、すみません」
 と、顔を上げたルネは、思わず目を見張った。
 どこか幼さの残る顔立ち。
 毛先だけ赤く染めた髪。
 ――彼は、まぎれもない、ミコトだった。
 ライブの時とは違う、普通の男の子って感じだけど。
 名札には「実習生 夏木」とあった。
 やっぱりミコトだ。
 ルネは、声をかけようかと思った。
 だけど、修吾の手前、それはできなかった。
「ルネちゃん、ピアスの穴はあけていないの?」
 ルネの動揺に気付いていない修吾は、呑気にそんな話をしていた。
「え、ええ」
 ルネは、あわてて返事をした。
「俺の前の彼女はピアスしててね。何か行事がある度に、高いピアス買わされたよ。付き合って何か月目の記念日とか言うんだよ、俺の給料は毎月ピアス代――」
 ルネはもう、修吾の元カノの愚痴話を聞く気にはならなかった。
 ミコトに伝えたい。
 ミコトの歌声が、ROSYのライブが、どれだけルネを震撼させたか。
 でも。
 ここでミコトが働いてるとわかったら、また一人で来ればいい。
 そうしよう。
 正直に言って、ミコトとコンタクトを取るのに、修吾は邪魔だ。
 修吾のいない時に、あの時の感動を、ミコトに伝えよう。
 目の前の修吾に適当に相槌を打ちながら、ルネは決心した。


 帰宅したルネは、すぐに口紅を拭きとった。
 でも。
 まだ、唇に修吾の温度が残っているような気がした。
 そう。
 修吾は、別れ際にルネにキスしてきた。
 二十六歳にして、初めてのキス。
 それは、思っていたほどロマンチックではなかった。
 唇の周りが、修吾の唾液で汚れただけのような気がした。
 メイクを全部落とすと、再びROSYのCDを聞き始めた。
 ミコトの声って、どうしてこんなにいいんだろう。
 そして。
 いけないことだとわかっていても、考えてしまう。
 ルネが初めて唇を合わせた相手がミコトだったら、どんなによかっただろう。
 そう思って、ルネはひとり苦笑した。
 あんなにきれいなミコトだもの。きっとかわいい彼女がいるに違いない。
 いや、バンドやってる人って、結婚とか早いから、もう妻子持ちかもしれない。
 ――あの時は舞い上がっていたから、あのお店にもう一度行って、ミコトとお近づきになりたいなんて思ったけど。
 いざとなると、なかなかそんな勇気はない。
 そうだ。
 ROSYのライブに、もう一度行こう。
 ルネはそう決めると立ち上がり、バスタブにお湯を張り始めた。

 湯舟に浸かっている間に、部屋の方から、スマホが鳴るのがわずかに聞こえた。
 メール着信のメロディだ。
 お風呂から出てチェックすると、案の定、修吾からだった。
〈これからは週末だけじゃなくて、平日の夜も会いたいんだけど、どうかな〉
 ルネは戸惑った。
 毎週週末会うだけでもこんなに疲れるのに、週に何度も会わないといけないのか。
 ――だけど、断る理由はない。
 ルネは返信した。
〈お風呂に入ってたから、返信が遅れてごめんね。平日も都合が合えばお会いしたいです〉


 次の月曜日。
 ルネは一人で、ROSYのライブが行われたライブハウスに行った。
 ライブがない日は、ティールームになっている。
 店は空いていた。二組の客がいるだけだった。
 テーブルに着いたルネは、ここで夕食を済ませようと思い、パスタセットをオーダーした。
 しばらくスマホをいじりながら待っていると。
 ドアが開き、ひと組の若い男女が入ってきた。
「!」
 ルネの脈が倍に跳ね上がった。
 その男女の、男の子の方が、ミコトだったのだ。
 二人は、ルネから離れたテーブルに着いた。
 ルネは、魔法にかかったように、ミコトから目が離せずにいた。
 この店に通いづめるようになれば、いつかミコトに会えると思って来た。
 確かにそうだ。
 だけど、こんなに早く会えるなんて。
 ――でも。
 連れの女の子は、きっと彼女に違いない。
 やはり少しがっかりしたが、すぐに思い直した。
 ミコトにそういう女の子がいることは、多少覚悟していたことだし、第一ルネにだって修吾がいるのだ。
 歌手とファン。
 それ以上の関係を求めたら、罰が当たる。
 そこに、パスタセットが運ばれてきた。
 ルネはパスタを食べながら、二人の様子を見ていた。
 何やら、深刻な話をしているようだ。
 もしかして、女の子の方が、
「できちゃったの」
 とか言ってるのだろうか。
 いけない妄想を膨らませてしまうルネだった。
 その時。
「最低!」
 女の子が叫んだかと思うと、立ち上がり、ミコトにお冷をぶっかけた。
「――!」
 店中の視線が、ミコトと女の子に集中した。
 そんな中、女の子は泣きながら店を出て行った。
 ミコトは、濡れたまま俯いていた。
 ルネは、思わず立ち上がった。
 ずぶ濡れになったミコトもまた泣いているような気がして、いてもたってもいられなかったのだ。
 ルネは、うつむいているミコトにハンカチを差し出した。
「どうぞ」
 ミコトは、驚いてルネを見たが。
「――ありがとう」
 ルネからハンカチを受け取ったミコトは、そのハンカチで顔を拭いた。
「洗って返します」
「いいですよ」
「そうもいきません。今度いつここに来ますか?」
 その急な展開に戸惑いながら、ルネは、心の奥で沸々と湧き上がってくるものを感じていた。
「じゃ、明日はどうですか?」
「明日は俺バイトなんです。終わるの夜中だから……」
「じゃあ……」
 あなたがバイトしているお店知ってるから行きましょうか? と言いかけて、ルネは詰まった。
 ミコトがバイトしているお店まで知ってるなんて、まるでストーカーじゃないか。
 ルネが黙っていると。ミコトは携帯を取り出した。スマホではなかった。
「また連絡します。メアド教えてもらえますか?」
「えっ?」
 ルネは内心、どうしよう、と思った。
 展開が早すぎる。
 でも、これは願ってもないチャンスだ。
「わかりました」
 ルネは自分のスマホをテーブルから持ってくると、ミコトの携帯と突き合わせ、赤外線でメアドを交換した。
「ありがとう。それじゃ」
 ミコトは席を立ち、勘定を済ませると、店を出て行った。
 ルネもテーブルに戻り、食事を再開した。
 そして、思った。
 ROSYのライブがどれだけよかったか、ミコトに伝えるのを忘れた。
 あまりに急展開で、それどころではなかった。
 でも。
 ルネは一人にっこりした。
 ミコトの携帯の番号とメアドを知ることができた。
 今日の収穫は多かった。
 食事が終ったルネは、受付で次のROSYのライブのチケット――来週の金曜日だった――を買って帰った。


 帰りの電車の中で、スマホがメール着信を告げた。
 ミコトからだろうか。
 わくわくしてスマホを取り出したルネだが。
 発信者は修吾だった。
 ルネは、正直がっかりした。
〈明日の夜、池袋のパスタ屋さんで食事しませんか?〉
 明日か。急すぎる。
 でも、断る理由はない。
 それにしてもこの人、パスタ屋しか頭にないのだろうか。
 ルネはうんざりしながらも、返信した。
〈わかりました〉


 その日修吾は、ルネを会社まで迎えに来てくれることになった。
 ルネは、少し決まり悪いような気持ちで、会社の前で待っていた。
 キスした修吾と、まともに顔が見られるだろうか。
 今日もキスされるのだろうか。
 そんなことを考えていると、修吾の車が来た。
「ごめん、待った?」
「ううん」
 修吾は、今までと全然変わらない雰囲気だった。
 車に乗り込みながら、決まり悪いのは自分だけかと、ちょっとがっかりした。
 そりゃそうかもしれない。
 修吾はもう三十歳を過ぎているのだ。
 ルネが初めてのキスの相手ってわけでもあるまいに。
 それにしたって、もう少し恥じらいみたいなのを見せてくれたっていいものなのに。
 それから。
 車の中で、修吾とたわいのない話をしながら、ルネは気が気ではなかった。
 今、冗談を飛ばしている修吾の唇が、いつまたルネに迫ってくるかと思うと、大げさかもしれないが、生きた心地もしなかった。

 車を駐車場に止めて、お目当てのパスタ屋に歩いて行くまでの間のことだった。
 修吾は、黙って手を差し出してきた。
「……」
 拒絶するわけにもいかず、ルネはおずおずと修吾の手に触れた。
 この暑さだから仕方ないにしても、修吾の手汗にルネは気分を害した。
 それに、手をつないで歩くなんて、それこそ十代の若いカップルがすることではないか。
 お店に入り、席に着くと、とりあえず修吾と手を離すことができて、ルネはほっとした。
 そして、修吾に握られていた手を、おしぼりで入念に拭いた。
 また修吾と世間話をしていると、一人の年老いた男性客が、ルネたちのテーブルの隣に着いた。
 その時だった。
 修吾はぴたりと話をやめて、何かルネに目くばせした。
「え?」
 修吾は唇だけ動かして、何か言おうとしている。
「何?」
「ちょっと待ってて」
 修吾はスマホを持って、席を外した。
 何だろうと思っていると、ルネのスマホが、メール着信を告げた。
 今度こそミコトかと、ドキドキしながらスマホを取り出したが、何と、今席を外した修吾からだった。
〈隣のじじい、感じ悪いよ。さっさと食って出ようぜ〉
 ルネがその文面を見て固まっていると、修吾が戻ってきた。
「そういうことだから」
「う……うん」
 ルネは曖昧な表情を見せるしかなかった。

 食事を済ませ、店を出たルネは、修吾と手をつなぎたくありませんという意思表示で、二つある手提げカバンを両手に持った。
 すると。
 修吾はルネの肩を抱いてきた。
 行き交う人は、みんな二人を見ている。
 実際はそうじゃないかもしれなかったが、ルネにはそう感じて、恥ずかしくてならなかった。
「参ったね。ああいうじじいやくそガキが最初から席にいれば、他の席に着けばいいけど、あとから入ってきて隣に座れらたんじゃたまんないよね」
「ええ……」
 ルネの笑みはひきつってしまった。
 ルネだって、一人で食事やお茶している時に、隣のテーブルにグループ客が来てわいわい始めた時などは、正直参ったと思う。
 だけど。子供やお年寄りに冷たい修吾のことは、どうしても好きになれなかった。
 この人と、これからもずっと付き合っていかなければならないのだろうか。
 この人と結婚しなければならないのだろうか。
 いずれは、この人に抱かれるのだろうか。
 そう思うと、ルネの人生も終わってしまったような気分だった。

 ルネと修吾は、喫茶店で時間をつぶし、いつものように、修吾はルネを車でアパートまで送ってくれた。
 その時。
 車の中で、修吾の唇がルネに近づいてきた。
 ルネは抵抗する術も知らず、目を閉じるしかなかった。
 修吾の舌が押し入ってくる感覚に、ルネは嫌悪を感じた。
「それじゃ、また連絡するよ」
 ルネはそれには答えずに、お礼だけ言って車を降りた。


 部屋に戻り、いつものようにROSYのCDを聞きながら、ルネは涙がこみ上げてきた。
 やっぱりだめだ。
 修吾とは付き合えない。
 別れよう。
 そう思ったら、涙はあとからあとからあふれ出て、止まらなかった。
 ほどなく、スマホが鳴った。通話の音楽だ。
 ああ、また修吾からだと絶望の中で携帯を取り出すと。
 発信者は。
 ――ミコトだった。
「もしもし」
「青山さんですか? 夏木ですけど」
「はい、こんばんは」
 ミコトの声は、歌っていなくても、ルネを癒してくれるらしい。
 でも。
 ミコトは、ルネの鼻声にすぐに気づいた。
「あれ? ――泣いてました?」
「え、ええ、ちょっと。何でもないんです」
「そうですか。ところで、ハンカチ明日返したいんですけど」
 二人は、明日の夜いつものライブハウスで会うことを約束した。
「それじゃ」
 ルネが電話を切ろうとしたその時。
「あれ、もしかして、気のせいかな。俺たちのCDかけてます?」
 ルネが部屋で聞いていたROSYのCDが、ミコトにも聞こえていたんだ。
「ええ、まあ……」
「嬉しいなあ、ありがとう」
「いえ、ミコトさんの唄、素敵だと思います」
「ありがとう」
「それじゃ、お休みなさい」
「うん、また明日」
 ルネは電話を切った。
 ミコトの声を聞いて、少し救われたような気分になった。
 それからほどなく、今度は修吾からメールが来た。
〈週末食事できるようなお店探しておくよ。どこがいい?〉
 ルネは、それには返信をしなかったばかりか、修吾を着信拒否した。