適齢期なんて、誰が決めたんだろう。
婚活なんて言葉、誰が作ったんだろう。
そして、自分もそんな言葉がうざく感じる年頃になったのか。
同期入社した四人が四人、去年から今年にかけて寿退社し、ルネ――青山瑠音だけが残った。
まあ、四人でがっちり固まって、ルネはそこには入れなかったから、彼女らが辞めて行ったところで、淋しくはないが。
ただ、ひとつ傷ついたことがある。
四人はそれぞれの結婚式に、仲間の三人だけ、ルネを除いた三人だけを招待していたのだ。
ルネは二十六歳にして、結婚式に呼ばれたことがない。
学生の頃の友人も、卒業したらそれっきり。
SNSの友人とオフ会で会うことはあるけど、本当の名前も知らない人ばかり。
そしてもう一つ。
ルネは彼氏いない歴二十六年だった。
田舎の両親がいい人いないのかだの、孫の顔が見たいだの言うけど、ルネにはどうすることもできなかった。
彼氏どころか、友達もなかなか作れないタチなのだから。
就職して五年目。ある夏の金曜日の夜だった。
「えっ?」
SNSのオフ会の帰り道、ルネは振り向いた。
「ええ、だから」
修吾さんと呼ばれていた、三十過ぎの男性が、ルネにもう一度言った。
ガタイがしっかりした、いかにも中堅サラリーマンと言った感じの人だった。
「僕と付き合ってくれませんか?」
「……」
初めて、告白された。
その意味を考えようとしているルネに、「修吾さん」の言葉がかぶさる。
「あ、僕、苗字も言ってませんでしたね」
と、「修吾さん」は名刺をルネに渡した。
そこには建設会社の名前と、宮川修吾という名前が載っていた。
「宮川さん」
ルネが声に出して言うと。
「修吾でいいですよ。てゆうか、敬語もやめよう」
「ええ」
「ルネさんは、本名はなんて言うの?」
「私、ルネは本名なの」
ルネが、はやる心を押さえながら答えると、修吾は人懐っこい笑顔を見せた。
「漢字は? って訊く前に、アドレス交換しちゃった方がいいね」
「え、ええ」
二人は、スマホをくっつけて、赤外線でアドレスを交換した。
それが済むと、修吾は携帯を操作した。
「瑠音さん、素敵な名前だね」
「ありがとう」
「早速だけど、明日、食事に行かない?」
「あー。ごめんなさい」
ルネは、両手を合わせた。
「明日は用事があるの」
「そう。じゃ、あさっては?」
「うん、いいよ」
「わかった。それじゃ僕は二次会行くから」
修吾は手を振って、ルネから離れていった。
ルネは信じられない気持ちで、修吾の背中を見送っていた。
「……彼氏が……できたんだ……」
声に出して言うと、急に喜びが込み上げてきた。
ルネは踊り出したい気持ちで、駅までの道を小走りに進んだ。
帰宅したルネは、棚の引き出しを開き、封筒を取り出した。
ネットオークションで買った、一枚のチケット。
アマチュアバンド、ROSY。
たまたま、会社の近くのライブハウスで行われるというし、アマチュアバンドということで、比較的安値で買えたので、同僚の女の子たちのことを忘れて、気分をリフレッシュするために買った。
ルネはいつもおひとりさまだ。
映画もコンサートも食事もショッピングもお茶も。
だけど。
これからは修吾が一緒だ。
このライブが、ルネの最後のおひとりさまだ。
修吾に言った「用事がある」というのは、このライブのことだった。
ルネは一人にっこりすると、バスルームに入り、バスタブにお湯を張った。
入浴を終えてベッドに入っても、なかなか寝付けないルネだった。
興奮している。
ルネにもついに春が来たと思うと、目がさえてしまう。
そして、何気なくスマホに目をやると、いつの間にか修吾からメールが来ていた。
マナーモードを解除するのを忘れていたから、気付かなかったのか。
〈今日はありがとう。あさって会えるのを楽しみにしています。また連絡します〉
ルネは一瞬、返信しようかと思った。
でも、時計は夜中の二時になろうとしていた。
修吾も寝ているかもしれない。
そう思ったルネは、再びベッドに入り、今度はすぐに眠りについた。
土曜日の夕方五時をちょっと回った頃だった。
地下に続く階段を下りるごとに、ひんやりとした空気がルネを包んだ。
ライブハウスは、心地よいエアコンが効いていた。
「いらっしゃいませ」
ライブハウスの入り口で、男性の店員に声をかけられた。
「今日のバンドは、CDも作ってるんですよ。ライブ聴いて気に入ったら、買って行ってね」
ルネは曖昧に頷くと、中に進んで行った。
客はみんな、中高生の女の子たちだった。OLのルネは、少し居心地が悪かった。
そこで、柵の後ろ側に立った。
「どうぞ、前に詰めて下さい」
さっきの店員がやってきて、ルネに声をかけたが。
「いえ、ここでいいです」
「そうですか。それじゃごゆっくり」
店員の背中を見送りながら、ルネは修吾のことを思った。
修吾は確か三十三歳。二十六歳のルネとは、年齢的にも結婚することになるだろう。
宮川瑠音になるのか。
二人の生活って、どんなだろう。
と、そこまで考えた時、客電が落ちた。
女の子たちが、黄色い歓声を上げる。
黒い衣装に身を包んだ、いかにもロックやってますって感じの男子が三人出てきて、それぞれの位置に着いた。
それに続いて、最後に出てきた男子が、真中に立った。
彼を見た瞬間、ルネは体の奥がとくんと鳴るのがわかった。
彼は、浅葱色の肌襦袢のような衣装を着崩して、同じ色の布を額に巻いていた。
肩につくかつかないかの髪を、毛先だけ赤く染めている。
瞼の上と唇に紫系の化粧を施していたが、顔立ちはまだ幼く、中性的でもあった。
緊張しているのか、マイクスタンドに添えた手が、小刻みに震えている。
その様子に、ルネは思わず、祈るように両手を胸の前で握りしめた。
「ミコトー!」
女の子たちが呼ぶその名前が、彼の名前らしかった。
ミコトは、深く息を吸い込むと、歌い始めた。
〈えっ?〉
音取りも、スティックカウントもなく、いきなり彼のアカペラから始まった。
〈絶対音感があるんだ〉
あとで冷静に考えれば、バンドをやっているなら当たり前のことなのだが、その時ルネは感動した。
そして。
ミコトの声は、透明な水のように澄んでいて、ルネのハートの中に沁み入ってくるようだった。
手を振り上げて踊る女の子たちの中で、ルネはただただ立ち尽くしていた。
ライブは、一時間ほどだった。
「皆さん、今日はありがとう」
ミコトは、息をはずませながら、ファンの子たちにお礼を述べた。
「今日最後の曲です」
最後の曲はバラードだった。
しっとりと歌いあげるミコトの背後に、ルネには水面が見えた。
太陽と風にさらされ、きらきらと揺れている水面が。
そしてその水は、ルネの中で、指先にまで満ち満ちてくるのがわかった。
曲が終わり、彼らがステージを去っても、ルネはアンコールすることさえ忘れていた。
アンコールも終わり、観客たちが帰り始める中。
ルネは、彼らが作っているというCDを手に取った。
「どうでした? ライブ」
さっき入口で声をかけてきた店員が、再びルネに声をかけた。
ルネは、少し迷って、切り出した。
「あの……ミコト君って……」
「ああ、ミコト。ボーカルの」
ルネは頷いた。
「何、彼のファンになっちゃいました?」
軽快に話しかけてくる彼に、ルネは照れ笑いした。
「じゃあ、ぜひCD買ってって下さい。ミコトも喜びますよ」
何だか、うまく乗せられてしまったような気もするが、ルネは一番新しいというそのCDを買って帰ってきた。
出待ちしようかと思ったが、それこそアラサーの女性のすることではないと思い、まっすぐ帰ってきた。
歌詞カードを開く。
「ボーカル・夏木尊」
尊と書いてミコトと読むのか。
ずいぶん幼い顔だちをしていたけど、まだ十代なんだろうか。
なんだか、ミコトのことをもっともっと知りたい気分になった。
その時、携帯が鳴った。
修吾からだった。
「もしもし」
「ルネちゃん? 僕、修吾」
「はい、こんばんは」
「昨日あれからメールしたんだけど、返事が来なかったから、どうしたのかなと思って」
「すみません。今からしようと……」
返事をしながらルネは、何それ? と思った。
あれから、まだ二十四時間もたっていないのに、返事を催促するなんて。
それに、メールの内容からして、すぐに返事をする必然性は感じなかったのに。
「ああ、今日は用事があるって言ってたね」
「ええ」
「ルネちゃん、パスタは好き?」
「はい」
「パスタのおいしいお店見つけたんだ。明日の昼一緒に行こう。家まで迎えに行くよ」
「ええ。でも、私の家わかる?」
「住所教えてくれれば、ネットで調べる」
「わかった。じゃ住所はメールするね」
「うん。それじゃ、お休み」
「お休みなさい」
ルネが先に電話を切った。
そして、もう一度CDを手にした。
昨日彼氏ができたばかりだというのに。
ミコトを思うと、とたんに修吾がかすんでしまう。
翌日の日曜日。
ルネは修吾に連れられて、新宿にあるパスタ屋に入った。
店は日曜日の昼時にしては、比較的空いていて、修吾はこういう穴場を探すのが得意なのかな? と、ルネは一瞬思った。
「いらっしゃいませ、おふたり様ですか?」
「はい」
修吾が返事をするのを、ルネは少し嬉しく聴いていた。
ずっと、「おひとり様ですか?」と言われていたのだ。
「おタバコお吸いになりますか?」
店員の言葉に、修吾は振り返った。
「ルネちゃん、タバコは?」
「いえ、私は……」
修吾は向き直った。
「じゃあ、禁煙で」
「かしこまりました」
店員に連れられて、ルネは修吾の後をついていった。
「こちらのお席でお願いいたします」
店員が示した席の隣には、ベビーカーに乗せられた赤ちゃんと、二歳半位の子供を連れた若い夫婦が食事をしていた。
その時だった。
修吾は、窓際の席を指して言った。
「あっちの席でもいいですか?」
店員は少し驚いたようだが。
「かしこまりました」
と、ルネと修吾を案内した。
窓際の方が、外の景色が見えていいのだろうか。ルネは思ったが。
席に着いてから、修吾は小声で言った。
「俺、子供って苦手なんだよね」
「はあ……」
「こういうカップル向けの店に、くそガキ連れてくるなってんだよ。ねえ」
「……」
ルネは、曖昧にほほ笑んだが、内心幻滅していた。
ルネだって、子供が大好きってわけではないけど、そんな風に思ったことはなかった。
でも。
今まで、ルネに親友も恋人もできなかったのは。ルネに問題があるのだ。
そんなルネに釣り合うのは、修吾くらいの人かもしれない。
そう思うと、少し淋しく感じた。
「あの」
ルネは、さりげなく話題を変えた。
「修吾さん、ライブとか興味ある?」
「それって、十代の若い子が行くところでしょう」
と、修吾は一蹴した。
「ええ――そうよね」
どうやら、ROSYのライブはこれからもおひとり様になりそうだ。
それでもかまわない。
遠くで、ファンの一人として、見つめているだけで構わない。
ミコトを見つめていたい。
ミコトの唄を聴きたい。
「ルネちゃん、ひょっとして緊張してる?」
「えっ?」
「いや、何となく」
「……いいえ……」
修吾に言われて、この場所でミコトのことばかり考えていた自分を恥じた。
「気楽に行こうよ。何も今夜これからホテルへ行こうとか考えてないから」
当たり前よ! ルネは出かかった言葉を呑み込んだ。
食事が済むと、修吾は車でルネを送ってくれた。
「今日はごちそう様」
ルネはお礼を言って、車を降りた。
「またメールするよ」
「ええ」
ルネはすぐにアパートに入った。
そして、もうデッキに入っているROSYのCDを再生した。
正直今日は疲れた。
修吾と一緒にいると疲れる。
ずっと彼氏がほしいと思っていた。
でも、できてみると、こんなに息苦しいものだったのだろうか。
みんなこんな思いをしているのだろうか。
――でも。
修吾はルネを好いてくれているのだ。
疲れるなんて言ったら罰が当たる。
楽しまなきゃいけないんだ。
ミコトの涼やかな歌声に心を委ねながら、ルネは自分にそう言い聞かせていた。
と、携帯がメール着信を告げた。
修吾からだった。
〈今日は楽しかった。銀座にもパスタのおいしいお店あるから、来週末行こう〉
ルネは息を詰めて、しばらくその文面を眺めていた。
そして、大きく吐息して、ひとり首を横に振った。
やっぱり、楽しいなんて思えない。
毎週週末会うなんて、負担以外のなにものでもない。
でも、そんな風に思ってはいけないのだ。
毎週会っているうちに、楽しめるようになるかもしれない。
今日はだめだったけど、修吾のよさがわかる日が来るかもしれない。
修吾からのメールは、すぐに返事をしないと、また催促の電話が来る。
ルネは返信した。
〈ありがとう、楽しみにしてます〉